故郷 / 三角


 

数日前、久しぶりに美術館へ。いただいた招待券があったから。
美術館は毎回憤慨してしまうのでいつからか苦手になってしまった。今回もまた憤慨したが、チュルリョーニス展には感動した。音楽の人の絵だった。美しかった。とても真似できない。絵の中にリズムがあり、一筆が軽い。足をとめて人混みの中長く眺めた絵をおぼえておきたいと思い、図録を欲しくなった。図録というのはとてもありがたく、しかし、原画とは全くと言っていいほど別物だった。なぜかほっとする。写真は一枚も撮っていないので、忘れてしまうだろう。
絵をもっと描こうと思った。下手でもいいから。描きたいもの、描かなければとおもうものがある限り、描いたらいいんだと思った。チュルリョーニスはきっと故郷が大好きだったんだろう。心の風景を愛してたんだろう。真意はわからないけど、なぜそう思うのかもわからないけど、そういう心はいちばん嬉しい。彼の中の美しい世界は現実にたしかにあったのだし、あるのだ。描くことで、少しは安心して手放せたんじゃないか。
 
今日。朝起きてまず漢方ぶちまける。気を取り直して味噌汁を作り始めたら間違えて夜ご飯を作り始める。「何してんだ?」と困惑して落花生の薄皮向きを横着することを決意すると二倍の時間かかっていることに気づき絶望。自業自得なんだけど、今日は大凶なんじゃないかと落ち込んできて、数日前の感動はどこへ、すべてのやる気が一瞬で消失。振り絞って散歩。帰りがけ家の前にカメムシがいらっしゃり、目を合わせないように情けなく震えながらなんとか乗り越え家のドアを開ける。そんな感じだったので絵は描けず、掃除したりキャロットケーキを作ったりしてあっというまに日が暮れた。ちいさな三角と夕暮れ空で少し回復。
 

 
とってつけたようなミントはすぐとりました

鯉を見る鷺と人

 

 
川の横を歩いていたら、バッシャバッシャと音がした。何事かと覗いたら、大きな鯉が溺れていた。水位が低いから苦しそうだった。(大丈夫かいな?)と眺めていたら、川辺にいた鷺も(大丈夫かいな?)と鯉を凝視していた。あの瞬間、私と鷺は同じ表情をしてたと思う。
 
とくべつ面白いわけでもとくべつ悲しいわけでもないが、妙に心がざわついている。6月になったからかもしれない。年々冷静になってきてはいるが、今年もやはり来ている感じがする。毎年梅雨に聴いている歌をそろそろ聴かないといけないのか。大好きな曲なのになぜか少し気が滅入る。雨は好きだけど辛くなる。でも今日は、絵はよく集中できて、とくに葉をうまく描けた。拍子抜けするほどあっさり描けちゃったので、多分花に苦戦して落ち込むだろう。蕾がしれっと咲いていた。見ながら描きたかったのに間に合わなかった。しょうがない。無。ひと段落するたびに台所に立って何かしらをして、また絵に戻って、この行き来があるから我に返らない、を保てている。スキマはある。危険。今まで乗り越えてきた6月を想う。
 
昔激怒したことをもう一回思い出してみると同じくらい激怒できる。自分でも少し引いているしびっくりするが、ふと、傷跡なぞるように生活おくると、気持ちはほぐれていくのかもしれないと思った。激怒は結果だった。結果についてをいくら考えても、治癒のために必要なものなど何も出てこない。火は燃え続け、傷を深くし、自傷のループができあがる。でも、ループはいつか点滅する。結果の前や背景にある、無関係で無数の営みの瞬間のひとつと、今この瞬間とが重なる部分を、気づいてみる、見つめてみる。思い出してみる。それで、私はやっと少し反省することができた。きっとそういうことでないと、私は治らない。この愚かさは、冷蔵庫の野菜たちを腐らせるのと似ている。
 
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勉強のため読もうと思って買った本は眠くなって全然進まない、レシピを参考にしようと思って買った料理本は毎晩熟読している。料理とは到達するものなんかじゃなくて、食べたいときに食べるために作るものということがもう深く分かった。あったりめえの話である。なるべく憧れないように読んでいる。闘いや、抗いのための料理はもうしないと思う。今日はズッキーニを焼いてお昼に食べた。Kさんからいただいた熊本のレモンを漬けたシロップも出来上がったので味見、味音痴なのでよくわからないけど甘酸っぱくておいしかった感じがしました

川がある




室内でも元気に育ってくれている植物 / Kさんからもらった巻物
 
今朝は用事で早くに起き、起きたら用事が消滅していたので、朝ごはんらしい朝ごはんを食べ、家を掃除し、洗濯をし、散歩に出た。
歩いて隣町まで向かう。川の岩に見たことのない大きさの亀がいて、3度見る。川辺には、ぼんやりしている鴨がいる。鴨はあの巨大亀のことを知っているのだろうか。どうしてそんなに呑気でいられるんだろうと本気で思ったが、ふりかえると不慣れの早起きで、眠くて見間違えただけかもしれない。
 
豆腐屋で、前のお客さんを少し待って、絹ごし豆腐を買ったとき。 「少しお待たせしちゃったから」と、油揚げをおまけしてくれた。私はその間、亀や鴨のことを思い出すのに忙しかったので、そんなそんな、と思ったけれど、嬉しくいただいた。
そこから花屋までの道中にある、不穏な張り紙と共に長期休業していたお惣菜屋さんが開いてた。閉店してなかったんだと嬉しくなって、はじめて入る。コロッケをひとつ買う。
 
それから花屋で。 もう何回花を買っているんだかわからないのに、今日も今日とて緊張して、花を選べない。落ち着いて考えさせてもらっているあいだ、店員さんはこちらを見ずに、しずかに待っていてくれた。そのおかげで決められた。欲しかったのは紫のぼんぼんした花だったが、描かなければと思ったのは背が高くてなめらかな葉の「トルコキキョウ」だと分かった。そろそろちゃんと葉を描かなきゃと思っていた。描くための花だけを買う。財布にお釣りをしまったり、お花を受け取って体勢を安定させるのもゆっくりのまなざしで待ってくれて、しまいにはお店のドアまで開けてくださり(この間、終始、目すら合わせられていない、無礼な客である)、またしても私は、待つことと、そのまなざしに助けられた、ように思う。
 
帰りがけ、やさしさの正体について考えていた。猫が亡くなったとき、ずっと考えていたこと「やさしさとはなにか」が分かった気がしたのだが、それを解剖することはできずにいた。野暮だとも思って。そりゃ自分もやさしくありたいが、結局どんな姿勢がやさしいのかわからなかった。おかげで真逆のことばかりしてきたようにも思う。それが近頃、暮らしの中で自然に気付かされることがある。今日は、自分の活動をやめなければ/あきらめなければ、いつかはそうあれるんでないかという結論が出た。「いつか絵を買いたいです」と言ってくれる人がいたら「そのいつかまで描いていますね」とまっすぐ言いたいし、だから、選べなくてもいいし買わなくてもいいと本当に思う、思っていたい。きれいなものだと思わなくていいし、なんなら貶してもいいくらい、ずっと流れてる川のように、自分というものが在れたら、なにかがようやく始まる気がする。書くまでもないが、その姿勢は強要するようなものではなく、流れている川にふと救われてしまったようなものであって、実際には川以外にもそんな存在は無数にある。そうありたいと願うのは、ひとつの結論であり、欲であり、それ自体はきっとただの現象である。その無意識の循環を健全と思う。
そんなこと考えてたら真逆を歩いていて迷子になった。

花 ✤ ありがとうございました @えほんやるすばんばんするかいしゃ

 

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えほんやるすばんばんするかいしゃさんでの個展「花」は、延長を経て、昨日で終了しました。 お越しいただいたみなさま、協力していただいたみなさま、本当にありがとうございました。静かな最終日には、自分も何回か展示を周り、見納めることができました。 
長い時間をかけて絵を眺めてくれる方がいたり、何度も訪れては見てくれる方がいたり、在廊中はその背中をふしぎな気持ちで見つめました。
 
新聞折込のチラシや、ほとりさんのジャムのこと。マルサさんの額のこと。 るすばんさんのこと、熊谷さんとの活動のこと。ここにもっと感想をかきたい気持ちもありますが、余白が足りないので、後日、心の中でゆっくりと振り返ろうと思います。こぼれ落ちるものあれば、またここに書きます。

展覧会は終わりますが、今日の20時からウェブショップがスタートします。こちらは、展覧会を作ってくださった熊谷さん/絵のしごと が担当してくれています。
あまり数は多くないですが『あしたのジャム』も販売させていただけることになっています。ほんとうにおいしいのと、すごくきれいに仕上げてくださいましたので、ご縁あればぜひ。あたらしいポスターやポストカードもあります。

花を描き切った気持ちにはまだぜんぜんなっていないので、これからも描くでしょう。
どこかで出会ったときには、よろしくおねがいいたします。
 
市村柚芽 
 
✸ 後日「展覧会の記録」もUPする予定です

メロン / 余地 / 会話

 

少し前、メロン。
近所の八百屋さんにはお店の入り口付近に安いようまいよコールを中くらいの声でしているおじちゃんが立っていて、その日は眺めていたメロン(380円)を手渡され、買った。その前の週もそんなふうにして買った。甘くて、ごちそうで、こんなにたべてもいいくだものだったっけ、と訳が分からなくなる。
 
昨日。デパートに入っている好きだった服屋が閉店するしらせを見て愕然として、意を決して大都会へ向かった。迷った挙句、持っていない、鮮やかな青い色の服を買った。ちゃんと着るし、大事にしようと思った。画材屋さんにも寄って、数種類の青い絵の具と、新しい筆を一本買う。絵の具のメーカーは冒険しないことに決めている。ありふれたメーカーだから、だいたい、どこでも買える。黒やその他の色の絵の具は固定化されてきたが、青だけは変動する。揃えていればどんな気持ちの時にも安心。この小さな自由に助けられているように思う。
帰りの電車、窓から空を見たらきれいな水色。反対側は桃色。電車の左右の窓で、こんなに違う景色になるのがふしぎだった。歩いていたらあっというまに日が暮れて、水色も桃色も集結されて真っ黒に。空にはまるまるした月がうろこ雲の向こうに見えた。
 
最近、会話の本を読んでいる。けれど、相変わらずうまく喋れやしない。言いすぎたり、言わなすぎたり、気になったり、後悔したりと、会話が苦手だ。会いたい人にせっかく会えても、話したかったのことのほとんどを思い出せなくなる。脳が遮断されたように何も出てこなくなることがよくある。存在の迫力にいつも敗北しているのだと思う。でもここ数日は、じつに身勝手だが、なんも喋れていないとしても、喋りすぎていたとしても、ただ嬉しい日々だった。会いたい人に会えたことを素直によろこべるのはうれしい。
関わらせていただいたお仕事では、全員の視線の先にあるのが人やその他でなくそのもの・その周りに漂うもの、であろうこともうれしかった。そこに会話は必要だが、大事なことはその先にあった。そのもののことを大事にしていれば、きっと満たされる。