絵・言葉・日々・生活 / 本についてのこと

 
現在、SUNNY BOY BOOKSさんにて開催中の展覧会「絵・言葉・日々・生活」に伴い、同タイトルの本も刊行しました。

その絵を描くまでのこと、描いていたときのこと、描きおわったときのことを言葉で綴り、絵は途中・または完成としたときの写真を載せ、綴じました。
あとがきとして添えた熊谷さんの言葉がうれしい。

カバーのみ、手製本で制作しました。
紙を選び、せっせと折り、タイトル部は薄い紙に印刷し、手貼りしました。
本をつくるということの罪深さのようなものを、出来たものを見ながらひしひしと感じながらも、ささやかではあるけれど製本作業を経た効果なのか、何度もの熊谷さんとのやりとりのおかげなのかは分かりませんが、今では作って良かったなと思っています。
 
読んでいただけたら嬉しいです。
きっかけを作っていただいた鷹取さん・サニーさんに大感謝です。
表紙に行き詰まったときに助言をくれたえほんやるすばん・荒木さんにも感謝です。
 
現在、SUNNY BOY BOOKSさん、またそのオンラインショップにてお買い求めいただけます。(→

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タイトル:絵・言葉・日々・生活
著者:市村柚芽
編集:熊谷麻那
装丁:鷹取愛
サイズ:約210×150mm
ページ数:28P
製本:中綴じ(カバー付き)
刊行:2023年6月
*100部限定
 




お仕事のおしらせ / 『PENTAS Magazine Vol. 03』

 


 
山梨県内の大学を中心に配布されている、「PENTAS Magazines」という小冊子。
表紙や本文中のイラストを描かせていただきました。
山梨県立大学を中心に山梨大学、山梨英和大学、事業協働機関が協力して、学生・社会人の垣根を超えた地方創生人材の育成を図る教育プログラム「PENTAS YAMANASHI」が制作されています。
デザイナー浦川さんにらくがきのような絵たちもスタイリッシュにさりげなくつかっていただけたのがすごく嬉しかったです。
 
タイトル:PENTAS Magazine Vol. 03
発行:山梨県立大学
編集:田中友悟
デザイン:浦川彰太
発行日:2023年3月

お仕事のおしらせ / 『二周目の恋』



短編集のカバー画を描かせていただきました。
デザインは大久保明子さん。
さわやかできれいな配色にしていただき、嬉しいです。

タイトル:二周目の恋
著:一穂ミチ/窪美澄/桜木紫乃/島本理生/遠田潤子/波木銅/綿矢りさ
出版:文春文庫
刊行:2023年7月

個展「絵・日々・言葉・生活」

 

「絵・日々・言葉・生活」
会期:2023年6月24日(土)ー7月6日(木)
   ※月・金休み
時間:12-19時(最終日は18時まで)
場所:SUNNY BOY BOOKS
 
東京・学芸大学前にあります本屋さん・SUNNY BOY BOOKSさんにて、絵や言葉の展覧会を開催させていただくこととなりました。
展示に伴い、本も制作中です。
お近くの方、興味のある方、見ていただけたらうれしいです。

二ヶ月ほど前に、「日記のような展覧会をしてくれませんか」とお誘いいただき、本展のための制作がはじまりました。
そこから特に展覧会のことは意識せず、ただ自分に必要だと感じた絵を描いては文章を書き、暮らしました。
この展覧会でかざる絵たちのほとんどは、その間に描いた静物画たちとなりそうです。
本には、その絵を描くまでのこと、描いているときのこと、描き終わったときのこと、を綴りました。
絵よりも文章を書いていた時間の方が多いような気がします。言葉にすることで、たくさんの気付きと失望がありました。それもきっと、必要なことだったのだなと今は思います。

ご縁をくださった鷹取さん・サニーさん、本の編集を担当してくれた熊谷さんに心から感謝しています。
 
 
市村柚芽
 

わからないことをわからないままに


休憩に、インターネットを見ていた(疲れるので、休憩になっていない)。昔は飛び込むようにもぐっていたつもりだったけど、今はすっかりはぐれた。いつの間にかついていけなくなって、わからない側の人になっていた(わかる・わからないの世界ではなく、もっと細かな段階にわけられるとは思うけれど)。
さっぱりわからないなあ、と感じるとき、また意味のわからない涙が溢れそうになることがある。

透明な大人たちがさんざんうたっていることは、わたしが、わからないな、と思う若者(といっても、自分と同世代・また自分のある側面もそこに含まれる)に、浸透している気がする。私たちの祈りや後悔は、ちゃんと次世代に反映されているように感じる(局地的かもしれないけど)。それは、あるいは安心だ。
しかし、わからない、と感じることが、誰かにとっての生きづらさでもあるのだろうと想像すると、今度はわたしが生きづらいな、と思うのだった。

心の病気にかかることは、わたしは個人の責任ではないと断言したい。実体のない、大きなもののせいだと思っている。それに名前をつけることはしなくていい。
しょうがないんじゃないか、と、頭によぎる。ただ無責任に。
わたしはいつでも狂いそうだ。でも、自分がもう狂っていることを、自覚している。じゃあ、「狂いそうだ」 と思っているときの先にある状態は、正常ってことなのだろうか。
だとすれば、正常であることは、間違いなのか。わたしは、そうではないと思いたい。
健やかさとはなんなんだろう?

平穏に普通に暮らしたいけど、すべてはわたしの空想なのかもしれないと気付いた。
みんな、それぞれがそれぞれの必要なことしか必要ではない。これは、とても大きな事実。
「他人事」が「自分事」になる瞬間はいつなんだろう。
今って、詐欺師にとってずいぶん生きやすい世の中なんじゃないかなあ、なんて、もしかしたら妬みとか嫉妬からかもしれないけれど、ふと。
 
先日行った狩野岳朗さんの展覧会では、狩野さんが「わからないことを大切にしようと思うんです」と話されていて、よかった。


文を書くことは、あまり好きじゃないみたい。最近気付いた。それでも書いてしまうことがあるのは、心配性だからか。心配性は直ったと思っていたけど、いつの間にか元通りの生活。夜眠る前、不安ごとで心臓がドクンとなる。あまりにドクンとするので、心臓の病気が心配になったりもする。朝に電話がくるんじゃないかとか、これから大地震が起こるんではないかとか、そんなことを考えては、中々眠れない。とにかく死にたくない。忘れたくない。みんな元気でいてほしい。
 
初めて行った病院は真っ白で、輪郭をカッと晒されてるみたいで居心地が悪い。壁にはシミ取りや整形に関するポスターばかりが貼ってあった。ビフォーとアフターの違いはまったくわからない。けれども、どんなことでも、一目瞭然のものはあてにならないような、だいたいはわからないものだったりするのかもしれないね、あれやこれも、或いはそうだね、…なんてもくもくと考える(暇)。日本人だと思っていた先生は中国か韓国あたりの出身らしかった。抑揚がなく、ぎこちない日本語の音はうつくしく、気持ちよかった。
 
古いSDカードをパソコンにさす。探してたデータは見つけられず、当たり前すぎた日常の写真が画面いっぱいに何枚も表示される。居ないって、ほんとに居ないってことなんだよ。そんなの抱えきれないに決まってる。こうしてどうしようもなく立ちすくむ日が、多分いくつになってもあるんだろう。そのたびに私は、乱暴な線を引いては責任転嫁して、消耗して、いっぱい寝るだろう。で、悪夢を見るだろう。ばかばかしいけど、仕方がない。
 
今日は夕暮れがすごくきれいでよかった。
きれい、とか、こわい、とか、かなしい、とか、いつまでも、呟きたい。
夕飯はハンバーグかつくねか、どっちかにする。モチーフとして買った大量の青りんごも食べないと。