2022-12-28

最後の息


 



①…また久しぶりになってしまった、自宅にただいま。大屋さんがサンタさんになって自宅のドアノブにお菓子をさげてくれていた。
②…祖父の命日、実家の押入れに座る二匹の謎の生物と目が合う。ニヒルな笑いとはこんな感じだろうか。小さい私に作ってくれた手製の人形。
③…なんて素敵なクリスマスプレゼント!手紙とともに頂いた絵。何度も読み返して、何度も眺める。

「ブランコ」読み終わって数日。大切な漫画になったが、好きな漫画を読み終わった時のような喪失感が一切無く、これは何なんだろうと不思議な心地でいる。感情移入を越えて実体験みたいな出来事の数々にヒーヒーしながら読んだ。
新しい価値観が生まれた訳でもなく、悩みを解消してくれた訳でもなく。この物語から私に与えられたものは、多分ない。寧ろ、持ってた希望を全部奪われたようだった。そしてこの物語の結末は、私の人生の結末のようだと思えてならならなかった。

(穏やかに暮らしたり、理想の人になる事も、誰かのためになる事も出来なかった。知りたかった事は何も解明できなかった。伝えたかった事だって、ほとんど伝えられなかった。何者にもなれず、私は、何もできずにとうとう人生の果てに来てしまいました。)
未来の私は自分の人生を言い訳だけで語ってる。
そんな未来の姿を知ってしまったら、自分は狂うと思っていた。(これは妄想の世界だけど、)実際は真逆で、かつて無いほどに安心させられたのだった。

私に必要なものは、様々なものに対しての諦めだった。
諦めてからやっと、いろんな事が見えてきた。視界が狭くなった変わりにくっきりと見えるようになった。ぼやけた部分を空想で補う必要がなくなった。
何もできないし、自分の事は出来るだけ信じないつもりだが、未来に抗いたいという気持ちだけを頼りにしてやっていこう。それでいいのだ。それしか無かったんだ。
…という気持ち。

すさまじく抽象的な話ばかりで、一体私は何と戦っているのかと思われるでしょうが、私はいつも日常と戦っています。日々を暮らす中で発生する、しょうもない選択問題や物事の捉え方にいつも頭を抱えているのです。
絵を描くと色々な事を解決させられた気分になる事があり、自分が私が絵を描いている訳ではなく、描かされているのかもしれない、と思います。

今年は皆さんの影や気配に励まされて踏ん張れた気がします。
敢えて、その事についての感謝の気持ちは述べない事にしてみます。

でも、このブログを読んでくれて、ありがとうございます。
…それだけは言わせてほしかった。
 
 


みなさん、よいお年を。
よい夜と、よい夢を。

2022-12-26

散歩をしましょう



今日はKさんと、川原を散歩しながら長電話。
雲が全然ない眩しい晴天。枯れた紫陽花の枝の上にたくさんの雀がとまってた。風が強くて、目の前をいろんな鳥がバサバサ飛ぶ。あんまり気持ち良さそうに飛ぶので、私も飛びたいと思った。実際、タケコプター渡されても怖くて使わない気がするが。
Kさんの作った紙媒体の2号が面白かった。本文面には短編小説が書かれてて、裏面には読み終わったら紙飛行機にして飛ばしてね、と書いてある。私にはそんな清々しいこと出来ない。
もうすぐ引っ越す予定だが、引っ越し先は家どころか地域も決まっていないので気になる土地をひたすら歩いてみようかと思っている、と聞く。
私はそんなKさんの事を異星人のように思った。だいぶ離れている。簡単に壊れてしまう関係のような気もする。惹かれるのは何故だろうな。
彼女が心の窓からのぞむ景色は、どんなんだろう。新幹線の窓みたいに、目まぐるしく変わる中生活してるのかな。それとも、そもそも室内じゃないとこで暮らしてて窓とか無かったりするかな。なんて。

人と散歩をするのはなんて贅沢なことだろう。交わりなんてなくたって、もう私は満ちているのに。人生の醍醐味か。
これまで一緒に散歩した人たちを思い出すと、頭のなかで景色や温度、そしてそのときの会話が吹き出しのなかで再生されて描かれる。あなたの事がこんなにも分からなくて淋しい。でも一緒に歩けたのが嬉しい。
会話には、キャッチボールも論破も助言も本当は必要ないんだろうな。気持ちだけ。

2022-12-22

みらいさん

 



 家族みんな私のような人だと勘違いしていた。だから猫の命懸けの手術が決まった時同じくらい心配だった。
しかし手術中に家で待機しているとき、嘆くのは私だけだった。家族は案外、全然、たくましかった。なんなら猫もそうであるように思われた。
自分が救われる事しか考えられないところが嫌だ。優しいって何だろう、可哀想ってどんなことだろうと繰り返し考える。痛いのは可哀想だ、だから代わりたい。でも寿命が来る事って可哀想な事なのか。体が朽ちて何処かへ帰る事を阻止するのって、本当の優しさなのか。死って、痛いのか。わからない。わからない。
…いやでも、本当はもうわかってるんだろう。わかってるのを認めたくないんだろうなあ。
 
弱いのは(弱く見せる事なんかで助からないくせに助かろうとすがっているのは)私だけだった。 家を出て四年くらい。家族の印象は何度も変わった。ひどく脆いように思っていた。幻想だったのかもしれない。
ただひたすらに、私の事を考えなければいけなかった。他人への無意味な心配をする事で、自分とちゃんと向き合う事から上手く逃げていた。優しい人になりたいなら、まずはそれをするべきだった。私が私として立って歩く事って、それは誰かにとっての「優しさ」である。誰かを抱擁したり、待つよりも。私は、そう思う。今は。
 
冬の雨の日は寒く暗い。朝(※昼)風呂浴びて出て来たら日が射していて嬉しい。花を描こうと思って、さっきまでつけてた暖房を消した。日も沈むし、花も枯れるから、早く描くべきだが、焦らない事にした。こうして文章を作ることも、確かに自分に必要な作業である。絵と向き合う時間よりも大切な時間が、絵具を重ねるよりも大切な事がある。それは花の事を考えたり共に暮らすことや時間。こう思えるようになったのは、自分にとっては大きな変化。
さっき少し「ブランコ」を読んでいて、「みらい」さんからの手紙が届くシーンがあった。私のブログって「みらい」さんになれるとどこかで信じてやってるのかな、と思った。まだ三巻。
 
 
外は完全に晴れて来た。雨上がって綺麗な天気。
花が意味わからんくらい綺麗。ほおずりしてみた。
繊細そうで、さわったらくずれてしまいそうなはなびらは、案外厚みと弾力があり、儚げなんて言葉はふっとばされた。思ったより強い。こんなこと前も思ったような。しかし触れないと分からない事ばかりある。私以外私じゃないの〜って歌、あった。それだ。(それか?)私はいらぬ心配ばかりしている。滑稽で、私はギャグ漫画みたいな人生だと思う。
 
働いてる本屋さんで夜中に酔っぱらいが尋ねて来た日、もっと夜更けに酔っぱらった人から着信があった。その時話した事、なんかすごく良かったんだけどあんまり覚えていない。
昨日はこれまたなんかすごく良い手紙を受け取った。
どっちについても何が良かったかってうまく言葉に出来ないけれど、言葉にしない方が良い事かも知れん。言葉という形にならずとも、伝えたい事はいつか勝手に出てくるだろうから。


先日の夢。
実家の猫が、他の動物に変化して私の腕から逃げたくて暴れていた。色々な動物に変化したのち、湖に飛び込んでしまった。湖の中に入って探して見つからなかった。とても怖くて悲しい夢だった。

今日の夢。
大学生になって、誰ひとり友達がいない。映画サークルに入ったら、疎外感が半端なくひたすらに居心地悪い。文化祭、映画サークルの場所が分からずウロウロ。人ごみがホントにつらい。電話で退部すると伝えようとするが、仲良くない故誰の連絡先も分からず。いやな夢だった。
夢でよかった。今日も。 

2022-12-11

ここは美しい星


今このタイミングで「ブランコ」に出会ったのも、なんとなく入った本屋でウィスット・ポンニミットの来年度のカレンダーを勢いで買ってしまったのも、切実に私に必要な成分が含まれているからかもしれない。
涙が目から溢れそうになるのも鼻水が垂れてくるのもアレルギーだからだと思うことにした。自分をそんなに弱い、弱いと思ってたって何も成れない。
電車で、失うことを想像していた。自分の体の真ん中にゴッソリ大きな穴が空いている。こんなに広い世界なのに、探しものはどこにもなかった。想像、というか妄想の中で私はわかった。探し物…体のくりぬかれた部分は、毎日帰る家のなか、埃の被ったタンスの一番下の方にしまってあったんだった。居ても居なくても私はずっと私の形をしているのだった。ずっとあったものが、「淋しさ」に変わるだけ。

優しさについて考えている、ずっと考えている。「ブランコ」は、まだ少ししか読めていないけれどやさしい。
猫の1年と人間の1年は全然違うという話を聞いてクラッと来た。同い年くらいに思ってた猫は人間の年齢にするともう70代であった。私が死ぬまで生きてほしい、というのはやさしさからかけ離れている。
時間の流れる速度が私と猫と全然違っていたんだなと今さら気づいて、ああ、となる。
「やさしさ」「愛する」「祈り」。
猫の手術が終わって無事だったとメールが届いて、嬉し涙が出た。きっと、この涙は本物だ。偽物、本物と振り分けるのは好きではないけど、もう言い切りたいほどにそう思った。これからの人生、私はこういう涙だけ流して生きたい。恐怖から逃避するだけの日々をやめて、私の思うやさしい人になりたい。なにかを愛せる人になりたい。失ったときの淋しさは、愛の裏返しなんだから。私が欠けることなんて無いのだ、祈るべきは私事なんかじゃなくて、対象の幸せ。宇宙でたったひとつのルールが適応される。


2022-12-09

夢の記録 2022-12-09


夢の記録。
角の丸い三角形の雲が浮かぶ秋晴れの日、自転車を押して歩いていた。目的地は何かの祭りをやってる高架下。小学生の時の同級生・少しヒステリックな側面を持つミナミちゃんと待ち合わせていた。ミナミちゃんは徒歩だったから、私は二台持っていた自転車を貸してあげて、二人で自転車を押しながらえらく長い高架下を歩いた。ふと見上げると、空がおかしなことになっていた。壊れかけた機械のように空の水色が急に真っ白になったり、雲がすごい勢いで上がったり下がったりしていた。空がそんなことになってるよとミナミちゃんは教えてくれた。私はいつも、夢の中の空が不穏だと物凄く不安になる。今回も、もうじき地球は滅亡するんじゃないかと感じられた。怖かった。だから早足で高架下に向かった。祭りは人で溢れていて、道路は自転車で埋め尽くされていた。駐輪場は当たり前のように満員だったから、ふたりで道路に停めた。
高架下はとても長かった。私はカメラをさげて、ふたりで高架下のはじっこを目指して歩いた。はじめはただの高架下だった。ゴムの道(ゴムでできたみたいな道の事をこう呼んでます)、コンクリートの道を経て、急に地下の駅のホームになった。そこが一番混雑している場所だった。人混みが嫌で走って進むと狭い廊下に温泉街があった。そこも通り抜けると急に列車の一番はじっこの車両にいた。そこから見える夕暮れの景色が美しくて、シャッターを切った。まばたきするごとに変わる車窓の景色。涙出そうになるくらい綺麗な夕暮れ。ずっと見ていたかった。地球が終わるときの夕暮れだから綺麗なんだろうな、と思った。ミナミちゃんはそろそろ帰ろう、と言う。わかった、と返して来た道を戻る。この人混みの中、殺人事件があったみたい。駅のホームでたくさんの警察がバタバタしている。犯人が見つからないとの事。殺される前に帰らねば、と私たちは急いで高架下を抜ける。さっき停めた場所に自転車がなくなっていた。誰かが駐輪場に移動してくれたのかもと思って、暮れかけて少し暗い中で自転車を探す。向かいに自転車を回収する警察たちのオフィスがあった。ああ 
、違法駐車していた自転車はみんな回収されてしまっていたのかと納得。警察署は自転車の違法駐車の対応に加え、殺人事件の発生で建物外からでも混沌としているのが分かった。警察の何人かが窓から飛び降りて死のうとしていた。多分おかしな空も関係しているのだと思う。なんか気が狂いそうな天気をしてる。怖くてバスで帰ることにした。バスの窓はガラスが全部割れていて、通りがかりの知らぬ人みんなに声をかけられる。つぶれたおにぎりが余ったから貰いませんかと話しかけて黙っていた。怖くてしかたがなかった。ああ、明日と明後日は予定があるのにいつ自転車をとりにいこうかなと考えたところで、起きた。

高校生の時のある朝に、満員電車で怒鳴り声が聞こえた。その声はミナミちゃんだった。小学生の頃とあまり変わらずかわいい顔のミナミちゃんだった。私はその時、なんだかとっても心配になってしまった。
ごめんね、って思ってる。
理由はわからない。
あれから一度も見ていない。
元気だといいな。

2022-12-07

太陽と月


実家の猫の検査結果が悪く、数値がこのまま変わらなければ手術だというメールが母から届く。その日から息するたびに喉にボールが入ってるみたいな違和感がある。
心配で、体がうまく動けなくなる事もある。情けない。死ぬことが怖い。大切な人や大好きな猫が、私が今生きてるこの世から居なくなってしまうことが怖い。なんて強欲なんだろう。自分だけ大丈夫になるように、最悪の事態を妄想して耐性をつけようとしている。悪夢で何度も皆が死んだ。起きて夢でよかったと安心して、結局耐性なんかつけられない。怖いことから、逃げれない。だれかの痛みに寄り添うこと、当然のように出来ない。
その日見た夢では、私は大好きな猫を抱いて町へ繰り出していた。そのまま電車にのった。だっこされるのが嫌いだから、何度も腕から逃げようとされた。私は絶対離すまいと、強く抱いて移動していた。

この前聞いていたラジオで高山なおみさんが語っていた死生観が、こうしてダメになっているとき度々頭によぎる。穏やかに澄んだ声で大切に言葉が紡がれた。ひどく安直に、私もああなりたい、と思った。死ぬことや老いることが悪いことだとは限らないという事。美しいことかもしれないということ。忘れること、失うことは、もしかしたら本当はネガティヴな事ではないのかもしれないと、一瞬だけだけど感じられて、その時本当に、本当に救われた。
私が今、こんな絵を描くのは今世に未練がたくさんたくさんあるからかもしれない。こんな絵というのは、自分さえも救えないような絵の事である。最近ひどく実感する。社会のためだとか鑑賞者のためだとか思い込みながら描いている時があるけれど、実際のところその時の自分の為だけにできた絵のような気がする。その時の自分はもう二度といないから、確認して安心するためだけに生まれてるかもしれない。
私から嘘を全部取っ払ったら泥だけが残る。私から発せられる綺麗なものは所詮すべて綺麗事だ。悔しい。憎らしい。

いや、いやいや、こんなことを吐き出したけれど、全然まだ堕落してない。するつもりない。綺麗な人になりたいとずっと思ってたい。変わりたいと思い続ける。猫だって、何があっても大丈夫だと、思ってる。
最近事あるごとに、誰か助けてくれと思ってしまう自分がよわっちくてとても嫌だ。日が暮れると悲しくなってくるのも嫌だ。最近すごく弱くなって嫌だ。直したい。

2022-12-03

覆われた窓



ドリップバックからしたたるコーヒーの粒をみていた。
コーヒーの水滴が、落下する時には丸くなり、消える。その繰り返し。表面張力の威力はとんでもないものだっていつか聞いたが、生まれてから消えるまでのその早さが、なんか呆気なく思って笑えた。
新しい絵を描こうと思って、ブロックタイプのスケッチブックから昼出来た絵を破れないように慎重に剥がした。剥がしている時、急にその絵を憎らしく思い、破りたい気持ちになった。さっきまで惚れ惚れしていた絵である。なんというか、ここで本当に絵をビリビリに破いたら、ちょっと狂人っぽいというか、これをやってしまったら私はダメになるんじゃないかと思い、破りたい、と思うだけに留め、ファイルにおさめた。いつも絵が完成すると、突き放されたような気持ちになる。なんだか今日はいつもよりもとても淋しく、くたびれた。
空想の窓辺から望めた山や美しい夕暮れは草に覆い隠されて何も見えない。
 
それから、描けないまま暮れた。
あんまりな一日だったから、こうして文章を書いてみた。空っぽさに驚いた。
 
優しさについて話した。
Yさんという、とても優しい人のトークショーの録画映像を見ていた。優しさとは何なのかなんて、もう、もう本当に分からない。言葉にもしない方がいいような気がする。しかし自分は優しさとはほど遠い人間だということは、確か。ただ歩くだけで色々なものを傷つけているような気がする。それを自覚しても全然やめる事が出来ない。
私のする事は全て、私の為にしかならない。祈る事しか出来ない。良い人になりたいとも最近は思わなくなった。

2022-11-30

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2022-11-28

祈りと呪い

 


今日は、身体が重い。曇りだからかもしれない。起きてホットケーキを焼いた。
ときどき、楽しみに読んでいるブログのひとつ。高山なおみさんの「ふくう食堂」の中の日記「日々ごはん」の最新記事で綴られた文章を読んでいて、心がゆらゆら動いた。
 
「日々ごはんは、私が生きていくために書いている。ウソを書いているわけではないけれど、私が生きたい世界を書いている。だから、自分のためで、読者のみなさんのために書いているわけではないんです」
そこまでは言えたのだけど、今朝ベッドのなかで思っていたのは、その続きの言い足りなかったこと。
(それでも、私が生きるために書いたそんな日記を、どうして書き続けられたかというと、読者の方たちが待ち望んでくださったから。そして、長い間読み続けてくださった。そのおかげで、アノニマのスタッフと力を合わせ、20年も本作りを続けることができた)
それが今朝、ようやく言葉になった。

(2022年11月20日の記事より、引用)
 
「日々ごはん」には、私の大好きな絵描きや、もう会えないかもしれない、大好きな友達が時々登場する。私はそれを見る度に、安心する。ずっとずっと、元気でいて欲しい。
(好きな人たちが、好きな人のえがく生きたい世界の中で輝かしく生きている事が、もっともうれしい)
 
先日、絵は描くけれどもう実名で世に出す事をしなくなった友達が、みんなどういう気持ちで絵を世に出すのだろうか、どうして人に絵を見せられるのか、と言っていた。
それに対して私は精一杯答えを伝えたけれど、うまく言葉にならないし結局よく分からなかった。それは承認欲求ではないか、とも言われたが、合っているような違うような。いや違うと思いたい、などと思う浅はかな私。
確かに、絵を描くのは高山さんと同じように、自分の為である。絵を贈るのも、自分の為である。自分の為ならなぜ、リスクを伴ってでも世に出すのだろう。わからない。わからないな、という思いが、それからずっと頭の片隅に居る。だからこの言葉は、今の自分にとって鍵の一部のようなものだった。

家の中、ひとり、友達のような恋人のような絵と向き合って制作をするが、完成した時には、友達はただの絵になっていて。抜け殻をそばに置いていても、虚しいだけだから。抜け出た魂は、もう窓から外へ、はばたいている。届くべき人のもとへ、バサバサと飛んでいるような気がする。私は、それを追いかけるようにして、自分も絵も傷つかないように、なるべく穏やかで良い波を持つ海辺から、そっと絵を流すように…祈りを込めて流すように、世に送り出したいと思うのだ。

そんな「日々ごはん」を読み終わってからは、北村太郎さんの事を書いたエッセイ「珈琲とエクレアと詩人」を読んでいた。有名な作品を世に放ってきた詩人や絵描きというのは、どうしても作品だけを観てしまい、その向こうに人間が居るという事を忘れてしまう。私もいつか忘れられる時が来るのだろうか。(それは本望なような、少し淋しいような) 先日、北村太郎さんの親族の方々に連絡する事があり、親族の方々は本当に親切に対応してくださった。
その時に感じた、詩人ではなく父親としての北村太郎という人間の気配。そして今回、この本の著者の知り合いである、人間としての北村太郎の生々しい匂い。詩を読むところからの想像する、詩人である北村太郎の像。それぞれからゆっくりと掘り進められ、ひとつの巨大な人間になってきたように思う。続きはまた明日、読む。

それから、昼過ぎ。いてもたってもいられなくなり、暫く連絡を取ってもいない知り合いに、急に絵を贈る事にした。
その人の近況を見て、少し涙が出た。絵を贈る他ない、なんて思ったのだった。それは同情でもなんでもなくて、むしろ暴力であると自覚している。それでも一筋の祈りのようなものを信じなければ、私の体が落ち着けなかった。
ひとつの紙から出来た8枚の小さな絵のうちの1つを、急いで梱包して発送した。ネットショップで販売しているこの絵たちは、結局1枚も売れていない。当初、制作費があまりにも足りないことから絵の販売を始めたので、その試みは失敗している。でも、不思議なことにこの絵を描いてから、〈この絵を贈りたい〉という人が何人か目の前に現れて、もう残りは僅かになった。だからこの絵を描いて、高い値段をつけて売り出したことに後悔は無い。

郵便局から家に帰って、温かいコーヒーを飲んだ。この時期の家の中のあたたかさは、どうしてかすごく安心できて、幸福を感じる。
1枚の絵とさよならした後は、不思議な気持ちになる。私はあたたかいが、絵はこれから寒い思いをするだろう。それでも大丈夫な気がするのだった。
この絵の行く先が、送った人の部屋でも、ゴミ箱でも、もう私たちは報われすぎている。祈りが祈りのまま、届きますように。

2022-11-26

水中カメラ


 
久しぶりに工藤さんの歌を聴いてきた。聴いていてこんなに淋しくなる音楽を他に知らない。とても良かった。しばらく落ち込む。最近工藤さんのライブに行った後は、いつもこうなる。昨日はちょっと寝付きが悪かった。夜は寝た方が良いなあ。
 
上の絵は、「水中カメラ」を聴いた時に思い浮かぶ景色。やっと描けた。初めて聴いた時から好きで、きっとこれからも好きな曲。皆さんも是非。
 



2022-11-22

風が吹けば未来が笑う

 


みんな本当は、自分で時間の速度を決める事も、自分で時間を作り出す事が出来るかもしれない、なんて考えた。 
漫画を描いている。パソコンで絵を描くのなんていつぶりだろうか。すぐに目が疲れてしまい、あまり捗らず。
最近、フィッシュマンズの「My Life」がちょっと恥ずかしいくらい響く。
音楽ってすごいなあとしみじみ思う。響いてるのは詩だけではなくて、演奏も声も、全部。
バンドって凄いよ。
私も出来る事ならバンドとかやってみたいな。集団恐怖症には無理かも知れんけど。
先日、Kさんと大きな公園を歩いたり止まったりして話した夜の事、毎晩思い出してる。
「嘘のない文章を書いてみてください」と話した記憶。淡々と述べるように、今日の事を。
今日も元気で過ごしました。
もう少し作業を頑張る。

2022-11-21

ひとり部屋のなか





 
朝起きたら雨が降っていて部屋が暗かった。
毎日気分が天気に引っ張られるので、明るいふりしてコーヒーとトーストで朝食をすます。
昼になって、急に晴れてきた。晴れたので外に出たい。本の注文が2件あったので、その発送と、用事と、散歩のため、西荻窪へ。
雨上がりの街はうるうる、きらきらしていて美しい。鳥の声とかも聴こえる。数週間ぶりくらいに西荻窪の自宅に戻ると(最近は知人宅に転がり込んでいました)、ポストには嬉しいお手紙と贈り物でいっぱいだった。手紙は東北から、大好きな本屋さん。贈り物は北海道から、大好きなふたり。母からの仕送りのような贈り物のなかに、お二人からそれぞれ、文字のつまった手紙が入っていた。
そういえばこの三人へは、描いた絵をそれぞれ別のタイミングで贈った事があった。
私が大切な人たちへ送ったもの、もう自分ではあまり覚えていなかったから、今日の手紙で思い出した。私が押し付けたものを大切に持っていてくれた事、その時、救われたと教えてくれること。自分勝手な祈りを暴力的に押し付けて、責められたっておかしくないというのに、お返しだと言ってこんなに愛を頂いてしまった。ちょっと泣きそうになります。

うずくまったり、転んだり、嘆いたり、社会から取り残されて眠れなかったりしながらも、なんとか一人で立つ、或いは立とうとする事が今の自分にとって重要である。
人と関わる時には、そこに手を差し伸べるでもなく、助ける事もせず。互いに、心配したり、感動したり、励まされたり報われたりする、という関わりが出来る事に、感謝してもしきれない。誰にだろう、分からない。
そんな幸せな今が続く事を、心から祈る。

さて、今日はバリバリ作業を頑張ります。手紙をくれた皆さん、最近会ってくれた人たち、もし読んでくれていたらありがとうです。一生大好きです。

写真の三枚目は、お店番をする事になった時に私の絵を好きだという女の子がわざわざ来てくれて、漫画を貸してくれた時についていた小さなお手紙。「ダイヤ兄弟」というよくわからん私のオリジナルキャラクター(?)を描いてくれて嬉しい。私の描くよりも、ダイヤが豪華になってます。
今日読んだお手紙にも、ダイヤ兄弟がふたり、描かれてました。ニコニコします。

2022-11-20

散歩


三日前には大きな公園で、同い年の編集者、Kさんと。
昨日は多摩川の川辺で、数年ぶりに会うTさんと、長い間歩きながら喋った。
普段あまり人と会わないので、少し疲れた。でも楽しかった。
公園へ向かうバスの中では、久しぶりの人へ、長い手紙を書いた。
ここ数日、人の事を考えたり、人とよく、ふれあった。

私は人の眼にどういうふうに映っているのだろう。
特定の人を喜ばすことも、特定の人を貶すこともしたくない。個人的な事だけをしていきたい。誰の為にも生きず、ただただ自分の為に生きていかねば。そういう事を健全だと思っている。健全に生きていきたい。だからちょっと人と会うのが怖い。
Kさんが私に対して希望だと伝えてくれた。Kさんにはたくさんの友人が居るみたいだけど、なんかいつも一人っぽいところが安心する。私もずっと一人がいいな。群れは怖いな。
Tさんは、私と会える事が本当に嬉しいと伝えてくれた。

このごろ3、4年前の事をよく思い出している。最近人と会う時に映る景色はあのときの景色に似てる。あの時、よく人と会っていたな。
色々あったけれど、何にも変われてないような、ひどく変わってしまったような。
数年後に今日の事を思い返して、同じ事を考えるのだろうか。

2022-11-15

まんなかをゆく

 


今日は本やポストカードを取り扱っていただけるというお店、二店へ品物を発送したのち、家でLaB LIFeを聴きながら漫画を描いたり、内職したり。久しぶりに雨が降り、外の空気は冷たかった。家から郵便局までの短い道のりで冬を感じた。
うまく働けなかったり描けなかったりしても、こうして注文をいただいて生活が出来る事が本当にありがたいです。
本や絵の感想のメッセージも。家に一人でいるのに孤独ではないような感じ。
肌にふれる空気は寒いけれど心が温かく。ありがとうございます。
 
最近はというと、生活が少しずつ壊れてきている。毎日作っていた味噌汁もいつからか作らなくなり、ご飯も炊いていない。その場しのぎみたいな料理を、辛うじて作ったり。作らなかったり。調子のいいときと悪いときの境目にいる感じ。
いつでも悪くなれそうなので気をつける。こうしてブログを書いたりするのは自分にとって大切。こんな文章を読んで楽しんでくれている人は、ありがとう。
文章をたくさん書ける時は、いつもこんな感じのような気がする。きまって手紙も書きたくなる。淋しいのか不安なのか?自分でもよく分からない。
ようやく人より気分と調子のコントラストが激しいのだなと気付いてから、上に上に行っている時ほど下降すべし、下に下に行っている時ほど上昇すべし、を意識できるようになった。
こんな暗い気持ちの時には、明るい音楽を聴く。貧乏を忘れる。楽しい事だけ考える。死ぬ事を忘れる。悟ろうなどと思わない事。
制作はした方が良い。それによって人がどう感じるか、どうしてそれをやったか言語化する作業は、いくらでも跡付け出来るし、自分の範疇を越えている。自分が自分に出来る事は弱さを自覚する事だけである。目に見えるものをそのまま受け取る事が優しさである。何年も落ち込んだり上がったりを繰り返して来て分かってきた事。まだ研究途中。
良い音楽とか服とか、買ってしまいましょう。
 
先日は頂いた招待券で、片山健の絵を観に(二回目)吉祥寺美術館へ行った。最終日なので混雑していた。一回目観た時はとにかく圧倒されてため息しか出なかったが、二回目はようやく表面にある筆跡より奥の部分を観れた感じがする。絵本作家、漫画家、画家の境界線について考える。片山さんはきっと絵が大好きな人だよね。私もそう。絵が描けたら絵本でも漫画でも絵画でも何でも楽しい。絵本も漫画も絵画も全部繋がっているのに気付くのは、掘って、掘った先なんだろうな。とにかく強烈に絵が描きたくなる絵の数々だった。ゴッホとか、ルソーとか、色んな美術作家の自然な影響を感じた。違うかな。分からないけど。
「憧れ」って美しい感情だ。すばらしい感覚だ。そんな片山さんの絵に、私は多分生涯尊敬するだろう。静かに紡がれていく、語られない美術史を感じた。
AIは早く、片山健のすごい絵たちの力強さも吸いなさい、なんて思います。もっともっとすばらしい絵を見るのが楽しみ。

そうそう、ブログをちょっと模様替えしてみました。携帯から読みづらくなってるかもしれません、ごめんなさい。もっとラフな感じで、散らかした感じでノートみたいにやりたくて、こんな感じになりました。 どうでしょう。
 

2022-11-14


 
 
 
少し前になりますが、中野活版印刷さん発行の大きな本に、絵を3点つかっていただきました。
リソグラフ印刷、画像の絵は、朱と緑。
かっちょいいーです。

2022-11-10

空の穴


 

狩野岳朗さんの展覧会を見て、感じた事があったのでここに記しておく。
絵であり音楽であり生物であり風景であり、過去であり未来であり今である作品群だった。哲学的な探求の現時点での結果報告と、キャンバス上の美への探求の実験である事が兼ね備えて成立している。あの絵たちは1枚1枚、ただぼうっと山々を眺めるように心地よく鑑賞する事ができるのに、果てしなく虚しい自己探求の報告でもある。自己探求であるのに、自分では無い他者への研究でもある。閉じていく事と、開いていく事が同居している。
そこにあるのはキャンバスの上に絵具が置かれている物体であるのに、それはある時画家の視点から観る風景に変身し、ある時平面上のリズムに変身し、ある時天井から見た部屋に変身する。解き明かされて、アニメーションの様に絵が動き出すのが(というより幽体離脱したように自分が浮遊する感覚)面白い。
生涯の孤独な自己探求は、ならぶ美しい絵からは想像出来ないような虚しさとの葛藤があるだろうと想像してしまうが、その苦しみに見合う価値と成果を自分は感じられた。それが嬉しくて、ちょっと泣きそうになる。自己探求は内へ、内へ潜っていくけれど、内へ潜った先には全体の縮図が在ったりする。部屋にいるほど、町の中にいる様な。
 
グレー下地の絵から目線を動かすとキャンバス地そのまま残った白い絵が映る。清々しく、さっぱりとして、湿っぽさのない、心地よい朝の光を感じた。最近の私の夜はろくな事がない。寝付けないと、朝がくるまで不安で頭がいっぱいになる。だから夜はとにかくショートカットせねばならない。
無事夜を越えられた時の安心といったら、朝の喜びといったら。
その気持ちが普遍的なもの、きっと私だけのものではないということがなんか嬉しい。

前に狩野さんと立ち話をした時に、
「ずっと何もできないし、何もわからないです」というひどい相談をさせていただいた事があった。そのとき狩野さんは「この年になってもずっと同じ状況だよ」 と答え、私はただ頭が真っ暗になった。
しかし今思い出すとあのときより少し大丈夫な気がする。何層にも重なった黒を遠くから見れば圧倒されて太刀打ち出来ないよう感じるほか無いが、毎日訪れるひそやかな黒を毎日かわして進んでいけば、なんとかなるような。などと。
 
ちなみに画像は、狩野さんのワークショップを私ひとりが受講させていただいた時にできたもの。

2022-11-07

COM'ON ROCERS!





今日は朝からフィッシュマンズの映画を見つつ、漫画の本書きをしている。今は休憩。
しばらく本の事はお休みしようと思っていたが、思いついてしまったので数日前から漫画家みたいに原稿を描く日々。手製本の冊子 < wasureta〜 >シリーズのおかげで、本がどのように出来ているかが分かったので、ラフが出来てすぐに本の形にできた。
本の形になってようやく足りない部分に(内容も装丁も印刷方法についても)気付く事が多い。絵を描くみたいに本を作ることが出来るようになれたら良いな。
こんなに長い事絵画をやってなくて大丈夫なのだろうか、と心配になるが、冷却期間、発酵期間のような時なのかもしれない。また新しい気持ちで絵を描けるのが楽しみ。
空想の医者は、意地悪なヤブ医者だったが、実際描いてあらわれた医者は自分の理想とする医者だった。達観したような言葉の数々は自分のどこから来たのだろう。

最近は夜に眠れるようになったけど、夢は相変わらずよく見る。悪夢は少ないが、だいたいいつも、何かしらに心配をしている。卒業式に遅刻しそうだったり、運動会の前日に自分だけ練習してなかったり。一番恐れていて会いたくない人が泣いていて、それを心配して立ち尽くす夢も見た。

その夢の人は実在する人で、実際、一方的に、恐れて妬んで悲しんでいる人である。認知されているかどうかすらわからないのに、いつか刃物を持って家に来るのではないかと怯える事もある。私はやはり、ひどい心配性だと思う。自分でも自分の異常さが分かる。
けれども、その人が泣いていたら悲しいし、笑っていたらうれしいだけ、という自分も腹の底にいる。夢の中で立ち尽くしていた自分は、腹の底にいる大きな方の私だったのだと思う。本当は負の感情なんてほとんどなくて、ただ勝手に幸せに暮らしてほしいだけである。
漫画に出て来た医者の言葉も、そっちの私の言葉なんだろうと気付く。夢の中の私はだいたいいつも不安だが、皆の事が大好きで友達になれると信じている。まだまだ嘆くけどうつわが広くて深い。
腹の底にいる私はどっしりしている。全ての不安を簡単に受け入れる事が、抱きしめる事が出来る。私は私が思っているより、大きくて優しくて強い。ゆっくりでいいから表層にいる自分も大きい人になりたい。どれも本当の私である事は確かだが、根っこにそんな自分が居ると思うと安心できる。夢の中の私は、ばかな方と大きな方、割合としては半々ぐらいかな、なんて考える。人を恨むなんてろくなもんじゃない。良い抜け穴を見つけなければ。
焦るな、焦るな。もう足りている。落ちつきさえすれば大丈夫なんだからと、すてきなメロディの中でサトちゃんに言われた。

2022-10-31

おしらせ ♦︎ 手のひらのともだち

うれしいお知らせです。 
 
<すなば書房>という、大好きな古本屋さん(店舗を持たない、ネット上の本屋さん)が、私の絵のポストカードを作ってくださいました。
こちらで販売しています。
 最近作った小冊子も取り扱っていただいています。
 

 
コップの中に入ってしまった男の子の絵と、ダイヤの兄弟が遊んでいる絵と、椅子の絵の、3枚セットです。
裏面もそれぞれちがいます。かわいいです。






花の絵のポストカードを取り扱っていただいたことがきっかけですなば書房さんを知り、何度か本を買っていました。
注文するたび、かわいくて丁寧な文字のお手紙が添えられていて、いつも届くとうれしい気持ちにさせられました。
ほしい本が良心的な価格で販売されていて、注文したら傷なく届いた!という事ももちろんすごいことですが、まるで対面で購入したかのようなぬくもりをもって家に届くのが、もっとすごいなあ、いいなあ、と思っていました。 
 
そんなすなば書房さんからポストカード制作の依頼をいただき、何度も電話で打ち合わせを重ね、今に至ります。
住む家がお互い離れているのもあり、まだ一度も会った事がないのですが、こんなにすてきなポストカードができました。それは、会った事がないのを忘れるくらい電話で長話をしたからかもしれません。
 もともとある絵を印刷物にするというのは、簡単なようでとても難しい事だと自分は思っています。できたものを見て、良いなあと思えるのは本当に幸福な事です。
 
気になる本をしらべながら、ポストカードもちらりと、みていただけたらうれしいです。
 
 


 
♦︎ 

 
 

2022-10-29