2023-03-19

no title

 










 
高熱出るわ、花粉症ひどいわ、携帯は電源つかなくなっちゃうわ、自転車はパンクしてるわで、ふんだりけったりの数日です。
携帯もパソコンも見かけはハイテクというか、どうみても新しい機械って感じなのに機種としては古いらしく、つかない携帯の中のもろもろをパソコンでどうにかしようとしても、古すぎて何にもインストールできず。
バージョンとは、OSとは…?よくわからない。携帯壊れそうな時、毎回必死。これを機にガラケーにしようかと本気で考える。 方向音痴にはきついだろうか。
だいぶ元気になってきたけれど身体はふらふら、あと水が苦い。その症状は亜鉛が足りていないと起こるものらしい。亜鉛が含まれているという牛肉と舞茸とを買って来てもらって、塩ふって焼いて、いただいた。おいしい…
不調はいろいろ重なるものですね。みなさんもお大事に。

2023-03-16

声とまばたきと微笑みと


弔いは誰のため/何のためにするんですかと聞くと、自分のため/自分の気がすむようにじゃないですかと返される。

人は多面体というより、もっとなめらかかもな、とゆっくりと確信させられる出来事があった。人のことを、宇宙に浮かぶ星のように想像する。照らされた部分と影の部分とがある。離れて見ると明暗が、すごい差。
嘆いてもだめなのだ。太陽があるからしょうがない。
 
歌手でもないあの人がギターをひいて歌を歌った姿を見ていたい、と思うのは理屈とことばに疲れたからか。
声とか、まばたきとか、微笑みとか。色彩や明暗に覆われて誰も気づくことない鉛筆を消した跡とかを信じる人になりたくて。真面目になればなるほど蟻地獄にはまるように出来てる気がする、不思議。大事なものが流される前に、私は落ちつかないといけない。目を閉じること、耳を閉じること。

今日はやけに疲れて帰って来て水をたくさん飲んだら少し回復した。水、ありがとう。
最近は花をコツコツ描いていて、家は花だらけ。花たちもぐんぐん水を飲んでいる。生き延びてる。咲いてる。描かねば。

2023-03-01

展覧会<空想の窓辺>ありがとうございました


 



 
昨日、展覧会<空想の窓辺>が終わりました。
会期は一ヶ月ありましたが、本当にあっという間だった。
絵にとっても私自身にとっても幸福で満ちた期間でした。
この展覧会に関わってくれた方々と場所…会場である「背骨」・店主の吉田さん・一緒に本を制作してくれたデザイナーの浦川さん・色々な面で色々な形で助け舟を出して支えてくれたえほんやるすばん店主の荒木さん・大好きな詩「犬の日々」の展示/掲載を許可してくださった親族の方々・思潮社さま・そんな詩を遺してくれた北村太郎さん。
それから、見に来てくれた皆様・気にかけてくれた皆様・絵を購入してくださった皆様・DMを置いてくださったお店・いつも見守ってそばにいてくれる友人・こうして絵を描きながら生きる事を当たり前に受け入れてくれる家族のみんな・愛をいっぱい与えてくれた大好きな猫。
まだまだあります。こうして書くととめどなくなってしまいますが、とにかく感謝の気持ちでいっぱいです。
私は本当に恵まれているなと感じる事が何度も何度もありました。
本当にありがとうございました。

私は芍薬の固い蕾のような状態の物事をいくつか抱えていて、背骨さんや店主との会話、お客さんとの会話の中で私の蕾をやさしくもんで咲かせてくれたような出来事が何回かありました。
世の真理に気付くのは案外簡単なものですが、それを実行したりつかみ取るのは難しいのです。
未熟さを忘れず、これからも立ち止まったり歩いたり時々振り返ったりしながら、影や傷や矛盾と友達になって生きたいです。

心の中に作った空想の窓辺へは、前にこちらにも書いたかと思いますが、変わらず、描き終えてからしばらく訪れていません。そこは今では廃墟のようになっているかもしれません。だけど取り壊す事はせず、そのまま残しておきます。
背骨へ訪れることも、空想の窓辺に帰るのと似てるかもしれないな、などと。
いつでも帰れる場所があるのは、安心です。
 
在廊中いただいたコーヒーの味、流れるクラシック、美しい斜陽。数十分遅れた時計。背骨におかれる商品たち…自分が生まれる遥か昔に作られた道具、絵、置物。誰かが誰かに宛てた贈り物。知らない家族の愛に満ちたアルバム。 ふしぎな若いお客さんとのふしぎな会話。楽しかった。美しい夢の中の出来事みたいです。

なお、展覧会<空想の窓辺>の記録写真を近日中に何かしらの形にして公開しようと考えています。
そちらも見て頂けたら嬉しいです。
それから、本<空想の窓辺>は、青は売り切れて、朱色だけまだ残ってます。ひとまずウェブショップでは販売を続けています。気になる方はぜひ、調べてみてください。


ここまで読んでくださってありがとうございました。
また皆さんとお会い出来る日を楽しみにしています。

市村柚芽
 
 ◎おまけ
 
 
↑会期前半に描いていた白いバラは、今でも元気に背骨さんに飾られています。

 
↑バイト先の大好きなおっちゃんが大きな花束かかえて見に来てくれた。センスの良いチョイス!枯れてきてもずっと美しい花。

 
↑在廊中淹れてくれたコーヒーやカフェオレが美味しかった。差し入れで頂いたお菓子も、美味しかった。ごちそうさまでした。


 
↑生々しい写真をスミマセン!会期中、母が誕生日プレゼントのワンピースをもってきてくれたのが嬉しくて、撮ってみました。後半に描いた絵に似た葉っぱ柄なのです。最終日はこれを着ていました。


 ↑これも最終日、大切な友人が誕生日プレゼントをもってきてくれて、その中にいた一人。ふわふわなオバケ。ありがとう。

2023-02-23

絵と生活の記録






何かを書き綴りたい気分なのに何も書くことが思い付かないので何ともならない日記を。

絵。
「空想の窓辺」開催中・在廊中も花の絵を描く。背骨さんには描きたい古道具やまほどあるのに体は花を描きたがっている。
何だかんだ一ヶ月ぶりくらいになってもなんとか描ける。〈観察〉は大事。〈観察〉とは何か考え直すことも大事。最近はうまい具合に観察が出来ているから、失敗が少ないんじゃないかと推測。

生活。
昨晩は〈アキレスと亀〉観る。遠い昔にすすめられたのに観なかったような気がする映画。画家になりたい主人公にはちっとも共感できなかった。ものすごく良い映画だったように思う。「餓えた子供にピカソの絵とおにぎりを見せたら迷わずおにぎりをとるだろう」みたいなセリフ。そらそうだろと思う。いや、そらそうだろと思う。(二回言う) …また観る。
忘れることについて考える。毎日心の中の猫を撫でる。いつも同じ場所にいる、妹のベッドの毛布がある位置。うごくと鈴の音がして、鼻をつんと指にくっつけてくれる。かわいい。これでいいじゃないか / これでいいんだっけ?。繰り返す。存在と不在の違いが分からなくなる。忘れたら何が何になるのか。最近分からない。忘れることの何が怖いのか、悪いのか、良いのか。手放してはいけないちいさな光を思い出してはいつもハッとする。この光のことはいつも忘れていて、でも握りしめている。
最近は朝、パン食べる。奮発してクリームチーズ買う。サンドイッチを毎朝作るらしい背骨店主・吉田さんに影響されての事。ライ麦のハードパンにクリームチーズとレタスとトマト挟んだサンドイッチ美味しかった。レタスには栄養があると聞いてから、レタスを買うようになった。
洗濯物を干しているともう春のにおいがする。甘くてやさしい。子供の頃、夜とか死ぬのが怖いと訴えたときに、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた母の像が頭に浮かぶ。 なにかを穏やかに取り繕ってまるめこもうとしてるみたいな不気味さ。でもその、取り繕ってる部分、多分、好き。やけに鮮明にいろんな日の事を思い出させる、においって楽しい。鼻があって、嬉しくなる。
製本作業中に井上陽水のインタビュー映像を何度目かに見て、ああなりたいと思う。音楽も聴く、大音量で聴く。フィッシュマンズに感動しっぱなしの数ヶ月。ポラリスも聴くようになる。
今日は絵描き、狩野さんと散歩。名曲喫茶でホットチョコレート飲む。良い一日。帰り、本屋で本を二冊買う。   
明日は絵を描く。あと、アルバイト。

2023-02-06

夢の記録 2023-02-06


妙にリアルな夢だったと思ったけれど、夢なんていつもそんな感じかもしれない。

夢の中の私は未だに団地住まいで、日暮れに町から帰る。デパートのエレベーターに乗ると、心を見透かす芸を売るあやしいおじさんが各階にいる。追いかけてくる。多分不正をしている。うさんくさいが当たっているのが怖い。どこで流出したんだか、経路がまったく不明。逃げるようにして帰る。
夜なのに昼みたいに、実家の窓から不穏に明るいひかり。「ただいま」と言ったら大好きな猫がぬるっとこっちへ来てくれた。死んだことを覚えていながらだきしめて撫でた。誰にも言わず撫でた。私はこうして幻想とわかっていながら毎日猫を撫でていて良いのだろうかと、ふとよぎる。
横を見ると母が震えて書類を書いていた。医者から大病を告げられ泣いていた。可哀想でたまらないと思ってしまった。
そんな、次は母か、
だめだ。
逃げたい。
もういやだ、
と強く思ったら夢から逃げられて
安心風な現実があった。
安心風、であって、私のどの悪夢よりきっと現実の方がよっぽどむごい。
飛び起きたらまだ、朝の四時。途方に暮れる。穏やかに眠りたい。でも多分大事な夢を見たと思い、記録してみてる。
心臓が破裂しそうで、ああそうか、私はまだまだ全然、全然だったんだ、と気づく。そりゃそうか、と思う。そりゃそうだ。消えたと思った不安は全く消えてなかった。いつまでも消えないのか。いつか消えるだろうか。凌ぐんじゃなくて脱皮みたいなのを経てあたらしい私になって歩くことができる日は来るだろうか。
死んだじいじ、ばあば、ばあちゃんの事が、思い出すなんてことをしなくても覚えているんだ、って話を寝る直前にしたばかりだった。じいじなんて亡くなって15年くらいになるのに声なんて当たり前に覚えているし、脳内で気配を再現できる。全部ないけれど、猛烈に普通に頭のなかにある。だから楽になっていい。楽になった方が絶対いい。全部わかってるのに心は苦いほうにいこうとする。老いることも死ぬことも愛しいと思いたい。そこに寂しさを感じたくない。苦しいのと悲しいのは嫌なのにどうしてそっちにいこうとするのか。
私がそうなだけなのか、人類全般そんなもんなのか、
もうわかりません。
人類全般、だとしたら、なんて幸せな動物だろう、って思います。
人類、いやかも。
眠らねば。