箱庭恐怖

 
 
久しぶりに湯船に浸かった。少し元気になった。いつかのマルタイラーメンのこと思い出してもう少し元気になった。もうダメだと思った昼のマルタイラーメン。熱くて火傷して味はわからなかったが、なんだか満たされた。仕送りみたいに、どっさり入った贈り物のひとつだった。マルタイラーメン。いろんな人にありがとうと思った夕方。
 
鏡に映る化け物じみた自分を見て焦燥感に駆られる。特に髪。ホラーだ。美容院に行きたい。というより、行かなきゃと思う。が、お金があるならば、今は、見た目のことよりも、健康のほうが気になって仕方ない、病院に、行きたすぎる、本当に。
わかっている、狂っているのは精神のほうだ。
数日前、わざわざ紹介状まで発行してもらって、少し遠くの病院で検査を受け、なんでもなく、6400円払って帰った。情けなかった。残金がぜんぜんないので、借りたお金で検査を受けた。ちなみに前日には別の病院で5000円払っている。安心には近づいたけれど。情けないという気持ちの方が大きい。架空の病気を過度に不安がって何もできなくなっていた時間をおもう。仕方がないけど、何回繰り返すんだろう。いつになったら治るのか。治るようなものではないのか。治らない気がする。そもそも病気はそんなに怖いものだろうか。病気に脅かされて毎日がおぼつかなくなるほうがよっぽど怖いのではないか。今がいちばん愚かなのではないか。本当に落ち着いてほしい。私のあたま。

 
 
変な顔しながらドラマを見た。私は、登場人物の行末への興味より、そこで描かれる世界の小ささに対する怯えの方が大きかった。ドラマなのだから、そういうものなんだろうが、出口を塞がれた箱庭のように見え、心がざわざわした。私の中に、新たな恐怖症が誕生。箱庭恐怖だ!
虚しくなったら窒息しそうで。逃げたくなったとき、凌ぐように窓から脱出しても、またつらくなりそうで。多分、人はそんなにヤワじゃない。脆いけれど、強いはず。身支度して出口から出て、振り返って跡形もなく消えていたとしても、思ったより、大丈夫に生きていけるのではないか。、いや、わからない。私の歪みかもしれない。実際、厳しいのかもしれない。死ぬほど厳しいのかもしれない。
 
じゃあ、私は、厳しくなった人に、マルタイラーメンみたいなものを、あげられる人になりたい。いろんな音楽があるみたいに、いろんな居場所、段に応じた救済措置。箱庭なんて作らなくたって、「大丈夫」が無数にあると思えるような。


連日、真っ白な空。雨も降る。傘に穴が空いていて雨水垂れる。蝉が静か。家から少し歩いたところで、見かけるたびに怖がっていた蜻蛉が亡くなっていた。羽は黒く身体は青かった。綺麗だった。気が早いだろうと思いながら、つい夏の空を思い出してしまう。夏のよさを想ってしまう。暑かったけど、やっぱり、あの空に、あの雲に、たくさん助けられていたんだったとか、回想してしまう。暑かったけど、身体もずっと調子が悪かったけど、晴れてたらそれだけで少し楽しかったし、雲の見事さに嬉しくなったし、夕暮れを見るとなにとも結びつけずに悲しくなれたし、曇り空よりはマシだったのではないかと思う。

実際には、夏は、厳しかった。つい先週くらいのことだから、まだしっかり思い出せる。冷房を、寒くないように高い温度に設定しても、一日中当たっていれば調子が狂う。胃が重くなって食事するたびにもたれるようになる。胃液が上がってきて、吐いてしまうんでないかと怖くなる。ドアをあけるのに大きなパワーが必要になってくる。肩や背中や思考がガチガチになってくる。身体も動かなくなってくる。過去の失敗が暇な私に話しかけてくる。そのへんの空気が失敗に変換されて、部屋が失敗で満ちる。何をしてもダメになる。毎日自分に敗けて、失敗が積み重なって、向き合いたくなくて消えたくなったりする。

「私なりにがんばってきた」。そのがんばりが、他者から見て、がんばりだと見なされなくても、がんばったのだから、がんばった。でいい。なかったことにしなくていい。というかならない。どんなに小さくても、あなたの一歩は一歩だ。違うのか。「どうしたらよかったか」。そんなこと、後から考えれば、いくらでもこじつけることができた。今は、つまり、ただ、無理だったんだということを、受け入れなければいけなかった。現実に対して「成功」とか「失敗」とか、いちいち判決を下す癖。そもそも、判決を下すことは、どういうことなんだろう。だれのためなのだろう。その物差しは、どんな単位で、どんな規則を持っているんだろう。知ったつもりになっただけで、わからない、わけではないのだろうか。すべてのことは、ただの「結果」でもあるということ。そこからいろんなもので飾りつけられて、浮き上がってくるのが悪とか罪だったりするだけで。腹の底にいるほんとの自分は、善も悪も罪も罰も、心底どうでもいいことだと、思わないか。自責や他責の前にある、ほんとうの気持ちは、見えているか。どうしたって見えない視界があるっていうことを、おぼえているか。
 
多分、私が、あなたが、みんなが、少しずつ足りない。人間には無理なのかもしれない。いつかAIが満たしてくれたりするのだろうか。今は、私から見える私の足りなさを、ただ足りないものとして、わかっておくことくらいしか。

私の窓に、

 
(2026-8-15)

(2026-8-23)

(2026-8-25)

(2026-9-3)

(2026-9-7)
 
最後の窓辺の絵には、もともと持っていた瓶は描かずに、先日急にいただいた花瓶を描いた。しっかり終われた感じがあった。絵の中で、いまだに窓を開けられないでいるけれど、気づけば、部屋の中にも外にも、誰かの気配で満ちていた。私の窓辺には、空想じゃない、本物の夕暮れも来るらしい。きっとまた描くだろうから、その時までは守っておこう。

花・私・窓

 
 
枯れた花を捨てて、新しい花を買って、花瓶に活ける。換気をしたみたいに室内の空気が変わる。好きになる前に、理解する前に、いつの間にか、花に助けられていた。
 
突然の贈り物、ガラスの花瓶。どうやってお礼を伝えようか迷っているあいだに、月日が流れてしまった。少し前。いつか触れてみたいと思っていた陶器の作品を、背伸びをして注文してみる。お皿じゃないので、使うものではなく、ただ存在するものという感じ。触れてみるとひんやりとして、時々ぼこぼこ、手触りがある。遠くの人からの手紙。メッセージ。会ってないのに、そこにいるみたい。あたたかい。私はずっと家にいて、郵便受けから、ドアから、遠くの風が吹いた。 
 
もう描けなそうだと思っても、手を動かせば絵は進んだ。さっき描いた絵が見慣れない顔をしている。きっと風に包まれたからだ。絵は外を向いている。窓になれている。 
花のこと、たくさんの勘違いをしてきた。私はいつも。好きとか嫌いとか。恋とか友人とか。嘘とか本当とか。花は絶対的な他者であった。ただただ。

浮さんの歌の「話そう 正しさなんて探さないで/話そう いつまでも 私たち」という歌詞が頭に残る。なんてやさしい眼差しだろう。昼間に洗濯物を吊るしながら、繰り返して聴く。 
 
二年前にはじめて描いた窓辺の肖像を今描くと、やはりずいぶん変わっていた。描いてみなければ気づかなかったことがたくさんある。私はこういうことばかりだ。気づかなくてもよいものも中にはあったろうと思う。でもその追求や出会いがとても大事なことのような気がして。間違えていても、恥ずかしくても、受け取らなくても、流されてもいいから。今の私の窓辺は、花が多くなった、空が広くなった、淋しくなった。かつて、揺れるカーテンの前に不安だけがあった。脆弱な安心が突然にあらわれ、そのひとときが、幸せと淋しさを際立たせた。

毎日を満たせ!

 

電話。電話。何度も同じ言葉を喋る。疲れない。
自分の人生は喪失や不安と向き合っているうちに終わってしまうのだろうかと感傷に浸った日があった。しかし、今は、今が、ずっと続いてるだけなんだった。続いてる。終わってない。できることはやることはたくさんある。どうすればよかったか?そんなの知ったこっちゃない。今できることをやる以外に選択肢はない。
今日は電車で、デビットボウイの「Starman」を久しぶりに聴いた。相変わらず何を言ってるんだかわからない。それでも知ってる音楽の中で1番好きな曲だと相変わらずなことを思った。
間違えててもいいと思えるからきっと正しい。正解!!