私の窓に、

 
(2026-8-15)

(2026-8-23)

(2026-8-25)

(2026-9-3)

(2026-9-7)
 
最後の窓辺の絵には、もともと持っていた瓶は描かずに、先日急にいただいた花瓶を描いた。しっかり終われた感じがあった。絵の中で、いまだに窓を開けられないでいるけれど、気づけば、部屋の中にも外にも、誰かの気配で満ちていた。私の窓辺には、空想じゃない、本物の夕暮れも来るらしい。きっとまた描くだろうから、その時までは守っておこう。

花・私・窓

 
 
枯れた花を捨てて、新しい花を買って、花瓶に活ける。換気をしたみたいに室内の空気が変わる。好きになる前に、理解する前に、いつの間にか、花に助けられていた。
 
突然の贈り物、ガラスの花瓶。どうやってお礼を伝えようか迷っているあいだに、月日が流れてしまった。少し前。いつか触れてみたいと思っていた陶器の作品を、背伸びをして注文してみる。お皿じゃないので、使うものではなく、ただ存在するものという感じ。触れてみるとひんやりとして、時々ぼこぼこ、手触りがある。遠くの人からの手紙。メッセージ。会ってないのに、そこにいるみたい。あたたかい。私はずっと家にいて、郵便受けから、ドアから、遠くの風が吹いた。 
 
もう描けなそうだと思っても、手を動かせば絵は進んだ。さっき描いた絵が見慣れない顔をしている。きっと風に包まれたからだ。絵は外を向いている。窓になれている。 
花のこと、たくさんの勘違いをしてきた。私はいつも。好きとか嫌いとか。恋とか友人とか。嘘とか本当とか。花は絶対的な他者であった。ただただ。

浮さんの歌の「話そう 正しさなんて探さないで/話そう いつまでも 私たち」という歌詞が頭に残る。なんてやさしい眼差しだろう。昼間に洗濯物を吊るしながら、繰り返して聴く。 
 
二年前にはじめて描いた窓辺の肖像を今描くと、やはりずいぶん変わっていた。描いてみなければ気づかなかったことがたくさんある。私はこういうことばかりだ。気づかなくてもよいものも中にはあったろうと思う。でもその追求や出会いがとても大事なことのような気がして。間違えていても、恥ずかしくても、受け取らなくても、流されてもいいから。今の私の窓辺は、花が多くなった、空が広くなった、淋しくなった。かつて、揺れるカーテンの前に不安だけがあった。脆弱な安心が、突然にあらわれる。そのひとときが、幸せと淋しさを際立たせる。

毎日を満たせ!

 

電話。電話。何度も同じ言葉を喋る。疲れない。
自分の人生は喪失や不安と向き合っているうちに終わってしまうのだろうかと感傷に浸った日があった。しかし、今は、今が、ずっと続いてるだけなんだった。続いてる。終わってない。できることはやることはたくさんある。どうすればよかったか?そんなの知ったこっちゃない。今できることをやる以外に選択肢はない。
今日は電車で、デビットボウイの「Starman」を久しぶりに聴いた。相変わらず何を言ってるんだかわからない。それでも知ってる音楽の中で1番好きな曲だと相変わらずなことを思った。
間違えててもいいと思えるからきっと正しい。正解!!

白鷺・ザネリ


 

絵を描いていて、窓を見ると、いつのまにか白鷺が電信柱の上に立っていた。椅子から降りて立ったときに目線の高さが揃う。そんな高いところにいるんだね、とふしぎな気持ちになる。鷺も自分も。机のほうに目をやって、しばらく作業をしていると、音もなく、いなくなっていた。
 
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誰かの日記を読んでいたら眠くなった。うたた寝の夢。
 
二人で青森を訪れていた。打ち合わせが終わったのが昼頃だったので、山のほうへ向かって、いいお宿に泊まれるのではないかと、冒険心が湧いてくる。それを同行者に共有する前に、もうひとりの人物があらわれた。三人でしばらく喋っていると、乗らなければいけない電車が来てしまった。その電車は混んでいて、会話する余裕がない。ならばひとつ電車を見送って、目的地をはっきりさせてから乗車したほうがいいのではないかと思い、そのつもりで目配せした(つもりだった)。しかし同行者は、颯爽と電車に乗っていった。かたまっている自分と一瞬目があったが、この駅で別れる知人にむかって手をふるばかりだった。
 
呆然としながら、「とりあえず電車に乗ります」とだけ連絡をし、ひとり取り残されて次の電車を待った。ひとりになると、急に電車が怖くなる。乗車方法にしても、切符の入れ方にしても、どのあたりに立っていれば他のお客さんの邪魔にならないかとか、この土地のルールを何一つ知らず、準備できておらず、そうなったときに考えればいいとはいえ、不安は募った。また、たとえばこういう不安から過呼吸になりそうになったとき、それを伝える相手がいないと思うと、恐ろしくてたまらなくなるのだった。私はこれまで、どれだけ彼に、身近な人に、助けられてきただろうと思う。

動悸がひどくて仕方がないので窓を見る。さっきまで晴天だったのが、真っ白な空に、雪まで降っている。しかも大雪。真夏なのに、ギョッとする。外とは、知らないことばかりだった。こんな天候で山のほうまで行くと遭難するのではないかと思い、少し栄えた駅で降りた。携帯を見て、メールを確認するが、返事は来ていない。ああ、『銀河鉄道の夜』に出てきたザネリって子は、今の私のような、こんな心情だったんじゃないかなとか思う。私はジョバンニにはなれなかったのだ。伝えられなかった感謝は、伝えられていたら、良かったのだろうか。でも、私の感情を、歪まないでそのままの姿で伝えることなんか、できるのだろうか。認めたくなくても、そんなのはもう関係なく、ひたすらに無限に湧いてくるこの後悔は、先手を打って対処しておけば、良かったのだろうか。でも、今までだって、できることをできるだけやってきたのではなかったか。何も何もわからなかった。
 
栄えた駅に着くと、みんな一斉に降り出した。自分も群れに混じって下車できた。この土地のことをわかってるふうな、当たり前のような顔をして。擬態に成功した。こうやって少しずつ成功体験を積んでいけばいいのだ。失敗と成功が同じくらいになれば、きっといつか人並みになれるだろう。これくらい信じていないと生きていけないよ。本質的な成功じゃなくともいいのだ。
空を見ると雪は止んでいて、虹が架かっていた。青森では雪の後の晴れで虹が架かるのかあと、びっくりする。住宅街のひとつの家に、虹のはじまりが見えた。駅を降り、せっかくだから写真を撮ろうかと思う。リュックからカメラを探すが、見つからない。肝心な時に、いつもカメラは見つからない。後から写真を撮りにきた人の邪魔になったようで、「どいてくださーい!」と声をかけられる。意志の弱い自分は、撮ることよりも退散を優先した。歯食いしばって外に出る。また失敗体験が…と思いかけたとき、いやここからでも撮れるだろうとカメラを空に向けると、もう真っ暗だった。刺すような漆黒で我に返り、また現実の不安が戻ってくる。寒いし。雪で濡れた靴が冷たいし。突然遠くで花火が打ち上がった。それは目覚まし時計の音だった。
 
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うたた寝の直前に、人の日記はいいものだと、思ったんだった。日記のよさって、よく分からなくなっていたけど。今はとてもいいと思った。多分、淋しいからだろう。日記は、読むならブログがいい。本物の日記帳とか、書籍化された日記というのは、自分は、あまり読めない。本物の日記帳は、踏み入ってはいけない領域という感じがして、みてはいけないものと思うから。本は、日記じたいというより、内容や構造からメッセージを探してしまったり、受け取ってしまったり、してしまうからだ。ブログも人の目を意識されているが、その細い糸のような意識…外部へのつながりが見えるから、だから読めるのだと思う。無関係な誰かの人生を覗き見て、「無関係だから」安心するんじゃなくて、開かれた小さな窓から、むしろ「関係し合ってしまうから」、安心するのだ。ひとりとひとりが横にいるから、眠れるのだ。言葉を発して、気持ちを抱いて、沈黙を貫いても、それがどこにも作用しないなんてありえないだろう。

何年続いてるんだというブログを見つけると嬉しくなる。あなたが重要に思ったことを、あなたにしか伝わらなそうな言い回しで書いてあるのを見つけるたびに、ありがとうって思う。なんでだろう。

 

自分の目で見られる視界は限られていて、見たいと思っていてもあぶれる領域はある。良いも悪いもなく、ただそれだけということだ。見えているものを、信じたり執着するのではなく、ただ向き合うことだけだ。自分にできることは。失敗はするものだろう。淋しくなるだろう。それでも、全部をあきらめるには早すぎる。石にも花が咲くんだって。

雨。
今日は郵便ポストに手紙を投函するために外に出て、ザーザー降りの雨と外の涼しさにびっくりした。昨日の暑さが嘘のよう。昔描いて、ひとに見せられるもんじゃないと思っていた絵を久しぶりに見たら、絵の中の水はきらきら、花はたしかに咲いていた。私はあの時、どうしてそんなことを思ったのかわからなくなった。