もう一週間も絵を描いていない。スケッチブックを開く気にすらなれない。今日は描こうと思っていたのに、遅くに起きてからずっと内省していた。おおくの人が帰省ラッシュにのぞんでいるらしい。そういう時期なのかもしれない。
猛烈にノートを書いていて、内省っていいのかもしれん、と呑気に思った。少し前までは内省ではなく、懺悔や、反省だった。そのときの自分はというと、絶望ばかりだったから。今の自分は、少なくとも、歪みまくった認知を、「歪んでいる」と、少しずつでも認識できるようになった。歪んだ視界であっても、なるべくまっすぐに受け取るべく、そのための方法を考えられるようになったし、そこを努力できるようになってきた。その変化だけは、成長であるとして、嬉しく受け取っている。
内省。
喋りすぎた、と後悔したとき。そもそも、主張したくなるとはどういうことなんだろうと考える。このブログで書いていることも例外なく主張ではある。そう思って書いてきている。けれど、これがじっさいの会話や、なにかにめがけての主張であるならば、そこにはもっと明確なものが含まれている気がした。だから、ここで考えているのは、おもに、会話における主張についてのことである。だれかとの会話において、自分はなぜ主張したくなるのだろう、と考えるに、私の場合は、その多くが、矯正欲を孕んでいるように感じる。または、承認欲求。それに付随する、反応欲のようなもの。それらも、よく生じる。自分の悲しみや淋しさをもちだして、共感を強いることの傲慢さ、そして無意味さ。(悲しみも淋しさも、誰かに共感してもらわずとも、自分の心の内側に、絶対的なものとして存在しているはずなのだから)ここに挙げたもののどれひとつにも、自分は気づくことができないでいた。こうして書き連ねると、なんて情けないのだろう、なんて未熟なのだろうと思う。泣きたくなる。しかし、自覚できただけ、まだマシであると思いたい。
とはいえ、それらの欲求を抱くことも、主張することそのものも、もちろん、悪いわけではないのだと思う。そうしてでも伝えなければいけないことは、たくさんある。ただ、それが無自覚におこなわれることは、とても危険なことなのだ。そのことを、よく自覚しておかなければならない、と、強く思ったのだった。
自戒をもちながら、ここにひとつ、主張を書いてみる。
私は、「〇〇だから〇〇の資格はない」 という論法について、とにかく慎重にならねばならないと思っている。問題の本質がすり替わることがあるように思うからだ。そもそも、資格というものを持ち出すとき、人はどんな裁量をもってはかっているのだろう。ここが曖昧である限り、なんの秩序もない、まったく意味のない言葉となるのではないか。だれにでも等しく人権はあり、それを踏み躙るようなことは、決してあってはならないと、ずっと思っている。私は時々、自分とは無関係のひとたちのあいだで起こったことに関して、勝手に傷つくことがある。その多くは、人権の意識の低さに由来していたように思う。とても淋しく、強い憤りを感じるのだ。
人権が守られていないということは、他者の命が簡単に奪われてしまうことと、決して無関係ではない。それは本当におそろしく、絶対にあってはならない。人権意識の低下は、そのような世界と、地続きであるとしか思えない。だからこそ、そのような論法には、もっと慎重であるべきなのではないか。













