思い出すと心がギュッとなる過去がある。いろいろあるが、最近は、人のもとで働いていた時にうまくできなかったことや間違えたこと、またその状況が、パッパッパッと花火みたいに思い出される。夏の風に吹かれながら。
頭の中で追体験すると、仕事はできないまま。適応できない残念な自分のまま。誰に何を求められているかわからない。それどころか、まずは、息の仕方を思い出さなければいけない。手の洗い方もフォークの持ち方も。全部忘れたけど、取り繕えるだろうか。…そんなことばかり考えてしまうので、きっと、今もだめだ。今もだめだが、今は家の中にいて、全部空想なので、誰にも迷惑をかけていないのだった。過去を、少し離れて見れるようになった。 過去とは、振り返ることができるようになってようやく過去となるんだなと、当たり前のことを思う。一色だった感情が、今ではたくさんの色が混ざって下水のようになって溢れる。ゆっくりと、過去が、過去になる。
未然に防ぐなんてできるのだろうか?
これまでの人生では大抵のことに満遍なく不安フィルターをかけ、できるだけ慎重にぶつかってきたつもりだが、大抵のことは起こったし、大抵のことは防げなかった。いくつかは防げたが、受け入れなければいけないことの方が多かった。だから、不安を募らせ防ぐことに注力するより、過ぎた後に事実を歪めないこと、歪めないように終わること、の方が、少しは意味がある気がする。出来事や相手…なによりも自身に対しての誠意でもある。記憶は風船のように膨れ上がることがある。その度に割らなければいけないが、風船を割るための針は、よく失くす。
追体験して同じように傷ついていったい何が生まれるのか。できないことに執着して、できることまでできなくなって、そんなこと誰が望むのか。できることを大事にしたらいいのではないか。その傷は、ありきたりの小さな狂いからできたものだったのではないか。その傷は、もうかさぶたくらいまでには回復していたのではないか。私もみんなも、精一杯だったじゃないか。見落とすくらいの小ささで散りばめられた優しさと失敗とを、かき集めたら山になる。ちりとりでまとめて、ゴミ箱じゃなくて棚に入れておく。傷の痛みと一緒に入れておく。
すべての人が、それぞれの事象に対するとき、無表情で静かに、恨むとか逃げるとか嘆くとかではない、それぞれがそれぞれの形容詞しがたい方法で、長い時間をかけて、治癒や感謝ができたらいい、と、なんだかお祈りのように思った。
