2024-04-25

逃避と忘却

 
 
今日は午前中の内に夕飯の準備と荷物の発送を済ませた。明るいうちに料理ができるのはすごく気分がいい。それでも夜まで筆を持たないでいると、今日という日を捨てたような気分になる。これはよくないことだ。ここ数日、絵を描かないことに決めている。
本屋さんで立ち読みした『逃避の名言集』に「何もしていないときこそが芸術活動だ」的なことが書いてあった。その通りだと思う。もっと自信を持って日常を暮らしたい。
(なぜかその本は買わず『忘却の整理学』という本を購入しました)
 
そういえば、「自分見つめ直しノート」を作ってから、もう一ヶ月経っていた。<3月の懺悔のコーナー>を振り返って見てみると、今月の罪(大きな意味で、心の自傷行為のようなもの)がだいぶ少なくなっている。すごい。 自分の中でまだ罪認定されていない罪予備軍も、来月あたりから罪認定してみたらいいのかもしれない。
 
うまく生きるにはどうしたらいいだろうの切実な悩みから、ノートを書いたり料理を時々とても丁寧にやる、のほかに、肌のケアをはじめてみた。と言ってもお金がないので、ただ化粧水とビタミンCを丁寧に塗ってみるだけだけど。これだけでもおおいに効果がある感じがする。数日で肌がもちもちになって(気がするだけかな)、自分へのいたわりが応答されている感じが楽しい。
未だに学校生活の殺伐とした夢ばかりみるわたしは、現実で外にでたとき人の目<しか>気にしていないのだろうと思う。化粧も然り、洋服も然り。絵だけは自分のためだけに描けていた。だからそれがなくなるのが、最近とても怖いのだった。
いつか全部自分のためにできたとき、その恐怖心は少しまぎれているだろうか。そして少しは今より生きやすくなっているだろうか、と想像する。
 
遠くに住む、勝手に人生の先輩だと思っている方と長電話。ややこしさやままならなさと共に生きること。そしてそれを大道芸人のように捉えていくこと。どうしてもここに書いておきたくなった。きっと読み返すであろう自分のために。
(勝手に載せちゃってごめんなさい!)

2024-04-22

翳り

 


描きたいように描けなかったけど、絵と花とを見比べるとこれでいいような気もした。

2024-04-21

愚直ダッシュ

 

しっくりこないこと・嫌悪すること、についてもやもや考える。
先日お断りしたお仕事のこと。しっくりこない、ということを理由に、お断りさせていただいた。どうして自分は「直感のワクワク感」や「ありがたさ」で承れないのか。それは別に悪いことじゃない。こういう出来事があるとき、自分が大切にしていることがなんなのかよくわからなくなる感じがある。断ったとき、なんか拭いきれてない。なんなのか。
嫌悪について。あー、いやだなと感じるとき、対象を自分の鏡として見ている気がする。相手を概念的/観念的にしか捉えていないような。鏡なので、自分が変われば相手もまったくちがうように見える。笑えなかったお笑いが、笑えるようになったりする(逆も然り)。これはいいことなのか悪いことなのか、そして当たり前のことなのかよくわからない。こんなんでいいのか?と今は思う。そんなふうに人を見ちゃって大丈夫なんだろうか。

今描いている花の絵がうまくいかない。うまくいかないと、自分への信頼が、ぴしゃりと割れる。薄いガラスのように張り詰めていて脆い。まあ、絵についての信頼など、そんなものでいいんだろう。というかいつまでもその程度のものにしかならないだろう、わたしの場合は。
筆跡がとてもいやらしく媚びてくるとき、おしまいが近づいているように思う。気を着けないといけない。もしくは決意しないといけない。描き直して塗り直して。絵の具を塗り重ねすぎて全然乾かなくて暇になる。暇になるとすぐ、こうやっていろんなことを考えてしまう。気付くと水バケツは真っ黒で、それは自分の腹の底の感情があらわれたみたい。
きれいな花を描けばきれいだと喜んでくれる人は一定数いてくれて(それはありがたいことである)、だからこんな葛藤は自分以外には重要なものでもないんだろう。まあ当たり前か。でも時々ばかばかしくて笑えてくる。ほんとうにのんきだと。でもわたしはばかばかしさとややこしさを優先したい。多分そっちが本体(正体)だから。しっくりこないことはこれと隔たりがあるということかもしれない。
 
愚直ダッシュ!いにしえの大好きな言葉。わたしは多分、いろんなことを愚直ダッシュで切り抜けたらいいんだと思う。大事なものを大事にするには。もうすいませんって言うなと怒られながらすいませんと言いながら愚直ダッシュで去って行くのが多分身の丈にもあってる。そのラインだ。その意気だ!ある種わたしの人生は難解マゾゲーかもしれない。

2024-04-17

リボン

 
 
描くものについて考えていたけど、また花を描くことにした。
最近はまた、花を描くことが身体にあっているみたい。ほんとうは「フランネルフラワー」という花を描きたかったけど、植木鉢でしか売っていなかったため断念した。それでもう一回自分と見つめ合って、前描いたことのある、茎がふわふわした水色の花を選んだ(名前は知らない)。なんで植木鉢だと買えなかったんだろう。高かったからというより、軽薄だからかもしれない。
 
描かねばならないものなんてない、描きたいものがあるだけ。それをわたしは絶対にわすれてはいけない気がする。最近自分の絵に値をつけすぎている。とにかく自分はまったく潔癖でない、とよく思うが、つい一昨日くらいに、潔癖な人間なんてどこにもいやしないんじゃないかとも思った。いるかもしれんけど、そんなのわたしは信用できない。多分、みんな泥。神格化なんてするもんじゃない。昔の絵を見て、人間嫌いが露骨にあらわれていて笑ってしまった。あのときと何が違うのだろう。
さっき、チューリップを二輪捨てた。艶のある茎だけじゃ、だめなのか。わたしは。
 
 
チューリップの花びらはリボンのように台所に舞った。

2024-04-15

打ち砕かれて親友とまた会う

 

 電車のそばで、一本だけ咲いていたチューリップ。
 
ここ数日、自分の外にあるものから元気をもらうことがたくさんあって、とても元気だった。(その勢いに任せ、今日はとても久しぶりに髪を切りに行く)
 
 
会ったことのない、でもとても大事だと思っている人から電話で教えてもらって出会った、ある言葉(とその裏側にあるその人の存在)。友人が描いた漫画の本が刊行され、その漫画に添えられたあとがきの言葉。実家で部屋を掃除しているときに出てきた、母方の祖母からの手紙に「大好きな柚芽ちゃんへ」。友だちとの長電話(私が延々「バトル・ロワイアル」のことを話していた)、時々訪れるお店にて長話(「モテ」のことを延々話していた)。ぜんぜん切実なんだけど、切実だと大声で言えないみたいな、そういう話題の数々。
家で引きこもっていただけでは絶対に出会わないであろう、まぶしい体験や記憶たちに回復させられる。
 
外はいいもんかもしれない、と思いかけたとき、いい気分で古着屋街の古着屋さん(オシャレ)に入ってみた。
するとさっきまでHPマンタンだったのが、三撃くらいでゼエハアしだす。せっかく古着屋さん(オシャレ)に入れたのだから、普段絶対着ないような色の服を一着ぐらいは買おうと思っていたのに、逃げるように店を離れてしまった。そのとき着ていた服だって普段の自分からすると「色がある」服だった。派手なんじゃないか?かわいすぎる色じゃないか?と思っていたその服は、ここに並ぶ数々のカラフルな服と比べるとすごく地味なので、もはや無彩色に分類させられるような気すらした。その古着屋さんは色味ごと陳列しているから、ギリギリ「ピンク」の棚にはおさまらない色だったかもしれないと思う。お店が混雑してきて、ギラギラファッションをしている人に包囲されているとき、自分は部屋着でパーティーに来てしまったような気分になり、それで逃げるように店を出た。
 

 
商店街を早歩きで逃げているとき、数日前に見て回復させられた言葉をおもいだし、また読み返す。わたしはこれらの詩と親友だとおもう。勝手に。
勝手にこの詩との出会いを持ち帰ること、そしてこれからの人生でこの詩と何回もおしゃべりして作者のことをよく知らないままに仲良くなることを許してくれるのなら「芸術」とはすばらしいものじゃないかと、人生で初めて思った。


友人、大横山飴さんの漫画の内側では、昔大横さん含む同世代の友人たちと歩いたりドライブしたり(彼がとても長い時間運転してくれたのだった)動物園に行ったりしたときに見た景色が当たり前の顔をして存在していた。わたしはそれで思い出した。時間は流れていた。ああ生きていてくれてありがとうと思った。

2024-04-12

きっとおもいだすころにはわすれてる

 
 
 忘れるために描くのかもしれないと思った。
 
とてもひさしぶりに花を描いていた。
何も考えずに描いていたら浮かんでくる色や形が懐かしさを帯びていた。すこし前の自分(一年とすこし前くらいの)に出会ったようだった。
でもわたしが観たいと思う箇所は違っているし、筆の置き方もちがう。黒について思うこともちがう。あのときと同じ筆跡はあらわれない。もうあのときの自分ではないのだと思った。そしてあのとき思っていたすべてのことをあのかたちのまま思い出すことはもうないのだろうと思った。花の絵を描くといつも、少しずつ離れていることを実感する。そして思い出すころにはもう遠くにいる。
花を描いていると、別の絵を描いているときよりもたくさん気付かせてもらえる。自覚できるだけ自我をとりのぞいて描いているからだろうか。
 
 
 
窓に桜が

2024-04-09

桜と耳たぶ

 
 

桜が散りまくっている。
もったいないとは思うけど、さみしさは感じない。地面は雪が降ったように白い。昔から桜は好きじゃなかった。特に理由もなく。でもここ数年は桜を見るたび猫の耳たぶを思い出してしまって、思わず見てしまう。でも別に桜が好きというわけでもないんだろう。どんな桜の花びらよりも、猫の耳たぶのほうがやわらかくかわいかったし。

(桜のある風景の断片)
  • 先日、風のない生温い静かな夜に、桜の木の下で自転車を停めた。見上げると、桜の木と花が、神々しく、青白く光ってた。
  • いつか川越に、そのとき仲良くさせてもらっていた絵描きの友人たちと桜を見にいったことがある。桜というより白いかたまりが、風が吹くたび、ドッ!!!とくずれていく様子が、凄まじかった。そのときはたしか、親知らずを抜歯した直後だった。だから口の中でずっと血の味がしていた。
  • 家の窓から見える桜は、空想みたいだ。少し泣きそうになる。なんでだかはわからない。

 
 
おかまいなしの音楽は
どこにでも無断でついてくる
だからおかまいなしの音楽は
おかまいもされずに好かれてる

2024-04-07

On Melancholy Hill


 



今日も日記を。
 
ここ数日は、まるですこし前までの順調な日々がずっと前のことだったみたいに急にぐったりとして、様々な被害妄想に取り憑かれて頭をかかえていた。定期的にこうなって、そのあとはまた生まれ変わったように元気になって、今のような日々のことをさっぱりわすれて繰り返している。

とは言ったものの、やらねばいけないことはものすごいスピードで進められている。来月の展示の価格表などの作成も終わった。(本の形に。いままでつくってきた本のおこぼれのたくさんのいい紙たちを、好きに使っていいたのしさ、身軽さ。)今月末締切の漫画も描き終わり、あとはごみ取りやパソコンでの修正のみ。表面的に見ればだいぶ優等生なんじゃなかろうか。それでも心にゆとりはない。なぜ?
 
数日料理もろくにできていなかったので、のろのろと炊き込みごはんをセットしていた。醤油差しに醤油を注いだら、ボトルのほうの醤油が切れた。こんなにしょっぱくてこんなにおおきくても醤油ってすぐなくなるなと思った。日本で戦争がはじまったら、醤油も品薄になったりして困ったりするんだろうか。そのうち生活必需品、いろいろなものも品薄になって、貧しい暮らしになったりするんだろうか。テレビでは戦争のことしか映さなくなって、ミサイルや爆撃のアラームにも、遠い人が亡くなるニュースも知人が亡くなることにも慣れる日がくるんだろうか。いやだな。もう亡くなったじいじはわたしへの絵手紙に戦争の禍々しい炎の絵とともに「柚芽がこんな絵をかかなくてすむ世界を祈ります」と添えられていたこと、何回も思い出す。わたしもいつか、そんなことを誰かに話すのだろうか。話したくない。絶対にいやだ。ばかばかしい。
 
昨晩は4時まで眠れず、布団の中でイヤホンで(爆音で)『On Melancholy Hill』を聴いていた。その歌詞のうつくしいこと。洗われたようで清々しくて何度も聴いた。英語はほとんどわからないけど(すこしわかる箇所もある)、完全にはわからないまま…不完全な状態で、その余白にすっと入って、わたしだけのきれいな場所でまどろむのが心地いいんだ。
一瞬、ほんとに一瞬だけ、このバンドが活動している国のことを想像して、はっとした。わたしは差別をする人間なんだと思った。そりゃそうなんだった。また自分を過信していた。それでもこんなうつくしい歌を汚してはいけない。作品に、いや人間に、土地に、なんの罪があるというのか。自分の愚かしさと汚さが悲しい。そんな泥まみれの自分をも躊躇せず包み込んでくれるようなメロディに救われてしまう。ありがとう。虚無が日常のいたるところに入り込む。それは余白ではなく、わたしの隙なんだと思う。隙じゃなくて、余白を持たなければ。
 
Up on Melancholy Hill
There's a plastic tree
Are you here with me? 
 
 
 

2024-04-01

神田散歩

 



引き続き今日も日記を書いてみる。

今日は絵のスキャニングのため、神田へ。どうにか迷わずスキャン屋さんについたけれど、1枚あたり3,000円かかるらしく、若干怯む。まあ必要経費ということで、承諾する。電話番号を伝える際、自分の電話番号がわからなくなり違う番号を伝えてしまった。念のためメールアドレスを伝えたので連絡については大丈夫だったが、わたしのあたまは大丈夫なんだろうか。道で立ち止まって「電話番号 わすれた 認知症」と調べかけたが、振り払ってそのまま神保町まで歩き、本屋で漫画を二冊買う。その足で、喫茶「ぶらじる」に行く。音楽がかかっていなくとても静かで、静かすぎてうるさいような気がして居心地がよかった。「コンニャク ショコラ」みたいな名前のチョコレートケーキがおいしかった。
 
支払わねばならないものだけで所持金がなくなるのが悔しいのだから、お金が尽きる前に自分へ何か買い与えたらダメージが軽減されるのではないかと思い、今日の優雅な散財。結果、割と大丈夫だった(支払いは明日だけど)。いい作戦だったかもしれん。
 
その付近で、数年前お世話になった佐藤直樹さんの展覧会が開いているので訪れる。カァ〜ッ!となる。しかしこれらは、絵なのかわからない。森っぽいものを描きまくっておられるが、森なのかもわからない。佐藤さんが何をしていらっしゃる方なのかも未だによくわからない。わたしから見るとこの森(?)を描き続けている人という印象だけど、佐藤直樹というとデザイナーの印象が強いかもしれない。そういえば6年前に「路地と人」という空間で壁一面にこの森(?)を描いていたのを見て、佐藤さんが講師をしている「描く日々」という講座に受講することにしたのだった。あのときもカァ〜ッ!となったんだ。「描く日々」ではみんなおのおの絵を描いたり、みんなで鍋(すごくおいしかった)をしたり、佐藤さんがお菓子をムシャムシャ食べていたという記憶しかない。だから余計にわからない。6年前に見たときの森(?)は拡張し続け、今は300メートルにまで至ったそう。この絵たちや行為に対して敵した言葉が見つからない。感想を述べられないが、よかった。カァ〜!だった。
 
帰りには近所のスーパーでたくさんの野菜とおいしい味噌買って帰る。きのうの夕飯が大失敗したので、今日は絶対成功するはずの煮物を作る。昨晩はわたしにパスタは不可能だということが分かった夜だった。