2023-09-30

潜る



 
昨日は久しぶりに「背骨」に遊びに行った。店内になぜか、誰もいなかった。向かいの店の改装工事をされているそうで、品物を買いに呼びに行ったら木屑はたきながらお会計をしてくれた。最近好きな漫画の話と、背骨店主の吉田さんがはまってる音楽の話や料理の話をして、店を出る。
 
今取り組んでいる絵を描く気が起こらず、今朝はウォーミングアップ的に無心で家にあったもの(満月みたいな梨)や昨日背骨で買ったもの(筆立てにした)のスケッチをしていた。
今まで絵がうまくいかないとき、ただ描かないことが大切だと思っていたが、案外手を動かし続けるのも悪いことではないのかもと気付く。
絵の中に拠点をうつして、そろそろ現実を諦めたい。息継ぎのタイミングで現実に戻るみたいな暮らしをしばらくしたい。潜りたい。現実の自分は弱すぎるし頼りなさすぎるしどうしようもなさすぎる。
そのためにも、自分の中にある統合できない絵柄のようなものを、統合しないで遍在していいよと認められるようになれたら良いんじゃないかと、無心のスケッチをしていてはっとした。もう少し年をとったら、自分は大丈夫になれる気がする。
描けないだろうと思っていたものを描けたとき、ひどく安心した。引っ越しみたい。たくさん描けるものを増やして、ゆっくりと引っ越しをすればいい。
 
どこにいっても虚無感が背に張り付いているようなとき、やばいなあ、と思う。絵を描くのはなぜこんなにときめきに満ちているんだろう。わからないこと(死や失うこと)を恐れて不安に生きているのに、自分だってわからない自分の絵の中のことはずっとわくわくできる。
背骨に行くたびに、海でも森でもないなにかに潜ったような気持ちになる。あそこが店主吉田さんにとって呼吸がしやすい場所なのかもしれんと思った。お店って良いなあ、と一時期思っていたときに惹かれたのはそういうところなのかも。私も呼吸がしやすいところに住みたい。
 
潜る、潜る。
同じ日に、職場でもあるるすばんさんでやっていたまつむらまいこさんの展覧会をぐるりと見た。 <見た>というより<体験した>という表現の方がしっくりするような気がする。
本という形になる前の、もっと根源的で形になる前のもやもやに、すっと入り込んでは潜っていくような。
かなしいことは何もないのに涙が出そうになる。なんだか使うのが憚られる「やさしさ」という言葉を信じさせてくれる強さがあった。でも風のように軽く、金木犀のにおいみたいに儚い。 いろんなものから解放されて自由になれるみたいに、そしてその先で私は楽しく暮らしていて良いよと言われたみたいに、安心させられた。

2023-09-22

あふれる水

 

最近はひとり、ラジオを聞きながら、よくわからない風景を没頭して描くのがすごく楽しい。だいたい2時間のラジオを2回終わったころ疲れて片付けるので、4時間くらいずっと描いていたみたい。写真の絵は何も見ずに描いているけれど、これが空想だというつもりはなく、多分、自分の信じるあの世みたいな場所なんだと思う。

最近の私はなにかに導かれるみたいに、はじめて絵の中で「私」として、外に出た。記憶の情景や私が現実で見たものの写生ではなくて、絵の中の扉を開いた先の風景だ。もっと外へ、もっと遠くへ、と思うほど、自分の中の奥底へ潜っている。自分の輪郭もわすれ、知らない風景の中にいる。
そこには不安も安心もなく、過ぎていく時間もなく、でも風が吹いていて、花が咲いていて、蝶が舞う。私の会いたいたましいの気配がある。これが自分の奥のほうから発生した風景なのか、とすこしびっくりした。
最近、不安がつよく、気を紛らわすみたいに暮らしていた。
でも 本当はすでに必要なものは揃っていて、もう、ずっと、満ちているんだろう。
だから描きたいものが描けるんだろう。
小さく満ちている。
いつのまにか欠けていたとしたらそれは多分進化ということで…
わかってもどうにもならないことだって積み重ねですこしはなんとかなるんじゃないかと、そうポジティヴにとらえていないとやってられない。

2023-09-18

2023-09-15

アゲハチョウが4回横切った日

 

駅前の花屋に向かい、マトリカリアを買った。念のため商店街の花屋にも寄ると、コスモスが売っていた。「コスモス描いたらどうでしょう」と言われたことをおぼえていたけど買わなかった。今はマトリカリアを描きたかった。

最近昼のスーパーに行ける分のガッツが足らないため、コンビニで飲むヨーグルト買って帰る。今日は飲むヨーグルトを飲みながらマトリカリアを描く。

住宅街を自転車で走りながら展覧会のときのことを思い出していた。昨日人と会ったときのことも思い出していた。
私はその場をやりすごすことばかり考えてしまう。そのためか、その人が帰って数分後に記憶が飛んでいたりすることがある。
マトリカリアから連想されること、これは記憶がまだ残っている出来事。お客さんがマトリカリアの絵をさして「これはカモミールですか?」と私にたずねられた。
私は「たしかそんなんだったような、ちがうかもしれないけど多分それです」と答え(私は花の名を全然おぼえていません)、カモミールはとてもいいにおいだということと、鼻によいことを教わった。ドイツの病院では薬は出さずに、カモミールの香りを吸わせることで鼻を治すのだそう。私は鼻が悪いので、「またカモミール描くときがあったらやってみます!」なんて言ってしまったけど、カモミールなんて描いたことがないのだった。多分、実際描くつもりもない。つきたくてついたうそではないけれど、そういう自分はだいぶ不誠実だと思う。そのうち誰かに怒られるんじゃないかと思って怖い。誰かに怒られるということは誰かの気分を害したり悲しませたりしたということなのに、そんなことより怒られることばかり恐怖する自分は滑稽である。最近、少し諦めた。
いいんだろうか、と雑念過るが、これは良い悪いの話ではないのだ。
できるかできないの話。 …多分
 
そんなことを考えつつ曇り空住宅街を走っていると、角を曲がる度に人が通る。曲がると人、曲がると人。どこに行っても人がいて、今日の自分は不安になった。
今日の自分はそういう気分なんだと分かった。
 
自宅近く、人が居なくなったら今度はアゲハチョウが、目の前を連続で4回も横切った。(内2回は同じアゲハチョウが往復して目の前を羽ばたいた)思わず「オワー!」と声が出た。今夏ベストスコアだったから、うれしい。

帰って、遠い場所から届いた贈り物をほどく。
M君の絵に、いつも痺れてしまう。会ったこともないわたしのために、いっつも全力でサプライズしてくれる。私はあの子にいつか、なにか返せるんだろうか?返せなくたって良いんだろうけど、この気持ちはずっと覚えていたい。あの子が大人になったころ、私はおばあさんになって、そのときになったら何か出来るだろうか。
あみだくじで辿り着いたのは、にんじん(多分)ちゃんだった。
 

2023-09-04

いったりきたりの日


ベランダに、アゲハチョウのきれいな羽の一部が落ちていた。不吉だと思った。しばらくしてからまたのぞくと、もう無くなっていた。強い風に飛ばされたのかもしれない。

ネットで注文していた桃色のブラウスが届く。
着てみると、どうもしっくりこなかった。似合っていないわけでもないような、わからない。それに、嫌いでもない。画面で見ていたよりも女性らしいデザインで、私は自分のことを女だと思っていたけれど、なんだか性別を強調されたようで、恥ずかしい。恥ずかしい?私は今まで自分の性別に特に疑いは持たずに生きてきた。しかしそう思うことに、少し驚く。

私は自分のことだってよく分からないのだった。振り返れば、いつだって自分の内部で起こる化学変化に驚かされてきた。私はどこにいるのだろうか。
 
ブラウスをタンスにしまって、台所に立つ。手を洗う。戸棚から型を出し、ケーキの材料を並べる。ビスケットを砕き、敷き詰める。クリームチーズ・砂糖・生クリーム・水切りヨーグルト・ゼラチンを混ぜ合わせ、型に流す。それをそっと冷蔵庫に移す。
 
冷やしている間、途中の絵を描き進めた。
絵が重く感じ、冴えない。完成が分からず、スケッチブックから剥がさずに、そのまま片付けた。

再び台所に立つ。冷蔵庫から、ナスとピーマンを取り出す。ナスは乱切りにして水にさらし、ピーマンは食べやすいサイズに切る。さっと油で揚げ、めんつゆやおろし生姜などをあわせたタレに漬ける。粗熱がとれたら茗荷と大葉を刻んで散らし、冷蔵庫へ。
料理は身軽で、良いなと思う。冴えない日は、料理をすると、だいたい楽しい。

なんとなく掃除をしたり、なんとなく漫画を読んでみたりする。窓をのぞくと、もう日が暮れていた。最近、夜はあまり好きじゃない。何もしないと、この黒い空のように底のない考え事で頭がいっぱいになる。らくがきをしようと、Gペンをにぎってみるも、今の私に描けるものが全然ない。からっぽ。
ひまだなと思った。しかし心はざわざわと、何かを喋り続ける。米を研ごうと、立ち上がる。

こんな1日は、とても絵には出来ないだろう。台所と机のいったりきたりの1日。
こんなふうに言葉にして、私は何を記録したいのか。アゲハチョウの羽の一部が飛ばされていたことも、桃色のブラウスが似合わないでも嫌いでもなくしっくりこなかった自分の心のことも、料理に対して最近思うことも、多分、さっぱりわすれていいことなのに。
 
でも私は、こんな1日が、こんな1日だとずっと言えるような暮らしが良いなと思う。これを幸福でないと、どうして言える?動きたいときに動かせる手、歩ける足、助けてと言える口、悲しさをそのままの形で咀嚼できる心のゆとり。いつかの自分が涙が出るほど取り戻したい今日かもしれないなと、今の私はおぼえている。時間は私を容赦なく取り残して流れていく。
そろそろ地震が来そうだな、そろそろ病気が発覚しそうだな、そろそろ終わりかもしれないな。

虚無にひたれるだけひたって、潜れるだけ潜って、その先に本質があるんではないのでしょうか。偉そうに「本質」なんていう言葉を使える身ではないとは思いつつも、そんなくだらないことを片隅で、あるいはど真ん中で、最近よく考える。