退屈、異界

 
 
病院のために外に出たら、空は晴れてるのに雨がぼたぼた降っていた。急に眠くなって昼寝をしたのはこの雨のせいだったらしいと納得した。思ったより涼しかったので、ASKAの『Kicks』を聴くために、花屋まで歩くことにする。心がふやけている。そういえば二週間くらい前にも、同じように晴れの雨降りのなか、チャゲアス聴いて花屋に向かったんだった。

退屈というのか、虚無感なのか、自律神経のいかれなのか、失踪欲なのか、わからないけど、雲とか瓶とか水とかカーテンとか皺とかに、飽きてきている。なんとはなしに、たぶん描くだろうな、という気持ちで選んだ花が(またトルコキキョウを選んでしまった)、ひとつの希望みたいに思えていることに驚いた。花を選んだ帰り道、そんな気持ちになるのなんていつぶりだろう。というか、今まであったのだろうか。

子どものころ、異界へのあこがれのようなものがあって、異界を想像すると、よい胸騒ぎがするのだった。子どもながらに「この感性はきっと忘れてしまうものだから大切にしよう」と何回も思ったものだが、成人したあたりから、異界を想像しても、あのころのような胸騒ぎまでは起きなくなってしまった。感性というのは、意思でどうこうできるものではないのかもしれない。いつからか、異界へ行くよりも、なつかしい声をまた聞きたいとか、会いたいとかのほうが、願うようになった。仕方ないとはいえ、つまらない人間になったなあと思う。死って、こういうところにも作用するのか。

夕暮れの空は、ワケがわからないくらい美しく、今日も今日とて見事だった。 
今日のような夏の雲をじっくり見ていると、しかし、あのころと同じ胸騒ぎが起こった。それは、その雲そのものへの胸騒ぎではなくて、雲の凄さに圧倒されて、気が遠のいて、自分のことを忘れてしまうような感覚だった。飽き飽きした「日常」そのものへの胸騒ぎだったのだと思う。だから一瞬でおさまった。すぐに退屈と陰鬱の自分にもどった。たしかに、自分の生活というのは、異界そのものなのだ。なのに、その中にいるときには退屈すら感じる。摩訶不思議。花が希望かあと、少し恥ずかしくなる。どんなに筆が重くても描けるうちは描くよと思う。花で気をまぎらわすくらいの精神状態でも、情けなくとも、まぎらわしながらでもやるよと思う。
ほんとうに夏は疲れる。

まるいこころ

 

おやき。具材を包んで、まあるくしていったとき、漠然と、腑に落ちたことがあった。歪な丸は、こう在りたいと思う心のかたちに似ている。自分の中にあるとんがりは、やはり、できるだけ排除していこうと思った。鋭利になると、視界が狭まって、かつて見たかったものまでを見落とす。懐かしい絵を見たとき、感情が激しく揺れ動くのは、その絵が「よい」からではなかった。私が見えないつむじのあたりを、不意につついてきて、思わず涙が出そうになるのだ。通りすぎたもの、あきらめたこと。悔しいか、淋しいか。それでいいじゃないか。そのままを抱きしめたらいいじゃないか。撫でてみたりしたらいいじゃないか。まるいこころ。いつまでも持ち続けていれたらいい。

内省ラッシュ

 

もう一週間も絵を描いていない。スケッチブックを開く気にすらなれない。今日は描こうと思っていたのに、遅くに起きてからずっと内省していた。おおくの人が帰省ラッシュにのぞんでいるらしい。そういう時期なのかもしれない。

猛烈にノートを書いていて、内省っていいのかもしれん、と呑気に思った。少し前までは内省ではなく、懺悔や、反省だった。そのときの自分はというと、絶望ばかりだったから。今の自分は、少なくとも、歪みまくった認知を、「歪んでいる」と、少しずつでも認識できるようになった。歪んだ視界であっても、なるべくまっすぐに受け取るべく、そのための方法を考えられるようになったし、そこを努力できるようになってきた。その変化だけは、成長であるとして、嬉しく受け取っている。
 
内省。
喋りすぎた、と後悔したとき。そもそも、主張したくなるとはどういうことなんだろうと考える。このブログで書いていることも例外なく主張ではある。そう思って書いてきている。けれど、これがじっさいの会話や、なにかにめがけての主張であるならば、そこにはもっと明確なものが含まれている気がした。だから、ここで考えているのは、おもに、会話における主張についてのことである。だれかとの会話において、自分はなぜ主張したくなるのだろう、と考えるに、私の場合は、その多くが、矯正欲を孕んでいるように感じる。または、承認欲求。それに付随する、反応欲のようなもの。それらも、よく生じる。自分の悲しみや淋しさをもちだして、共感を強いることの傲慢さ、そして無意味さ。(悲しみも淋しさも、誰かに共感してもらわずとも、自分の心の内側に、絶対的なものとして存在しているはずなのだから)ここに挙げたもののどれひとつにも、自分は気づくことができないでいた。こうして書き連ねると、なんて情けないのだろう、なんて未熟なのだろうと思う。泣きたくなる。しかし、自覚できただけ、まだマシであると思いたい。 
 
とはいえ、それらの欲求を抱くことも、主張することそのものも、もちろん、悪いわけではないのだと思う。そうしてでも伝えなければいけないことは、たくさんある。ただ、それが無自覚におこなわれることは、とても危険なことなのだ。そのことを、よく自覚しておかなければならない、と、強く思ったのだった。
 
自戒をもちながら、ここにひとつ、主張を書いてみる。
私は、「〇〇だから〇〇の資格はない」 という論法について、とにかく慎重にならねばならないと思っている。問題の本質がすり替わることがあるように思うからだ。そもそも、資格というものを持ち出すとき、人はどんな裁量をもってはかっているのだろう。ここが曖昧である限り、なんの秩序もない、まったく意味のない言葉となるのではないか。だれにでも等しく人権はあり、それを踏み躙るようなことは、決してあってはならないと、ずっと思っている。私は時々、自分とは無関係のひとたちのあいだで起こったことに関して、勝手に傷つくことがある。その多くは、人権の意識の低さに由来していたように思う。とても淋しく、強い憤りを感じるのだ。
人権が守られていないということは、他者の命が簡単に奪われてしまうことと、決して無関係ではない。それは本当におそろしく、絶対にあってはならない。人権意識の低下は、そのような世界と、地続きであるとしか思えない。だからこそ、そのような論法には、もっと慎重であるべきなのではないか。

⋯主張のつもりで書いてきたけれど、読み直すと、これは問いかけなのかもしれない。私は、主張したいことなど、本当はないのかもしれない。

影を産み出すから光は優しい


 
 
漠然とらくがきの漫画を描き始めて、続いてしまって完結できなくて結局数日費やして、(そもそもが汚すぎるので無茶なのだが)できるだけ見やすくしようと明け方まで編集作業(足掻き)。絵も描かず、外にも出ず、なにをしているんだろうと思ったりするが、らくがきだってなんだって、やるときは手を抜かず真剣にやるんだと決めたので、仕方がない。本意が伝わらなかったとして、とくに悪いように伝わってしまったとして、それを相手に押し付けるのは、傲慢だと思うようになった。自分の落ち度をしっかり認識するようになった。描くならば、描き切らなきゃ意味がないんだと思う。へたくそな漫画を本気で必死で描いては、刃牙を読み、面白さに動悸がしてきて、桃を食べ…いつかの夏休みのような日々を過ごす。今日はノートを広げて、宮本武蔵と範馬勇次郎の関係性、また、なんで刃牙に宮本武蔵がでたんだろうということを、ひたすら考えた一日になった。本当に小学生のようでびっくりする。
 
『グラップラー刃牙』、『バキ』、(あいだで『疵面』、『創面』)『範馬刃牙』を読破して、『刃牙道』に突入し、読み終わってしまった。あまりに『範馬刃牙』のラストシーンが美しかったために、先に進むのを躊躇していたが、親子喧嘩後の世界を見ることができて本当によかったと、今では心の底から思っている。本人が認めぬ客観的なものであれ、事実上の勝利によって、打ち砕かれないとおもっていた強く大きな世界観を粉砕された。それが、清々しかった。強者が強者でいられなくなるのではないかと、少しでも不安がよぎった自分がバカだった。そんなにヤワじゃないんだわと突っぱねられた気持ちになって、嬉しさが込み上げる。なのに、愚かにも、私は今、『バキ道』に進むのが怖くてたまらない。

宮本武蔵はほんとうに好きだった。本部も、烈も、というか、気付いたら、みんな大好きだった。それでも憧れるのはやっぱり花山薫だ。キャラクターの死や成長ではなく、ただかっこいいというだけで号泣したのを、はじめて経験した。花山は初登場のときからなんにも変わってなかったから、ただ自分が花山を近くに感じただけなんだろうと思う。『刃牙道』になってからページをめくる手がずっと重くなった。
 
武蔵が花山に見た「光」とは、花山のもつ「義」なんではないか。臆することなく、振り返ることなく、ブレることなく、真っ直ぐに、捨て身で振るう渾身の一撃。その姿は、それ自体はまちがいなく狂気である。それでもその美学に心打たれる。同じように武蔵も打たれたんじゃないか。少したすかったんじゃないか。
花山が殴ったところで、相手が死んだところで、戻ってきてほしいものは戻ってはこない。失ったものは失ったままだ。だから花山のパンチは、単純な報復や報いというより、それぞれが抱える恨みや憎しみへの弔いなのではないか。そしてそれは、相手を含め、生きているものへの救済でもあるんじゃないか。
 
(日記が少しずつ刃牙に侵食されてきて、しらない方には申し訳ない思いでいます。スミマセン。気になる方はぜひ読んでみてくださいね。他人事とは思えない漫画です

らくがき漫画 / 真夏の夜のダイヤ









らくがき漫画(2026-8-8)
真夏の夜のダイヤ 
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頭が考えごとで煮詰まると漫画を描きたくなることがある。そんな時はいつも、手のひらのともだち・ダイヤ兄弟たちが体を張ってあらわれてくれる。彼らはいつもバカで真面目で真剣だ。笑われようとも、ばかばかしくとも、恥ずかしくても、ずっと彼らが大好きだ。 
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おまけ