2022-07-25

蠍の火



今日は映画「銀河鉄道の夜」を観ながら絵を描いた。水彩は、乾くのを待つ時間が多いから、ちょうどよかった。この映画を観るのは4回目くらい。初めて見たのが、多分14歳くらいの頃。今は24歳。宮沢賢治を知ってから10年経つことに、驚いた。

映画「銀河鉄道の夜」ではエンディングの後、「春と修羅」が朗読される。
昔はわからない単語に線を引いて、ひたすら辞書を開いて意味をメモして、理解するために努力していた。(それでも全然わからなかった)今日はその言葉たちがすらすら耳に入ってきて、自分の心の奥の方に(彼の言葉を使うなら、静かに燃える炎のまわりに)くるくる、くるくるとまわりを龍のように漂いつづけた。美しさのことや、生きること、表現についてとか、いろんな話をした記憶がある気がするのに、私の好きな先生のひとりのような気がするのに、会ったこともなくて、私の生まれるはるか昔にはもう死んでいて、本当に、不思議。
「銀河鉄道の夜」という作品は、未完成で、そこに落としこめられたものは彼という人間の考えてきたことの一部でしかないのだとは思うけど、それでもあの世界にはもういっぱいで、多すぎるせいで綺麗な形におさまらず、決まらず、宇宙のように膨張し続ける。彼はいまでも、生きているなあ、と思わせられる。これはまさに蠍の火だと思う。今日ははじめて、空想の中、彼と手を繋げた。
昨日は廃墟みたいになった店を片付ける仕事をしていた。そのときに、その店のことを想って、悔しくて泣きそうになった。怒りたくてしょうがなくなったけど、ぶつける相手はいなかった。気持ち悪いまま、それを飲み込んで今日になって。ジョバンニの(賢治の)大きな深い心に触れたとき、行き場のない怒りや悲しみは浄化されて、自分の中で大切なものになった気がした。

2022-07-23

壺の夢


暑すぎて外出を諦め、今日は家で小川美潮の歌を聴いたり、小川未明の本を開いたり(小川ばっかりだ)、空想の花の絵を描いたり、冷したブランデーケーキとアイスコーヒーでお茶をしたりして、一日を明かした。よい休日だった。

お風呂に入り、お湯を浴びながら、空想で絵を描けるようになったのはどう云う心の変化だろうと考えた。そこに在るものしか描いてはいけないというような強迫観念に近いものが片隅に居たというのに。現時点での結論は、視力が立体的になったからではないかと思う。心で観る事が少しできるようになってきた気がするというか。日常生活を送っていても、その影響を感じる事がある。まだうまく言語化出来ないけれど。
そしてもう一点、自分の絵を人に自慢できるようになったのはなぜか考えた。それについてはまず、自分の絵は自分ではないという事が明確となってきたこと、後、自分の絵は自分だけで描いた訳ではないという意識を持つようになってきたこと、が原因かしらと思った。後者について少し潜ると、表面的な部分に関しては私が筆を動かしているけれど、絵の具も色そのものも筆もモチーフも形も私から生まれたものではないのだから、私はそう言う画材やモチーフなんかに描かされてるだけなんじゃないかという、疑惑。(選択の繰り返し。) もうすこし深く行くと、画材やモチーフが存在するこの部屋、関わる人、社会、環境、…そのようなものに描かされているだけなのでは。(自分の意思で選択しているようで、けれども、そもそも意思とは社会に創られている気がするから、私はどれ、どこにいるのだろう、それは、鑑賞者が知る事かな)
作者とはなんなのか、わからなくなってくる。本の表紙なんかに、著者しか載っていないものに違和感をおぼえるのだけど、それと似ている。
絵は不思議なもので、描いているときはまるで青春のような「絵と私」だけの世界ができるというのに、完成した途端に自分の手のひらから去っていく。筆を置いてから、もう口を聞いてもらえず、私が舞い上がっていただけ。絵というのは生まれるべくして生まれた、だれのものでもない「絵」である。、…かも。なんだか少し、はずかしいような、青臭いような、ばかばかしいような、、可笑しい話。


2022-07-14

40年の溝/ふれる




週に一回の唐揚げ屋のアルバイトで、今日は仲よしのおじちゃんと井上陽水の話で盛り上がった。片隅にあるノートパソコンで「なぜか上海」を流してにこにこした。私は一番「帰れない二人」が好きで、おじちゃんは、「傘がない」が好き(※2人ともミーハー)
その流れでかぐや姫が好きだと聞かされる。私は高校生の頃に、「22歳の別れ」をたくさん聴いていたので、また盛り上がる。40年分も生きた時間の差があるというのにこんなに喋れるのはどうしてだろう。
ギター片手に路上で歌えたらなんて気持ちいいのだろうと 帰り道夢見る。おじちゃんもきっとそう思っているだろう、ああだから話ができるのかなと思った。


本屋さんでの仕事。古い本にたくさんふれて、気付きや感動がたくさんたくさんある。
ポケットにずっとあると思っていた大切な宝物、忘れたころに、もう失くしていたことに気づいたりする。宝物は、ふたたびポケットにもどることはないけれど、古い本達は、その宝物のかがやきを思い出させてくれるような。
大正時代のものは、特に装丁が豪華な感じがする。パラフィン紙が守ってくれて、いま目の前で眩しく鮮やかな色彩。戦後まもない頃の本は、そのとき特有のやさしさをもつように感じる。「本」とはただの情報を得るためのもの…記録や知識そのものとしての存在ではなく、窓のような、場所のようなものなのだなと知る。ノックをして、ベルをならして、あいさつをして、靴をぬいで、おじゃましますをしてから家にあがらせてもらうみたいな そういう準備ができる というか、たっぷりとした時間が組み込まれたような造りの本が、とても好きだ。


勤務先の本屋さんというのは、高円寺にあります「えほんやるすばんばんするかいしゃ」さんです。ポストカードの販売をしていただいたり、ひごろからお世話になっていましたが、最近ご縁あってお手伝いさせていただいていました。
明日から数週間、上に書いたような古い上等な本達が展示(販売)されるようですので、本に興味のある方はぜひ、ぜひぜひ、ぜひぜひぜひお店へ行ってみてください。ぼろぼろのものは息をとめてやさしく扱わなければなりませんが、自分の手で本を開くこと、私などが言うことでないかもですが大変、おすすめです。


それではおやすみなさい。