お仕事 / duftさんの包装紙

 
 

大きすぎてうまく撮影できません。
duftさんの包装紙に絵を使っていただいています。おそらく第4弾の今回はこの絵でした。けっこう前からかと思うのですが、お知らせができていませんでした。
綺麗にほどくと大きなポスターのようになります。写真だと伝わらなそうですが、ラフな質感もお気に入りです。お花を買うと包んでもらえますので、気になる方はぜひduftさんでお花を買ってみてください。

duftさんでは、夏に花の絵を飾らせていただくと思います。
また花と一緒に花の絵を並べられるのが嬉しいです。おしらせします🏃‍♂️🏃‍♂️🏃‍♂️ 

デザイン:浦川彰太さん
お店:duft 
(東京都世田谷区梅丘1丁目33-9 2F)

月と石と光

 
 
熱の中で描いていた絵は歪んでいた。今日は熱が下がったので、冷静に直せた。おかしくなっていたんだな。三時間感覚で力尽きるが、時間の速度はとても早かった。夕方、誰かの淹れたコーヒーが飲みたくなって久しぶりに外に出た。うすむらさきの空に小さく白い月が浮かんでいて、さっきの絵の、花瓶にさした光に似ていた。
 
チュルリョーニス (何回書いても名前を覚えられない)の展覧会の記憶は、日に日に忘れていった。きっと故郷が大好きだったんだろうなという感想と、綺麗だと思った絵たちの断片と、会場で流れていたピアノの音の耳ざわりが残っている。絵そのもののことも音楽のメロディもほとんど覚えてない。霧のように散って幸せな景色の余韻となった。
石が大好きな友達と石を拾いに行った時のこと思い出す。ちょうど一年くらい経ったらしい。私はそんなに石を愛でられないし、さんざん描いている花のことだって全然。愛するってすごいことだと思う。すごい幸せなことだと思う。それ以外何もいらないんじゃないかと思う。
本当にずっとそう思っている。 
 
宇宙に巨大な石拾いがあらわれたら月は石のように拾われるのかもしれない。小さな私には花瓶の光にしか見えなかった。

消えたともだち

 

少し前、雲が見事だった日に、描きながら横目で窓を見ていた。ほんの一瞬。大きな雲から「おっすー」という感じで、何者かが顔を出す。なんとなく他人とは思えぬフォルムに感動したが、その後すぐに消えてしまった。

今日は朝、喉のざらざらで息ができなくなって起きる。風邪を引いた。お昼あたりからノロノロと花を描き出したら、意外と健康なときよりも集中、というか、没頭してしまった。息継ぎなく泳いでいるみたいで苦しい。こんなもんかと切り上げるタイミングがわからなくなっていて、気づいたら夜中だった。風邪を引くと普段の不安がいっそう強くなる感じがする。後悔が怖くて、やめどきがわからない。あきらめにはパワーがいるんだろうか。いるんだろうなあ。
 
昨晩いただいた花はその人がそのまま花になったようだった。包まれたときにはきれいとしか思っていなかったのが、家に飾ってみると異質が際立ってドキドキする。自分がよく描く花と同じ花とは思えない。全然違う。魔法みたいで不思議。というか、魔法なのかも。今日は風邪っぴきの夢の中みたいな状態で、いただいた花束からひとつだけ描いてみたくなって(風邪だからか珍しく)苦戦してた花を描き終わって剥がしてから、チャレンジしてみた。魔法にかけられてる花、魔法が解ける前に描きたいと思って急いだ。そのせいなのか、色々あいまってなのか、記憶があんまりない。どんな絵になってるのか思い出せない。明日起きたらスケッチブックが全部真っ白だったらどうしよう。しょうがないか。しょうがないなあ。
 

ラッキースター、ラッキーダイヤ。神出鬼没のともだち共。

故郷 / 三角


 

数日前、久しぶりに美術館へ。いただいた招待券があったから。
美術館は毎回憤慨してしまうのでいつからか苦手になってしまった。今回もまた憤慨したが、チュルリョーニス展には感動した。音楽の人の絵だった。美しかった。とても真似できない。絵の中にリズムがあり、一筆が軽い。足をとめて人混みの中長く眺めた絵をおぼえておきたいと思い、図録を欲しくなった。図録というのはとてもありがたく、しかし、原画とは全くと言っていいほど別物だった。なぜかほっとする。写真は一枚も撮っていないので、忘れてしまうだろう。
絵をもっと描こうと思った。下手でもいいから。描きたいもの、描かなければとおもうものがある限り、描いたらいいんだと思った。チュルリョーニスはきっと故郷が大好きだったんだろう。心の風景を愛してたんだろう。真意はわからないけど、なぜそう思うのかもわからないけど、そういう心はいちばん嬉しい。彼の中の美しい世界は現実にたしかにあったのだし、あるのだ。描くことで、少しは安心して手放せたんじゃないか。
 
今日。朝起きてまず漢方ぶちまける。気を取り直して味噌汁を作り始めたら間違えて夜ご飯を作り始める。「何してんだ?」と困惑して落花生の薄皮向きを横着することを決意すると二倍の時間かかっていることに気づき絶望。自業自得なんだけど、今日は大凶なんじゃないかと落ち込んできて、数日前の感動はどこへ、すべてのやる気が一瞬で消失。振り絞って散歩。帰りがけ家の前にカメムシがいらっしゃり、目を合わせないように情けなく震えながらなんとか乗り越え家のドアを開ける。そんな感じだったので絵は描けず、掃除したりキャロットケーキを作ったりしてあっというまに日が暮れた。ちいさな三角と夕暮れ空で少し回復。
 

 
とってつけたようなミントはすぐとりました

鯉を見る鷺と人

 

 
川の横を歩いていたら、バッシャバッシャと音がした。何事かと覗いたら、大きな鯉が溺れていた。水位が低いから苦しそうだった。(大丈夫かいな?)と眺めていたら、川辺にいた鷺も(大丈夫かいな?)と鯉を凝視していた。あの瞬間、私と鷺は同じ表情をしてたと思う。
 
とくべつ面白いわけでもとくべつ悲しいわけでもないが、妙に心がざわついている。6月になったからかもしれない。年々冷静になってきてはいるが、今年もやはり来ている感じがする。毎年梅雨に聴いている歌をそろそろ聴かないといけないのか。大好きな曲なのになぜか少し気が滅入る。雨は好きだけど辛くなる。でも今日は、絵はよく集中できて、とくに葉をうまく描けた。拍子抜けするほどあっさり描けちゃったので、多分花に苦戦して落ち込むだろう。蕾がしれっと咲いていた。見ながら描きたかったのに間に合わなかった。しょうがない。無。ひと段落するたびに台所に立って何かしらをして、また絵に戻って、この行き来があるから我に返らない、を保てている。スキマはある。危険。今まで乗り越えてきた6月を想う。
 
昔激怒したことをもう一回思い出してみると同じくらい激怒できる。自分でも少し引いているしびっくりするが、ふと、傷跡なぞるように生活おくると、気持ちはほぐれていくのかもしれないと思った。激怒は結果だった。結果についてをいくら考えても、治癒のために必要なものなど何も出てこない。火は燃え続け、傷を深くし、自傷のループができあがる。でも、ループはいつか点滅する。結果の前や背景にある、無関係で無数の営みの瞬間のひとつと、今この瞬間とが重なる部分を、気づいてみる、見つめてみる。思い出してみる。それで、私はやっと少し反省することができた。きっとそういうことでないと、私は治らない。この愚かさは、冷蔵庫の野菜たちを腐らせるのと似ている。
 
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勉強のため読もうと思って買った本は眠くなって全然進まない、レシピを参考にしようと思って買った料理本は毎晩熟読している。料理とは到達するものなんかじゃなくて、食べたいときに食べるために作るものということがもう深く分かった。あったりめえの話である。なるべく憧れないように読んでいる。闘いや、抗いのための料理はもうしないと思う。今日はズッキーニを焼いてお昼に食べた。Kさんからいただいた熊本のレモンを漬けたシロップも出来上がったので味見、味音痴なのでよくわからないけど甘酸っぱくておいしかった感じがしました