絵を、遠く近く、遠く遠く、近く近くで、見る。
私の脳が動き出して、抽象が具象へと処理される。あいまいをあいまいのままに受け取れない自分の脳に呆れてくるが、しかし、一歩引いて裏返ることの淋しさと爽快感は、脳の回路のことなんかどうでもよくなるくらい良いものだ。執着していたいろいろなことが一瞬にはぐれて、また新しい絵が出来上がる。また一歩引けば淋しさが散り散りになって戻ってくる。しかしそれらが構成している全体は美しい。
視界に広がる、悲しみ、憎しみ、怒り、やるせなさは。絵と同じように、一歩引けば風景の一部でしかないのだろう。一部を成すそれぞれが、そして全体そのものが、流動的であり留まらない、儚く美しい存在である。留まらない風景の中で、いつしか忘れられた痛みや記憶は、それでもずっと本物であり、それをないものには決してできない。それらは全体を構成する色となり、質感となり、残留し、影響を及ぼし続ける。そして、呪いにも祈りにも昇華する。ここに、構造から逃れる余白があるように感じる。私が見た絵たちは、呪いではなかった。
自分のことを「大人だ」と言えるような人になりたいと思う。
大人とは、完璧でないし、怖いものでもない。できることやできないことは、今とあまり変わらないような気がする。ただ、今の自分よりも「安心」に近いような存在だと思う。他者の語る大人像のことはよくわからないけれど、私の思う大人の背中はそんな姿をしている。
大丈夫じゃないものを「大丈夫だ」と言えるような人のことは、かっこいいと思う。が、そうなりたいとは思わない(なれないのだろうし)。大人になるとはどういうことなのだろうか。免罪符のように口走ってしまう、本当はとても大切な言葉の数々を、ひとつずつ解体していかなければ、何も始まらないような気がする。
どういう大人が私の前を歩いていてほしいのか考える。小さくなる後ろ姿は自分の向かうべき方角の目印だ。光のほうに消えていく。



