過去は未来とともにある

 


ちょうど2年ほど前描いていたのと同じ花を選んで描いた。
この花にはやはり緑が似合う。柔らかい春の緑。
過去の自分は今の自分の中のどこにもいなくなってしまったなと、そんなどうしようもない事を少しだけ侘しく感じた時があった。その花を描いていた時の心情や背景は生々しく身体が憶えているというのに、どうしてもあの時のように描く事はもう出来ないのだった。
 
この花を描いていてまた、2年前の事を思い出す。
当時はこの花にえらく苦戦して、やたら時間が掛かった。花が妙に眩しく見え、それを描くのが難しかった。描写すればするほど気持ちの悪い絵になるので、塗っては消して塗ってを繰り返した。 

今回はというと、花を買ってきて二日で描き終わった。 時間にすれば5時間くらいだろうか。
そこに咲く花は私の心の投影ではない。まぼろしではなく、目の前で咲いている。だからか今はまったく眩しく感じない。私はこの眼で観察をしたい。
 
 今日は、何故だか侘しさを感じない。 
むしろ、安心感をおぼえた。うまく言葉に出来ないが、分かったような気がする。
さっき山村暮鳥の詩を知って、それがあまりに自分の心に近いので、少し驚いた。
 
 
「自分は光をにぎつてゐる」 
自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風の中で
掴んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる

鳥の死骸と絵筆

 



最近は起きてすぐに夢を忘れているような気がする。今日も忘れた。 
時間が経つのが怖いと思ってしまう事、いつかやめられるだろうか。

連絡と梱包をして外出。外の方が暖かい。
バサ、と音がして見上げると鷲みたいに大きなカラスが頭のすぐ上を羽撃いていた。羽広げるとあんなに大きいのかと驚いた。横を見ると狸みたいに大きな猫が住宅街を通る。いや、狸かもしれない。こんな都会の住宅街で彼らはどこで眠っているんだろう。
 
郵便局と花屋に行って、帰りには夕暮れ。
最近のこの時間帯はオシロイバナのにおいがする。自転車で走りながら見えた景色の中に美しい野草。いつか切り花ではない花や木や植物を描いてみたい。今はまだ出来ない気がする。 出来ないというか、怖い。そんな事を考えながら家に向かうと、鳥が食われて死んでいた。僅かにのこった肉の間から血と骨が見えた。さっきの狸かカラスが食べたのかな、なんて考えた。見たくなかったものを見た。忘れたいと思った。

夕飯のために米を炊く。今日は十穀米にしてみる。味噌汁に芋、人参、牛蒡、玉葱、炒めた肉を入れる。副菜で小松菜と油揚げの煮浸し。あとは鮭を焼く。

おしらせ・絵をかざってもらいます

 


 
東京・高円寺にあります そぞろ書房さんにて開催される短歌の展覧会で、最近描いた絵「星の散歩」シリーズ3点を展示・販売させていただくこととなりました。

「そぞろ書房」さんは、点滅社さんと小窓舎さんが運営する、あたらしい本屋さんです。
うまく言葉で表せませんが、関わる皆様の事が大好きで、尊敬しています。だからこうして関われる事が、光栄で嬉しいです。
そしてこれからどんな本屋さんになるのか、とても楽しみでもあります。
 
SNSで募集したという「すこしさみしい短歌」約250首(!)も展示されます。
私の描いた絵は今回とても少ないですが、短歌がお好きな方、お近くの方はぜひ、遊びにきてください☺︎
展示する3枚の絵はポストカードにもする予定です。
 
●場所:そぞろ書房
〒166-0003
東京都杉並区高円寺南3丁目49−12 セブンハウス 202号室
●会期:2023年5月3日-7日
●時間:14時-20時

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昨日は夏のように厚かったのに、今日は寒い。
午前中に新宿に行った。駅前には大勢の人がいる。
一人、サングラスをかけた男性が何か喋っている。
怒っているように何かを訴えている。警察は談笑している。
私は男性を少し見て、通り過ぎた。
人々は穏やかな海の波みたいに、ゆっくりと動いている。
先日期日前投票に行った時に、感情が一切揺らがなかった(名前を書く所から、投票するまですべて、<無>だった)のに少しだけびっくりして、それを思い出して歩いていた。
銃声や爆発音が、最近何度か夢に出てくる。  
みんなきっと、必要なものしか必要ではないだろう。
じゃあどうしたら良いんだろう?分からない。 

静物

 

 
明け方に目が覚めて、珍しく早く起きた。
眠れないのにずっと眠い1日だった。
取り組まなきゃいけない絵を投げ出して久しぶりに静物を描いた。
合間合間で粘土をいじったり鉛筆で線を引いたりしつつ、6枚ほどスケッチ。気付くと夜。生活を置き去りにして完全に絵を描いた日になってしまったので、せめてもの記録。
静物描きたい欲がひとまず解消されたようだ。静物の動かなさが嬉しいと嬉しい(日本語が変だ)。花を描くより断然いきいきと筆を動かせるのはどうしてだろう。





白い茎

 


 
今日はいつもよりも少し早起きが出来た。
異国に一人で向かう事になりアタフタした夢を見る。起きて部屋が明るいと嬉しい。 3月に比べると身体が軽いのは花粉のせいだろうか。
 
起きて弁当を作る。
卵焼きはダシと醤油、葱。昨日の晩作ったポテトサラダときんぴらごぼうを詰める。おにぎりはおかか(自分の分は梅干し)。
昨日から珍しく家事が楽しい。どうしたものか。洗い物をして、ゴミを出して、掃除機をかける。
チーズのふかふかしたパンとコーヒーで朝食をとる。
 
11時頃から、絵を描きはじめる。
やはり聴くものが定まらず、集中がよく途切れる。
最近は鉛筆で輪郭をひろった後に、黒い絵具と水分のみで着彩して一時的に完成させるのにハマっている。その方法に頼って良いのかはよく分からない。「見せる」事を意識して制作している気がするから。絵の完成までの道のりで安心する必要はないというのに、自分に優しい道を選んでいる。更にはその状態でスキャンしておいて後々何かの素材にしようか、などと考えている自分がいる。下心まである。けれども逆に、そのような疑念こそ邪念なのかもしれないと考え始める。絵を描くのは誰のためと聞かれたら、自分の為でしかないといえばきっと少し嘘になる。ある意味自分の為だけれど、ある意味誰かの為でもある。プロセスの正しさ的なものは鑑賞者には無関係である。どんな想いもどんなプロセスも完成した1枚の絵の補足くらいにしかならない、なってほしくないと思うし忘れないでいたい。これは絵具がのった紙。私の描く花の絵は実際の花の美しさには到底辿り着かないのだから、からまった思考の前で足踏みするより目の前の花を観察した方が適切だろう。
 
15時頃にお弁当を食べて、絵を再開。
黒く塗られていた茎部分を白く発光したようにしたいと考え始める。実際の茎は黄緑色で、白い産毛が生えている。黒い印象はない。やはり途中段階で完成させるのは絵そのものの完成に近づくとは限らない。安心しか得られないけど安心は結構大事だと言い聞かせる。
日暮れになり画面がよく見えなくなって来たと思ったら17時59分だった。18時頃になると暗くなるんだな。電気をつけて、散らばった絵具をしまって水バケツと筆を洗う。今日はここまで。その足で、日記を綴っている。
これから晩ご飯の支度をする。カブがあるので、カブ料理にしたいなと思う。

青い葉々



可愛くて小さな愛しいなにかが、私の頬にキスしてくれる夢を見て起きる。
居なくなるとはどういう事か、分かった気がする日と分からない日がある。今日は分からない日だった。

甘い卵焼きを焼く。梅干しおにぎりをにぎる。唐揚げと卵焼きとおにぎりをお弁当に詰める。
自転車に乗って外へ出る。桜は散って青い葉が茂る。
画材屋へ向かう。刷毛と粘土を買う。商店街の中の花屋へ。水色の花を買う。
帰宅してコーヒーを淹れる。淹れると言っても、ドリップバッグだけど。
滴るコーヒーの雫は相変わらず跳ね返って、まるっこく数回跳ねた後、呆気なく平らになるの繰り返し。 

失敗した絵は剥がさずにそのまましまう。別のスケッチブックの描きかけの花の続きを描く事にする。
花瓶に生けられた桃色のカーネーションは蕾だったのが咲いて来て、華々しくけれども凛として美しい。まだまだ枯れそうにない。あんなに滑らかな花びらなのに、茎の質感はカラカラとしている。私はいつもカーネーションの強さにびっくりする。
バックミュージックが定まらない。最近は何を聴いてもしっくり来なくて落ちつかない。
完成して、慎重に剥がす。新しい紙に、今日買って来た水色の花の絵を描く。転がってた鉛筆で写生する。集中がしょっちゅう途切れる。花をカメラで撮影する。映像も撮ってみる。
なんとなく描いてるところも録画してみる。
18時過ぎ、日が暮れたので電気をつける。
 
絵を描くのをやめ、台所に立つ。
米をとぎ、十穀米と一緒に炊く。一週間前に買ったじゃがいもは芽が出て来ていたので、4つ全部、皮を剥き芽を取り除き一口大に切って茹でる。卵も茹で、固めのゆで卵を作る。木ベラで潰し、塩胡椒とマスタードとマヨネーズで和え、ポテトサラダ。牛蒡と人参をゴマ油で炒め、みりん・酒・醤油・砂糖で煮る。きんぴらごぼう。味噌汁に油揚げを追加して火にかける。後は夕飯前に鮭を焼く。
 
夜になった。お風呂に入って、ご飯も炊けた。ピアノで弾かれた音楽を聴いて日記を綴る。これから夕飯。

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