人間

 
 
「綺麗事のなかで生きていきたいわけではない」とノートに書いた。
そもそも綺麗事をやれるほどの器をもっていないのだから当然である。
 
ないものねだりをし続けるより、少なくてもちいさくても、今もっているものに目を向けた方が、楽しいことを知っている。気づいたら「なかったもの」に接続することもあるのだと、知っている。あきらめなど、戯言だ。
 
ちゃんと折り合いをつけて生きていきたいのは、暮らしとはそういうものだからだ。  
この道を通りたいのに目の前を歩く人がじゃまだったときに、だからその人を殺してみたときに、殺されたその人の「この道を通りたい」はどこに消えるんだろう。どんな理屈をもって処分されていくのだろう。運のいい人だけが強い人だけが上手な人だけが生き残る世界で、生き残った人のかたちをした生き物のなかに「人間」はいるのだろうか。

頑張りたいのは、ちゃんと自分で歩きたいからだ。
私が、私の体で、いきたい場所への一歩を踏み出せるように、歩けるように、頑張りたいと思う、頑張れと思う。

薄緑の海

 


瀬戸内海を窓から覗くと薄緑に光っていた。まるでプールのように穏やかだった。近づいて水面を見ると、やはりプールではなく海で(当たり前だ)、飛び込んだら這い上がれなそうで、ゾッとした。青森で海を見た時のことを思い出した。途方に暮れるような水平線に果てしなさを感じて、死を連想した。あの海の景色は死のイメージに近い。だからあまり近寄りたくなかった。遠くからでも近くからでも変わりなく荘厳で怖い海。近く近くまで来てようやく気づく尾道の海は、もしかしたらもっと怖いのかもしれない。
 
すばらしい場所ですばらしい展示を見た。どうしたらこんな場所が作れるんだろう、と考えると、逆に、どうした「から」こんな場所が作れる、なんてことはないんだろうなと、答えになってはいないけど腑に落ちて一人議論が完結する。素敵だなと思うのと同時に尾道の海みたいな気持ちにもなる。みていいのだろうかと思うのと同時にみせてくれてありがとうございますと言いたくもなる。筆跡のひとつひとつが研ぎ澄まされている。思想や主義や主張とは違う、もっと天然で自然なもの、祈るみたいに、線も色も形も生まれているのだろうかと想像する。地続きの絵、だから、憧れてもきっと描けない絵。脆く見えるのにどっしりしているのは場所の力なのだろうか。一歩踏み外したら全部が反転しそうな緊張があるのに緊張が見えにくいのがすごい。庭のような場所。しらない誰かの大切を、まるで自分が最初から持っていたように、私も大切だと思った展示。

大切なものを水面にそっと浮かべて手放す時なにを祈るだろう。穏やかでもそこは死が近すぎる。他者は何ができるだろう。祈りは、大切が大切のままいられますようにとか、無事に渡れますように、とかだろうか。他者は、たぶん祈りとかじゃなくて、自然な形で、穏やかな波に手放せるように、そのための手配とか介助とか、小さかったり大きかったりの具体的なことをする、淡々とする、孤独にする、ことになる、と思う。その報われなさについて、自分はどうできたかということを、もうしばらく考えている、でも自分にできたことがまだ見つからないし、まだわからないでいる。まなざしとか、やさしさとか。自覚とか。簡単な言葉だけど、きっとこんなに難しく大変なことはなかなかない。よっぽど近くまで来ないと気づかないことがある、だからただありがとうと思っている。きっと無事に渡れたこと、そう思えたことを。

出発した「大切」は、きっと心配するまでもなく、祈るまでもなく、勝手にやさしい風がふわりと吹いて、いくべきところに連れて行ってくれる。いつもそうなんだと思う。痛くてもやりきれなくても。そんなに脆くない。人も絵も心も。

断片 (2026-9)

 





 
 (2026-9)
尾道
 
この町の美しさのこと私にはよく分からない
海とか山がエンタメみたいに見えたりする
催眠術にはかかりやすいのに魔法に全然かからない
手渡されたものには温度と重みがあって眩くて
写真を見返すとたしかにとても美しかった。

8羽の水鳥

 

4年前に描いたちいさな絵「水鳥」は、8枚あったのが、残り1枚になった。当時、たぶん煮詰まっていて、気軽なことをやりたかったのと、金欠の作戦として描いてみたのだった。気軽といえば気軽だったけれど、こんな動機で8枚も絵ができてしまったことに少し落ち込んだ。金欠作戦としてもべつにうまくはいかなかったし。失敗だと思ったりもした。何回展示をやっていても、絵を売るというのが少し恐ろしくて、それなのに「一生貧乏なんだ」と想像すると辛くて耐え難くて、だからお金が欲しいと思った。働くことがむずかしいから、自分にできることでお金を得られたらと願った。矛盾している、だけど自然な感情だ。そりゃそうなる。描いているとき、完成するであろう絵のその先にお金や見返りなんかはまったく存在していないのだから、値段をつけるときによくわからない気持ちになるのは当然で仕方がないこと。生活にはあきらめではなく折り合いをつけることが必要なのだと思う。最近、自分の先を歩くかたの近況を聞かせていただいたときに、やっぱりそうなのかもと思った。私には眩しく映った。

私はいつもあきらめるような気持ちで、捨てるような気持ちで選択してきた。だから後ろめたさがずるずると残る。後悔しないなんて無理だが、後悔する方向に歩み出すのは間違えている。どこかでひとつ道を違えている。生きることそのものが折り合いの連続なら、ゆっくりの足取りでまた歩き直せばいいのかも。いつかみんなにやさしい光が降りそそぎますようにと祈りながら。

絵は、がたがたと売ったり、急に勝手に押し付けたりとかで、速度もそれぞれに飛び立った。7羽の水鳥すべてがうれしいご縁だった。飛び立つたびに、それがどんな経緯でもよろこびがかえってきた。それぞれのよろこびが。「こうだからこうなる」みたいに、予測できた感覚ではなかった。だから、なんであれ、描いてよかったと思った。幸せの記憶は長続きしないけれど、しばらくぶんの、あるいはいつか訪れる暗やみの中で、生きるために十分なあたたかさや光がある。

台所

 


 
贈り物のカステラ柄のノートがきっかけで、カステラを上手につくれる人になろうと思った。第一弾として昨晩焼いたカステラは、一晩でぎゅっと縮んでしまって、喉の渇くような、かさかさした食感になった。焼きたてはシフォンケーキのようだったのに。まだまだということなのか、カステラとはそういうものなのか、そもそもカステラのことをよく知らなかったので、わからない。でもおいしかったので、点数とは無関係に、私は嬉しい。そして研究しがいがあるから、楽しい。上手に作れるようになったら誰かにあげたい。

台所に立てるようになった。今日は夕方にホワイトソースを炊いた。牛乳の白さや、ローリエの香ばしい匂いや、木べらでやさしく混ぜるときの感触が、いろんな不安を包んでくれる。今晩は一人なのに豪華な食卓だった。きのことかぼちゃのグラタンと、ブロッコリースプラウトとお豆腐のサラダと、かぼちゃの豚汁。サラダにはごぼうチップをのせる。お腹空いてなかったのに、おいしくて少し食べ過ぎた。残りのホワイトソースは何に使おう。

たまに、時間とは、本当にもう戻らないんだ、ということを考えて、怖くなる。そういう恐怖を、なんというか、生身で感じるとき、自分は歳をとってしまったと思う。これからもっと迫ってくるのかもしれない。耐えられる気がしないが、ゆっくりとでも受容していくしかないのだろうとも思う。でも、もしかしたらそれは、思っているほどきついものでもないのかもしれない。「耐える」とかではないのかもしれない、そんなに怖がらなくてもいいのかもしれない。世界も自分も変わり続けているのだし。

つらかったけど、目の前のことに怯えてさんざん嘆いていた日々に、あたりまえのように存在していた「安心」が、いまごろ見えるようになる。悲しい歌を一日中聴いていた頃が、悲しい絵ばかり描いていた頃が、気づいたら昔になってしまっていた。無自覚でいられた短い時間は、とても大事なものだったような気がする。そんな日々のことを「幸福」と呼ぶのではないか。…そんなふうに考えると淋しさが込み上げてくるけれど。でも、きっと今だってそうだし、これからもそうなのだ。生きていれば気づくだろう、いつもあなたに吹いていたあたたかい風やまなざしのこと。