蜻蛉 / 不安、安心

 

自分の目が信用ならない。少し目を離したら、絵が全然違うように見えた。どれが正常な見え方なのかわからない。とっくに枯れたトルコキキョウのことを思い出しながら色を塗ったら、家の周りを飛ぶ黒い蜻蛉みたい。

ソファから起きあがろうとしたら腰が痛くて動けなくなる。右手と目さえあれば絵は描けるだろうと思っていたが、腰のことは盲点だった。不安が襲ってくる。しばらく安静にしていたらおさまってきて安心。しかし気を抜けばまた痛めそうな雰囲気がある。怖い。絵が描けなくなったらどうなるのだろう。ショックだったのか、治ってきていた動悸が復活する。
引っ越してきてはじめての歯医者に行く。なにをされているのだかよくわからないまま、気づいたら2時間が経っていた。時計を見て、今日も何もできずに終わるんだろうか…と半絶望したところで、レントゲンの上顎のあたりを指しながら、「ポリープがあるかもしれないので、次回CTを撮りましょう」と告げられる。親身に話してくださるお医者さんだった。話のなかで、言葉を多く使う方だった。それで、少し疲れてしまった。中で、「手術」というワードが出た。手術…。今の、すこしおかしい自分の頭、アッパラパーな私には、それら全ては不安というカテゴリに集結されるが、それ以上に、宣告は、特大の不安である、苦手だ。明日にでもCTをお願いしたいが、来月まで予約が埋まっているとのこと。先延ばしの不安ができた。動悸が続く。そろそろ過呼吸にでもなるんじゃないかと、不安が追い打ちしてくる。

歯医者から出たら、空は桃色になっていた。今日もなんにもできなかった。しかし、外は涼しかった。救いだった。いろいろあきらめてヤケクソで隣町まで散歩することにした。描かないが、描かなくても、花を買おうと思い、好きな花屋まで歩く。何回行ってもおぼえられない店までの道のりでは、今日もしっかり迷った。なんとか着いたが、もう真っ暗で、それは自分の心情のようだったが、こんな時間まで開けてくださっていることに心底救われる。ほんとうにありがとうと思う。花はきれいで、優しい店員さんは眩しく、大きな包みを抱いて、大事に歩く帰り道は、不安は変わりないが、ささやかな安心に包まれていた。

あくび



雲とか花に感動し出して、そのほかのいろんなことがほんとうにくだらなく思え、どうでもよく思え、なんというか、自分はそんなにきれいな人間じゃなかったはずだろうという違和感が生じた。そんな変な感じが数日続いて、困惑している。すぐにおさまるものだと思っていた。怖いものだらけだったのが、そんなに怖いとも思わなくなった。焦る。興味のあることや、やらなければと思っていたことにも、力が入らない。興味とか、生きようというフックはあるのだが、それを釣る体力が、ずっと少ないという感じ。防衛本能のようなものなのか、それともほんとうに変化してしまったのか。老いのひとつなのか。若くありたいとか、本気で思ってしまった。しがみつくように、少しでも心動くものに執着する。怖い怖い(怖い?)。何十時間眠れば、満足に眠れたような気持ちですっきりと起きれるんだろう。恋煩いのような動悸はいつになったら止むんだろう(もしかして本当に恋?(何に?))。なんだか、途方もなく淋しくて、亡くなった猫に会いたくなる。いつでも会いたいが、とくに最近は。現世が、どうでもいいことばかりで。悲しいとすら思えなくなったら、私はどうなるのだろう。百億光年の孤独のこと考えて、私は、あくびが出る。

手のひらのともだち

 
 
ためいきみたいにあらわれる、「手のひらのともだち」のグッズをいくつか作ってました。昨今の夏は厳しすぎますから、なにかたのしいことを…と思って、うつろなまなざしで描いたキャラクターたちです。苦笑… 刷り上がったものを見たら、自分のうつろなまなざしとはかけはなれたポップさでなんとも嬉しくなりました。ありがたいです。
ほんとうはもっとお祭りの屋台みたいに販売できたら楽しそうなのですが、通販だとそうもできないので、同じ柄のシールこんなにいらないんじゃない?とも思いつつ、4枚入りです…。私の中では定番の…世間からはただの謎キャラクターですが、興味をもってくださる方がおられましたら、ぜひのぞいてみてくださいー。 
 
お店はこちら→ ✩   
 



退屈、異界

 
 
病院のために外に出たら、空は晴れてるのに雨がぼたぼた降っていた。急に眠くなって昼寝をしたのはこの雨のせいだったらしいと納得した。思ったより涼しかったので、ASKAの『Kicks』を聴くために、花屋まで歩くことにする。心がふやけている。そういえば二週間くらい前にも、同じように晴れの雨降りのなか、チャゲアス聴いて花屋に向かったんだった。

退屈というのか、虚無感なのか、自律神経のいかれなのか、失踪欲なのか、わからないけど、雲とか瓶とか水とかカーテンとか皺とかに、飽きてきている。なんとはなしに、たぶん描くだろうな、という気持ちで選んだ花が(またトルコキキョウを選んでしまった)、ひとつの希望みたいに思えていることに驚いた。花を選んだ帰り道、そんな気持ちになるのなんていつぶりだろう。というか、今まであったのだろうか。

子どものころ、異界へのあこがれのようなものがあって、異界を想像すると、よい胸騒ぎがするのだった。子どもながらに「この感性はきっと忘れてしまうものだから大切にしよう」と何回も思ったものだが、成人したあたりから、異界を想像しても、あのころのような胸騒ぎまでは起きなくなってしまった。感性というのは、意思でどうこうできるものではないのかもしれない。いつからか、異界へ行くよりも、なつかしい声をまた聞きたいとか、会いたいとかのほうが、願うようになった。仕方ないとはいえ、つまらない人間になったなあと思う。死って、こういうところにも作用するのか。

夕暮れの空は、ワケがわからないくらい美しく、今日も今日とて見事だった。 
今日のような夏の雲をじっくり見ていると、しかし、あのころと同じ胸騒ぎが起こった。それは、その雲そのものへの胸騒ぎではなくて、雲の凄さに圧倒されて、気が遠のいて、自分のことを忘れてしまうような感覚だった。飽き飽きした「日常」そのものへの胸騒ぎだったのだと思う。だから一瞬でおさまった。すぐに退屈と陰鬱の自分にもどった。たしかに、自分の生活というのは、異界そのものなのだ。なのに、その中にいるときには退屈すら感じる。摩訶不思議。花が希望かあと、少し恥ずかしくなる。どんなに筆が重くても描けるうちは描くよと思う。花で気をまぎらわすくらいの精神状態でも、情けなくとも、まぎらわしながらでもやるよと思う。
ほんとうに夏は疲れる。

まるいこころ

 

おやき。具材を包んで、まあるくしていったとき、漠然と、腑に落ちたことがあった。歪な丸は、こう在りたいと思う心のかたちに似ている。自分の中にあるとんがりは、やはり、できるだけ排除していこうと思った。鋭利になると、視界が狭まって、かつて見たかったものまでを見落とす。懐かしい絵を見たとき、感情が激しく揺れ動くのは、その絵が「よい」からではなかった。私が見えないつむじのあたりを、不意につついてきて、思わず涙が出そうになるのだ。通りすぎたもの、あきらめたこと。悔しいか、淋しいか。それでいいじゃないか。そのままを抱きしめたらいいじゃないか。撫でてみたりしたらいいじゃないか。まるいこころ。いつまでも持ち続けていれたらいい。