はるか昔、私はゴッホにはなれないと思った。
「才能」や「能力」や「ほんとう」を信じてた。わたしは「ほんとう」になれないと悟った。汚れているから。絶対に及ばないと思ってた。怒りと悲しみのようなものでわたしは描いていた、生きていた。
日々を重ねる内、自分自身に対し、その<及ばない>についての説明が出来なくなった。それまでは抽象的な世界で、ただひとつの漠然とした「ほんとう」を信仰することが出来ていた。言語化が必要になったということは、突き動かされるほどの大きな感情も信仰心もすでに消えていたということなのかもしれない。知らぬ間に「ほんとう」を見失った。形を取る前に逃げられた。頼りないわたしの頭ではすでに記憶の改竄が始まっていた。残像を追いかけているうち、飽きるように、魔法が解けたように、「ほんとう」は崩壊した。崩壊してからそれは呪いだったのではないかと思うようになった。他でもない自分がかけた呪い。
今、私はゴッホにはならないと思う。
他者の絵を見て悔しいと思わない、思えない。感情に突き動かされることはなくなった。怒りや悲しみがあったところは空洞になっている。
その空洞を見つめるとわたしは時々寂しくなる。けれどもその寂しさの根源は執着心だ。そう思うことにしている。だから、振り切らなければいけない。振り切って忘れてしまったら失うものがあることは知っている。後悔で起き上がれなくなるほどつらくなるのは知っている。しかし振り切らなければいけない。それはすべてのものにたいする自分なりの誠意でもある。
「ほんとう」を抜きにして見たゴッホの絵は、あの頃一体何を見ていたんだと思うほど、異なった姿で映った。
もうあの時感じた「ほんとう」を目指したいと思わない。これは肯定的なあきらめだ。だって何もかもが本当だった。何もかもが正しかった。つまらない世界だ。やるせない世界だ。悲しい世界だ。でもわたしはそっちの世界も好きだった。
正しさを計るのは自身の仕事ではないし、そこから生じる全ての感情もまた本物で、否定する筋合いはない。それが楽しいんだと言えるほど強く在ることはわたしにはできない、けれど、必要なことだ。
呪縛から解かれて見る世界はあっさりとしていて、ゴッホの絵はただの絵の具の重なりだった。それでも様々なことを思った。自分の思うこと全て身勝手だなと思った。美術館でじっと見たその絵は覚えていないしタイトルも知らない。でもわたしはその時はじめてゴッホの絵と出会えたような気がした。思ったよりも演出じみていた。狂気…とかよりも、上手だなと思った。わたしはゴッホのことなんにも知らないと知った。わたしはこれまで虚構を見ていたと知った。今ももしかしたらそうなのかもしれないと疑った。虚しくなった。でもそれがすごく嬉しかった。虚構であることには変わりないが、わたしは信仰心ではなくそのときのわたしの目で出会えたことが嬉しかったのだ。その目でまた出会いたいと願った。だからもう少し生きていたいと思った。
信仰心ではない部分で何かを見て愛したい。頼りないと知りながらあきらめずに自分の身体でちゃんと見続けたい。これからずっと。
様々な悲劇から学びを見出して反省したくない。備えなんてしたくない。だってそんなの悲しい。何よりも悲しい。さわやかな終わりを求めることは自分ばかり大切にしてる証拠だと気づいた。悲劇をただの悲劇として持っておけよと自分に言った。みんな正しいしみんな間違ってるとわたしは思う。身を保つために裏返そうとする自分大嫌いだ。でもしょうがないのだ。強くないからだ。完璧な訳ないからだ。当たり前だ。だからどうして裏返す必要がある?と何度だって自分に問いかける。強くなろうなんて思わなくていい、弱くていいから、どんどん傷つけ。守ろうとするな、傷を治そうとするな。大好きを大好きなままでいたいなら我に返らず生きていくしかないじゃないか。