狩野岳朗さんの展覧会を見て、感じた事があったのでここに記しておく。
絵であり音楽であり生物であり風景であり、過去であり未来であり今である作品群だった。哲学的な探求の現時点での結果報告と、キャンバス上の美への探求の実験である事が兼ね備えて成立している。あの絵たちは1枚1枚、ただぼうっと山々を眺めるように心地よく鑑賞する事ができるのに、果てしなく虚しい自己探求の報告でもある。自己探求であるのに、自分では無い他者への研究でもある。閉じていく事と、開いていく事が同居している。
そこにあるのはキャンバスの上に絵具が置かれている物体であるのに、それはある時画家の視点から観る風景に変身し、ある時平面上のリズムに変身し、ある時天井から見た部屋に変身する。解き明かされて、アニメーションの様に絵が動き出すのが(というより幽体離脱したように自分が浮遊する感覚)面白い。
生涯の孤独な自己探求は、ならぶ美しい絵からは想像出来ないような虚しさとの葛藤があるだろうと想像してしまうが、その苦しみに見合う価値と成果を自分は感じられた。それが嬉しくて、ちょっと泣きそうになる。自己探求は内へ、内へ潜っていくけれど、内へ潜った先には全体の縮図が在ったりする。部屋にいるほど、町の中にいる様な。
グレー下地の絵から目線を動かすとキャンバス地そのまま残った白い絵が映る。清々しく、さっぱりとして、湿っぽさのない、心地よい朝の光を感じた。最近の私の夜はろくな事がない。寝付けないと、朝がくるまで不安で頭がいっぱいになる。だから夜はとにかくショートカットせねばならない。
無事夜を越えられた時の安心といったら、朝の喜びといったら。
その気持ちが普遍的なもの、きっと私だけのものではないということがなんか嬉しい。
前に狩野さんと立ち話をした時に、
「ずっと何もできないし、何もわからないです」というひどい相談をさせていただいた事があった。そのとき狩野さんは「この年になってもずっと同じ状況だよ」 と答え、私はただ頭が真っ暗になった。
しかし今思い出すとあのときより少し大丈夫な気がする。何層にも重なった黒を遠くから見れば圧倒されて太刀打ち出来ないよう感じるほか無いが、毎日訪れるひそやかな黒を毎日かわして進んでいけば、なんとかなるような。などと。
ちなみに画像は、狩野さんのワークショップを私ひとりが受講させていただいた時にできたもの。