昨日。
チャゲアスを聴きながら花屋に向かう。ASKAの声が沁みるのは、いつも少し心が脆いときだ。花屋に着いて、耳栓代わりのイヤホンを外す。なぜか、チャゲアスが鳴り止まない。あれ?と不思議に思ったら、店内でもチャゲアスが流れていた。
曲は、「SAY YES (STAMP Version)」。有名な「SAY YES」を、2002年にセルフカバーしたもの。流れていたのがオリジナル版だったなら、大ヒット曲ということもあり、「お。ラッキー!」程度で済んだのだが、STAMP版ということで、「なぜ?」と、なんだかそわそわしてしまう。外で聴いたことはなかったから。暑さでついに幻聴が聞こえ始めたかとも不安にもなる。
しかし、もしもこの曲を選んで流しているのだとしたら、私が好きなこの花屋も、私が好きなチャゲアス好きということになるのではないかと(冷静に振り返ると、チャゲアス好きなんてありふれている)気になって仕方がなくなる。それで、会計のときに、ついに「チャゲアスがお好きなんですか…」と店員さんに聞いてしまった。
絵を展示させていただくようになり、居心地がよいと感じていたお店が、単なる客と店員という関係ではなく、顔見知りとなることも増えてきた。それはそれでありがたくうれしいものだが、引っ越してきて新しい町では、なんとなく通行人でいたかった。なのに、自我がはみ出て、防ぎきれず、聞いてしまったのだ、不覚にも。
が、盛り上がることもなく、「ただ流れてきただけなので…」と返事をいただく。ホッとすると同時に、ほんとうに恥ずかしくなる。そして、有線が流す曲の幅広さをはじめて知って、驚く。「SAY YES (STAMP Version)」の途中で入店して、終わらぬうちに退店。こんな速度で花を選べたのははじめてかもしれない。ピンときたものがすぐにあったから、恥ずかしさ由来というわけでもないのだが。
恥ずかしさには目を瞑って⋯、ともあれ、好きなアーティストの曲を外で、しかも不意討ちで聴けるのは嬉しいものだと、しみじみ思う。私は、「SAY YES」はオリジナル版で満足してきたので、わざわざSTAMP版を聴いてこなかった。が、改めて聴いたら感動してしまった。サブスクでなんでも聴けてしまうことにも驚きだ。これまで聴いたとき、なぜしっくりこなかったんだろうと考えると、サブスクで気軽に聴いてしまっていたからかもしれない、とも思う。音楽との出会いは変な場所で、サプライズ的に発生したりもする。その現場は意外にも、情報溢れるネットよりも現実のほうが多かったように思う。この事実に、明るい気持ちにさせられる。
ASKAのことはよく考える。「SAY YES」をうたったときの心と、カバーしたときの心は、きっとかなりズレがあるのだろうと勝手に感じて聴いているが(「群れ」でうたっているように)、過去と今がズレていても、ズレながらでも歌うことは、意味があるのだろう。こうして感動させられたのだから。音楽というものは、人間よりも人間であって、どこでも、何度でも、出会えるものなのかもしれない。
今日。
一日カーテンの皺を描いていた。描いては覆い、描いては覆いの繰り返しで、皺は私に不毛な思い出や不安を想起させる。皺ばかり描いていれば、まあ暗くなるだろう。そんな思考の横に、毎晩読んでいる刃牙の登場人物たちが、毅然たる態度で佇んでいる。相変わらず、私は圧倒的に花山薫に憧れている。花山のように強くありたいと思っている。しかし、「強くありたい」と望んでいる時点で、「鍛えるのは女々しい」と謳うほど最初から強者としてうまれたらしい花山には絶対になれないであろうことも分かる。だから、私は、花山のことを慕う柴千春こそを、もっと自分ごととして見なければいけない。無限に繰り返される波のような皺に、何度でも挑み、何度でも苦しみ、絶対に敗北を認めないという精神を作らねば。
🐻 🐻 🐻
熊本の地震の義援金の情報が出ていました。
役に立つかはわかりませんが、貼っておきます。












