花・私・窓

 
 
枯れた花を捨てて、新しい花を買って、花瓶に活ける。換気をしたみたいに室内の空気が変わる。好きになる前に、理解する前に、いつの間にか、花に助けられていた。
 
突然の贈り物、ガラスの花瓶。どうやってお礼を伝えようか迷っているあいだに、月日が流れてしまった。少し前。いつか触れてみたいと思っていた陶器の作品を、背伸びをして注文してみる。お皿じゃないので、使うものではなく、ただ存在するものという感じ。触れてみるとひんやりとして、時々ぼこぼこ、手触りがある。遠くの人からの手紙。メッセージ。会ってないのに、そこにいるみたい。あたたかい。私はずっと家にいて、郵便受けから、ドアから、遠くの風が吹いた。 
 
もう描けなそうだと思っても、手を動かせば絵は進んだ。さっき描いた絵が見慣れない顔をしている。きっと風に包まれたからだ。絵は外を向いている。窓になれている。 
花のこと、たくさんの勘違いをしてきた。私はいつも。好きとか嫌いとか。恋とか友人とか。嘘とか本当とか。花は絶対的な他者であった。ただただ。

浮さんの歌の「話そう 正しさなんて探さないで/話そう いつまでも 私たち」という歌詞が頭に残る。なんてやさしい眼差しだろう。昼間に洗濯物を吊るしながら、繰り返して聴く。 
 
二年前にはじめて描いた窓辺の肖像を今描くと、やはりずいぶん変わっていた。描いてみなければ気づかなかったことがたくさんある。私はこういうことばかりだ。気づかなくてもよいものも中にはあったろうと思う。でもその追求や出会いがとても大事なことのような気がして。間違えていても、恥ずかしくても、受け取らなくても、流されてもいいから。今の私の窓辺は、花が多くなった、空が広くなった、淋しくなった。かつて、揺れるカーテンの前に不安だけがあった。脆弱な安心が、突然にあらわれる。そのひとときが、幸せと淋しさを際立たせる。

毎日を満たせ!

 

電話。電話。何度も同じ言葉を喋る。疲れない。
自分の人生は喪失や不安と向き合っているうちに終わってしまうのだろうかと感傷に浸った日があった。しかし、今は、今が、ずっと続いてるだけなんだった。続いてる。終わってない。できることはやることはたくさんある。どうすればよかったか?そんなの知ったこっちゃない。今できることをやる以外に選択肢はない。
今日は電車で、デビットボウイの「Starman」を久しぶりに聴いた。相変わらず何を言ってるんだかわからない。それでも知ってる音楽の中で1番好きな曲だと相変わらずなことを思った。
間違えててもいいと思えるからきっと正しい。正解!!

白鷺・ザネリ


 

絵を描いていて、窓を見ると、いつのまにか白鷺が電信柱の上に立っていた。椅子から降りて立ったときに目線の高さが揃う。そんな高いところにいるんだね、とふしぎな気持ちになる。鷺も自分も。机のほうに目をやって、しばらく作業をしていると、音もなく、いなくなっていた。
 
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誰かの日記を読んでいたら眠くなった。うたた寝の夢。
 
二人で青森を訪れていた。打ち合わせが終わったのが昼頃だったので、山のほうへ向かって、いいお宿に泊まれるのではないかと、冒険心が湧いてくる。それを同行者に共有する前に、もうひとりの人物があらわれた。三人でしばらく喋っていると、乗らなければいけない電車が来てしまった。その電車は混んでいて、会話する余裕がない。ならばひとつ電車を見送って、目的地をはっきりさせてから乗車したほうがいいのではないかと思い、そのつもりで目配せした(つもりだった)。しかし同行者は、颯爽と電車に乗っていった。かたまっている自分と一瞬目があったが、この駅で別れる知人にむかって手をふるばかりだった。
 
呆然としながら、「とりあえず電車に乗ります」とだけ連絡をし、ひとり取り残されて次の電車を待った。ひとりになると、急に電車が怖くなる。乗車方法にしても、切符の入れ方にしても、どのあたりに立っていれば他のお客さんの邪魔にならないかとか、この土地のルールを何一つ知らず、準備できておらず、そうなったときに考えればいいとはいえ、不安は募った。また、たとえばこういう不安から過呼吸になりそうになったとき、それを伝える相手がいないと思うと、恐ろしくてたまらなくなるのだった。私はこれまで、どれだけ彼に、身近な人に、助けられてきただろうと思う。

動悸がひどくて仕方がないので窓を見る。さっきまで晴天だったのが、真っ白な空に、雪まで降っている。しかも大雪。真夏なのに、ギョッとする。外とは、知らないことばかりだった。こんな天候で山のほうまで行くと遭難するのではないかと思い、少し栄えた駅で降りた。携帯を見て、メールを確認するが、返事は来ていない。ああ、『銀河鉄道の夜』に出てきたザネリって子は、今の私のような、こんな心情だったんじゃないかなとか思う。私はジョバンニにはなれなかったのだ。伝えられなかった感謝は、伝えられていたら、良かったのだろうか。でも、私の感情を、歪まないでそのままの姿で伝えることなんか、できるのだろうか。認めたくなくても、そんなのはもう関係なく、ひたすらに無限に湧いてくるこの後悔は、先手を打って対処しておけば、良かったのだろうか。でも、今までだって、できることをできるだけやってきたのではなかったか。何も何もわからなかった。
 
栄えた駅に着くと、みんな一斉に降り出した。自分も群れに混じって下車できた。この土地のことをわかってるふうな、当たり前のような顔をして。擬態に成功した。こうやって少しずつ成功体験を積んでいけばいいのだ。失敗と成功が同じくらいになれば、きっといつか人並みになれるだろう。これくらい信じていないと生きていけないよ。本質的な成功じゃなくともいいのだ。
空を見ると雪は止んでいて、虹が架かっていた。青森では雪の後の晴れで虹が架かるのかあと、びっくりする。住宅街のひとつの家に、虹のはじまりが見えた。駅を降り、せっかくだから写真を撮ろうかと思う。リュックからカメラを探すが、見つからない。肝心な時に、いつもカメラは見つからない。後から写真を撮りにきた人の邪魔になったようで、「どいてくださーい!」と声をかけられる。意志の弱い自分は、撮ることよりも退散を優先した。歯食いしばって外に出る。また失敗体験が…と思いかけたとき、いやここからでも撮れるだろうとカメラを空に向けると、もう真っ暗だった。刺すような漆黒で我に返り、また現実の不安が戻ってくる。寒いし。雪で濡れた靴が冷たいし。突然遠くで花火が打ち上がった。それは目覚まし時計の音だった。
 
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うたた寝の直前に、人の日記はいいものだと、思ったんだった。日記のよさって、よく分からなくなっていたけど。今はとてもいいと思った。多分、淋しいからだろう。日記は、読むならブログがいい。本物の日記帳とか、書籍化された日記というのは、自分は、あまり読めない。本物の日記帳は、踏み入ってはいけない領域という感じがして、みてはいけないものと思うから。本は、日記じたいというより、内容や構造からメッセージを探してしまったり、受け取ってしまったり、してしまうからだ。ブログも人の目を意識されているが、その細い糸のような意識…外部へのつながりが見えるから、だから読めるのだと思う。無関係な誰かの人生を覗き見て、「無関係だから」安心するんじゃなくて、開かれた小さな窓から、むしろ「関係し合ってしまうから」、安心するのだ。ひとりとひとりが横にいるから、眠れるのだ。言葉を発して、気持ちを抱いて、沈黙を貫いても、それがどこにも作用しないなんてありえないだろう。

何年続いてるんだというブログを見つけると嬉しくなる。あなたが重要に思ったことを、あなたにしか伝わらなそうな言い回しで書いてあるのを見つけるたびに、ありがとうって思う。なんでだろう。

 

自分の目で見られる視界は限られていて、見たいと思っていてもあぶれる領域はある。良いも悪いもなく、ただそれだけということだ。見えているものを、信じたり執着するのではなく、ただ向き合うことだけだ。自分にできることは。失敗はするものだろう。淋しくなるだろう。それでも、全部をあきらめるには早すぎる。石にも花が咲くんだって。

雨。
今日は郵便ポストに手紙を投函するために外に出て、ザーザー降りの雨と外の涼しさにびっくりした。昨日の暑さが嘘のよう。昔描いて、ひとに見せられるもんじゃないと思っていた絵を久しぶりに見たら、絵の中の水はきらきら、花はたしかに咲いていた。私はあの時、どうしてそんなことを思ったのかわからなくなった。

B'z部屋雑記



B'z部屋雑記。「恋」を切り口に、よく聴く曲を順番に聴いてみたり。

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1992年『恋心(KOI-GOKORO)』では、「忘れない 恋心/いつまでも 恋心」から始まり、「どうしよう うまくいかない恋/こんなとき もっと大人になりたい」と語り「二度とは戻らない時間を/笑って 歌って ずっと/忘れない いつまでもあの恋/なくさない 胸をたたく痛みを/汗かき 息はずませ走る/日々はまだ 今も 続く」と続く。

1995年『LOVE PHANTOM』では「欲しい気持ちが成長しすぎて/愛することを忘れて/万能の君の幻を/僕の中に作ってた」「がまんできない/僕を全部あげよう」そして「幻をいつも愛してる/何もわからずに」になる。
 
2000年『今夜月の見える丘に』では「たとえば どうにかして 君の中 ああ 入っていって/その眼から僕をのぞいたら いろんなことちょっとはわかるかも」から始まる。 「痛いこと 気持ちいいこと それはみんな人それぞれで/ちょっとした違いにつまづいて またしても僕は派手にころんだ」「傷ついて やっとわかる それでもいい 遅くはない」最後に「いつでもそうやって笑ってないで/かけらでもいい/君の気持ち知るまで 今夜は一緒にいたいよで終わる。
 
2009年『イチブトゼンブ』では、「すべて掴んだつもりになれば/また傷つくだろう/ほんとに要るのは有無を言わせない/圧倒的な手ざわり/愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに」「すべて何かのイチブってことに/僕らは気づかない/愛しい理由を見つけたのなら/もう失わないで/愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに/それだけでいいのに」となる。

2024年『イルミネーション』では、「君の1番好きな/歌を聴きながら進もう」から始まる。「曲がりくねった道をハモり/進む君と僕のハイビーム」…この曲の中で進むのは、<まっすぐな道>ではない。「ホントにあるよねウソじゃないよね/夢で見たイルミネーション/誰かが誰かのために灯す/愛まぶしたセレブレーション」はじめのサビでは不安が込められた疑問形として歌われる。その後は「ホントにあるんですウソじゃないんです」と断言するように2回歌われる。「ガッカリもションボリも丸めて/噛み締めて飲み込んで/ずっと諦めないでいられたら/クライマックスは続く」「ホントにあるんですウソじゃないんです/ユメが萌えるイルミネーション/生まれたこと誇れるように/その心飾るでしょう」となる。

◯ ◯ ◯

作詞の稲葉は『恋心(KOI-GOKORO)』で、「忘れない 恋心/いつまでも 恋心」と歌ったが、「恋心」を、いつまでも忘れなかったからこそ歌えたのが『イチブトゼンブ』、「愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに」、なのだと思う。また、『LOVE PHANTOM』での「(そして私はつぶされる)」…派手にころんでも、『今夜月の見える丘に』で「傷ついて やっとわかる それでもいい 遅くはない」と歌う。そして、『恋心(KOI-GOKORO)』で「こんなとき もっと大人になりたい」と歌った、その「大人」の姿というのは、疑問形ではなく「ホントにあるんですウソじゃないんです」と断言できるようになった『イルミネーション』なのではないか
 
彼の作詞はほんとうに見事で、改めて歌詞を読むたびに驚いている。詞の中では、むずかしい言葉を使っていないのに言語化できないような感情が綴られている。まず、詩ではない、そして、訴えでもない。受け取ったときの感触は、意外と丸みを帯びている。それがほんとうにすごいと思っている。上記で引用したラブソングっぽい曲たちの歌詞を追っていくと、一見、「誰か」と「誰か」とのあいだに生じた「恋」や「恋愛」のことをうたっているようにみえる。しかし、よく読んでいくと、「歌」と「あなた(私)」との対話のようにも受け取れる。それは、『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』(1993年)での「そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは/僕とずっといっしょにいる方が 気持ちよくなれるから」という一節を聴いたときに感じたことだった。詞の内側の人物への言葉ではなく、この歌を聴いている、私に向けての詞だと。本意は知らないが。また、「気持ちよく」という表現も重要で、「これは音楽である」ということを強調しているように見える。先にも述べたように、詩ではないし、文学や指南書でもない。ずっといっしょにいることで「正しい方向に導く」なんていわない、そうではなく、聴くことで「気持ちよくなれる」という。(耳に残るメロディがあり、歌声があり、最後に詞が届く。この過程を考えるに、気持ちよくなるのに詞はあまり重要ではない。だからいちいちこうして詞に感動するのは我ながら野暮であって、本質ではないのだろう。でも語りたいので、野暮を前提としながら進めてみる…)そして、稲葉の詞やB'zのことを「信じる」なんてしなくていい、ということを、『愛のままに〜』でのこの一節では明確に語っている。鋭利さが徹底的に研磨されている感じがある(そういう空気を作る松本の存在を勝手に憶測する)。メロディや歌声がパワフルで大きくてギュインギュインしているのにたいして、ものすごく繊細に作られている感じがある。こういう部分が私がB'zに感じる「丸み」なのだと思う。
 
ほとんどの楽曲の歌詞からは「生きていくこと」、「共に生きていくこと」を、絶対に諦めない姿勢を感じる(松本のギターのソロパートからも同じことを感じたりする)。詞については、バンド内で研磨しつくされた結果であるのだろうが、私にとってはその姿勢をもつことも、貫くことも、まったく容易なことではない。だから、このような心を持っている稲葉に対して尊敬したり、楽曲を崇高なものとして扱いたくなってしまうが、そのような消費の仕方というのは、惜しい気がする。これは稲葉独特の感情、あるいは、単なる <やさしさ> 、言い換えれば自己犠牲のような精神から生じたものなどではないのだろう、と感じるからだ。受け身の姿勢で聴いてしまう私は、こういう表層に見える稲葉のやさしさにどうしても「やさしいなあ」と感動してしまう。こういう捉え方になると、他人事のようになって、鑑賞者は楽になる。同時に、自己嫌悪の余地が生まれる。稲葉の語ることは、語りたいことは、きっとそんなものではない。魅力や、色気や、ズルさにもなるような「やさしさ」をやっているわけではないんだと感じる。稲葉の詞に感じるやさしさとは、B'zというバンドがもつ姿勢から生まれるのではないか。

稲葉の詞から感じるやさしさを考えると、数年前にアドラーのことを勉強していて知った「共同体感覚」という言葉が連想される。私たちが目指すところらしいが、私は全然理解できていない。それに、勉強したことは、残念ながらほとんど忘れてしまった…。だから、それが具体的になにかと問われても、本をそのまま引用したようなことしか言えないために、意味がないので、省略する。ともあれ、この言葉を思い浮かべると、私はいつも、窓から見える煙のようなものを空想する。ちょうど今描いている絵のような、いつも浮かんでいる、雲みたいなもの。それは、誰でもが見えるものである。稲葉が書こうとしていることの先には、そういうものがあるのではないか。ゆっくりでもいいから一緒に走って生きていこうと、そういう形での「共存」を提案されているような、健やかさがある。太陽のように眩しい。それはそのまま彼らの関係にも言えることではないのか。というか、B'zそのものではないか。彼らのあいだのこと、その内側のことを、全然知らないが、知ろうともしていないが、私にはそのように見える。だから私はB'zを聴きたいと思うのだし、だから好きだと言っていたいのではないかと、今日もチャゲアスばかり聴いていたが、聴いてしまっていたが…考えていた。のでした。 
 
※B'zのお二人には、敬意を込めて、あえて敬称を略させていただいております。無礼をお許しください。