ほんとのほほえみ

 


「ほんとのほほえみ」を、いろんな人から、すごくわかりやすいかたちで、たくさんたくさん、いただいた。かたちのあるもの、ないもの。いろいろ。
星のクッキーの横に、サンキャッチャーの虹が光って、流れ星のように見えた。すぐ写真を撮ろうとしたけれど、 うまく撮れないあいだに消えた。
ほんとうは、そういうものに囲まれて生きている。だめになったとき、どうしてそれに気づけない。
 
空がきれいで心躍るのは、その美しさになんの疑いもわかないからである。太陽はその傾きや高さで、偶然に雲をドラマチックに演出する。それはただの現象であり、わたしの心模様を加味してそうなってくれているわけでない。ひたすらに明白で、それに助かってしまうときがある。それが美しいと感じたときに、のほほんと、きれいだね、と思えることの幸福を実感するようになったことは、少し、淋しいことだと思う。
幸福なんて感じずに、のほほんと、きれいだね、と言えたらいいのに、と願う。
悪いことではないけれど。
いつかまた、そういう心持ちで、それを言える日がきたらいいなと思いながら、暮らす。
 
ほんとのほほえみは、たしかにわたしを癒してくれた。
それがうれしい。ありがとう。

なみだがひとつぶ

 
 
躓くときには、ほんとうに、あっけなく躓く。B'zとアドラー心理学で無敵だったのは、やっぱりただの思い込みだった。人生に無敵はない。実際はあるのかもしれないけれど、わたしのようなひとには「ない」くらいがちょうどいい。
 
数日前に、ひどい目眩があった。しょうもないことで落ち込んで寝込んで、久しぶりに起き上がって、シャワーをあびた後のこと。目が見えなくなって、耳が聴こえなくなって、立っていられなくなった。ゆっくりと意識が遠のく。そのあいだ、「死にたくない」より「この苦痛から早く解放されたい」と願っていて、おどろいた。意識は飛ばず、今度は猛烈なお腹の痛み。冷や汗が久しぶりに流れた。そのときも、不安より、痛みばかりを感じていた。
痛みから解放されたあとには、いつもの通り、ちゃんと不安がやってきた。あの目眩はなにか大変な病気の兆しなんではないか、この後すぐに亡くなるんでないか、とか。猛烈に調べだしたら、大変な病気ばかりが目に入る。
痺れなどはなく、胃の気持ち悪さと痛みだけが残るから、消化器内科に行った。3時間待った。
ようやく呼ばれて帰り際、お医者さんに「症状でググらないでくださいね」と言われた。心配になってしまうんです、と伝えると「わたしたちはこの道でウン十年やっているのだから、ひとまずは信じてみてください。とりあえずは処方した薬をちゃんと服用してみてください。それでも治らなかったら、もう少し精密な検査をします。とにかく、一旦、大丈夫なんです、心配すると、余計悪化しますからね」と言われた。ハイッ!と言って帰る。いいお医者さんだと思った。
 
しかし、たぶん、死ぬときも、こうやって躓いたみたいに、あっけなく死ぬのだろう。やり残したこととか後悔とか、思い出す隙もなく。毎日浮かんでくる不安は、裏返った架空の安心、みたいなもの、かな。
祖父が亡くなったとき、涙をひとつぶ流したらしい。なんの涙だったんだろうと時々思い出す。祖父はわたしと違って病院がきらいで、病院についたときには身体がぼろぼろだった。亡くなる寸前まで、靴下を編んでいたんだ。冬。ちょうど今ごろだったかな。頑固なひとだったけれど、孫のわたしにはいつも甘かった。なんでも作ってくれた。悪いことをしたとき、謝れなくても許してくれた。だっこしてくれたとき、いつも酒臭かった。
 あの涙は、もうちょっと生きていたくてあふれたのか。死ぬのが怖くて泣いたのか。それとも、すべての感情を涙として最期に見せてくれたのか。あるいは、ただの生理現象か。わからない。
わたしはこの世から去るとき、涙を流すのだろうか。流すなら、どんな涙を流すかな。
 
「大変なひとは大変だけれど、そのひとのほんとのほほえみで、助かるひともいる」
さっき、電話で聞いたこと。思い出したらそのままの言葉は行方不明で、もしかしたら全然ちがうことを話していたかもしれないけれど。すっかり乾いた土に、きれいな光と雨が降ったみたい。息ができる。
展示に来てくれた方がチョコレートをくれた思い出が、ぽこんと浮かんだ。わたしもその方の展示に行くときには、チョコレートを持っていくことにしている。
このうれしさの正体が、その言葉を聞いて少しだけ分かった気がした。
それで、わたしも懲りずに生きていていいのかもしれないと思った。

らくがき漫画集①

ここ最近、なぜか急激に増えているらくがき漫画を載せます。
 







路標 ⊹ ごあいさつ

 

 


ALDOさんでの個展「路標」は、昨日で会期終了いたしました。
会期中はあたたかな気持ちでいて、終わるときにはすっきりした気持ちでした。
展示させていただく場所(今回はALDOさん)やみなさんとの関わりのおかげで、バランスを保ちながら制作が出来ているのだと実感しました。本当にありがとうございます。
展覧会の記録はこちらからご覧いただけます。

 
喫茶店での展覧会ははじめてでした。
来てくれたお客さんが絵を眺め、そのあとお菓子やおいしいのみものをたべ、また絵を見るという流れがとても好きでした。絵を見るのって疲れますから、ALDOさんのお菓子はばっちり効いたんじゃないかな。
 
在廊中、わたしもたくさんのお菓子やのみものをいただいてしまいました。
全部すごくおいしくて、ぽわぽわのカフェラテも大好きでした。
「ライラック通りのぼうし屋」という物語に出てくる、ふしぎな店でふしぎな食べものを注文するシーンを思い出しました。練馬という町も、あの物語の舞台のイメージでした。

ALDOさんのコーヒーやケーキをいただいていると、言葉を交わさずとも、言葉のようなものが届いた気がしました。言葉じゃなくて、言葉になる前の姿かもしれない。食べものはすごいです。わたしの絵もそのようになっていたらいいな。
 
 
目の前の静物を見ながら描いていたとき、確かにわたしは静物を描いていました。
透明な瓶の横に果物を配置したらがらりと空気が変わったので、おもしろく追っているうち、その景色は風景のようにも、あるいはひとつの社会のようにも思えてきました。
そしてそれは、「今までのわたし」でもあったし「これからのわたし」でもありました。
近くに遠くにある(あった)ものが、色やかたちや筆跡となって、今、そこに映しだされている。
 
絵は生活という営みのひとつにすぎないけれど、食べもののように、食べたらなくなる、みたいなことがありません。歌みたいに、直接手で終わらせることをせずとも、消えてしまえばいいのにと思います。…でも、歌も、残ってしまうかもしれませんね。
絵を描くことは、営みとしては、不自然な行為でしょう。つくったものを食べるみたいに、別れるために紙片を作品とし、わたしの路標として名前を与えてみる。

 
今回も額を背骨さんにご依頼しました。
絵を見てデザインを考えてくださっております。
背骨さんの視点が入って、嬉しいです。
 
関わってくれたすべての方に感謝でいっぱいです。
ほんとうにありがとうございました。

路標 ⊹ 展覧会の記録

 


 ⊹  ⊹  ⊹

 ⊹ no.1『時間』



 ⊹ no.2『反響』
 
 

 ⊹ no.3『あさって』
 


 ⊹ no.4『砂のように』
 

 

 ⊹ no.5『よどみ』
 
 

 ⊹ no.6『路標』
 
 

 ⊹ no.7『遠くで』
 

 

 ⊹ no.8『足音』
 
 


 ⊹ no.9『朝』
 

 

⊹  ⊹  ⊹ 


 

⊹  ⊹  ⊹  



ここに壁はなかった
風が吹いたら 散っていく
わたしがみていたものは
なつかしい時間 遠い風景
手放すために 名前をつける




「路標」

会期:2024年11月2日(土)-11月23日(土)
場所:ALDO 
  (東京都練馬区桜台5-11-22 楓の樹2号室)