瀬戸内海を窓から覗くと薄緑に光っていた。まるでプールのように穏やかだった。近づいて水面を見ると、やはりプールではなく海で(当たり前だ)、飛び込んだら這い上がれなそうで、ゾッとした。青森で海を見た時のことを思い出した。途方に暮れるような水平線に果てしなさを感じて、死を連想した。あの海の景色は死のイメージに近い。だからあまり近寄りたくなかった。遠くからでも近くからでも変わりなく荘厳で怖い海。近く近くまで来てようやく気づく尾道の海は、もしかしたらもっと怖いのかもしれない。
すばらしい場所ですばらしい展示を見た。どうしたらこんな場所が作れるんだろう、と考えると、逆に、どうした「から」こんな場所が作れる、なんてことはないんだろうなと、答えになってはいないけど腑に落ちて一人議論が完結する。素敵だなと思うのと同時に尾道の海みたいな気持ちにもなる。みていいのだろうかと思うのと同時にみせてくれてありがとうございますと言いたくもなる。筆跡のひとつひとつが研ぎ澄まされている。思想や主義や主張とは違う、もっと天然で自然なもの、祈るみたいに、線も色も形も生まれているのだろうかと想像する。地続きの絵、だから、憧れてもきっと描けない絵。脆く見えるのにどっしりしているのは場所の力なのだろうか。一歩踏み外したら全部が反転しそうな緊張があるのに緊張が見えにくいのがすごい。庭のような場所。しらない誰かの大切を、まるで自分が最初から持っていたように、私も大切だと思った展示。
大切なものを水面にそっと浮かべて手放す時なにを祈るだろう。穏やかでもそこは死が近すぎる。他者は何ができるだろう。祈りは、大切が大切のままいられますようにとか、無事に渡れますように、とかだろうか。他者は、たぶん祈りとかじゃなくて、自然な形で、穏やかな波に手放せるように、そのための手配とか介助とか、小さかったり大きかったりの具体的なことをする、淡々とする、孤独にする、ことになる、と思う。その報われなさについて、自分はどうできたかということを、もうしばらく考えている、でも自分にできたことがまだ見つからないし、まだわからないでいる。まなざしとか、やさしさとか。自覚とか。簡単な言葉だけど、きっとこんなに難しく大変なことはなかなかない。よっぽど近くまで来ないと気づかないことがある、だからただありがとうと思っている。きっと無事に渡れたこと、そう思えたことを。
出発した「大切」は、きっと心配するまでもなく、祈るまでもなく、勝手にやさしい風がふわりと吹いて、いくべきところに連れて行ってくれる。いつもそうなんだと思う。痛くてもやりきれなくても。そんなに脆くない。人も絵も心も。
