丸いてざわり


 
 


 
真鶴まで連れていってもらって石を拾ってきた。
昔なら両手にいっぱい、ポケットにいっぱい詰めてたのに、それとくらべたら昨日は全然拾えなかった。何かに怯んで拾えなかった。
それとも臆病なのかもしらん。  
 
真鶴の海辺には赤っぽい石がゴロゴロあった。たくさんの桃色の石。
汚い石などひとつもなかった。何を基準に拾ったらいいのかわからなく、好きだなと感じる石を選んでいたら、似たようなかたちのものばかり拾っていた。てざわりが丸くカドのない、ひんやりした石。
 
町も人も、わたしには目眩がするくらい綺麗だった。美しくて悲しい映画を見ているような気持ちになった。体が吹き飛ぶかと思った。風も強かったしなあ。
 
悲しいこと。
それって無垢の美しさ。多分、流れ着いた石みたいなもの。
だから並べて写真を撮った。

断片 (2025-03-22)

 

















 (2025-03-22)
真鶴
石を広いに遠くまで連れていってもらった
宝物みたいな時間だった

断片(2025-03)

 





(2025-03)
明大前

断片(2025-03)

 



 (2025-03)
関内
好きな先生に会いに行く為に、友だちと時々遊びに行ってた場所
懐かしい風吹いてた

断片(2025-03)

 







 
 (2025-03) 
雨上がりの銀座、夜中
東京の雨上がりの夜は静かできらきらで綺麗だった

第13回更新のおしらせ / 市村柚芽エッセイ『RUN』

 
 
おしらせがとても遅くなってしまいました。
すなば書房さんにて連載中の『市村柚芽エッセイ「RUN」』第13回が公開されています。
『嫌われる勇気』編は、今回が最終回です。

🏃

『嫌われる勇気』編にて連載している文章は、昨年にまとめて書いたものでした。
執筆時、「自分の感動も、伝えたいことも、いずれはどうでもよくなってしまうだろうし、忘れてしまうだろう」ということを強く意識していました。意識していたら、思った以上に時間がかかってしまったし、文字数も莫大になってしまいました。

いつかの自分にとってどうでもよくなることでも、今の自分には全然どうでもよくないということがいっぱいあって、でもそれは、他者やいつかの自分が見たら、すごくしょうもないことのような気がします。でも、しょうもない感じに思えるすべてのことを「しょうもない」で片付けるのをやめて、めちゃくちゃに向き合ってみることも時には大事なのかもしれません。
とても大事なことだからです。

読んでくださった皆さま、粘り強く付き合ってくださったすなば書房さん、ありがとうございました。
いつになるかは分かりませんが、エッセイはまだ続きます。
また市村柚芽エッセイ「RUN」にてお会いできたら嬉しいです。

🏃

市村柚芽エッセイ「RUN」第13回目:☆(クリック)
すなば書房さん:https://sunababooks.stores.jp/

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ずっと紹介しそびれていたもの。
本エッセイを一緒に作ってくださったすなば書房/中村さんも寄稿されている、『いろいろな本屋のかたち』という書籍のこと。
まだすなば書房さんの文章しか読めていないのですが、とても面白かったです。
複数人で仕事をするとき、もう戻って来れないんじゃないかというくらい深い谷に落ちることがあります。蹴落とすこともあったと思います。そんなとき中村さんのことを思い出すと、少しだけ希望をもてるのです。
わかりあえるとか、自分の思った通りに進むみたいな、自分だけの希望じゃなくて。
上手い言葉が見つかりません。でも、「出来ることは全部やった」とみんなが思えることは、ひとつのハッピーエンドの形なのではないかと考えていて、というか最近はそれってすごく大きいような気がしていて。この文章を読むと、振り返ったときの色んな場面で、そういうふうに思える(それを軸に色んなことを考えようと思える)ような気がするのです。みんな生きているんだった、必死に、なんて当たり前のことを思い出すんです。
…あれ?全然告知になっていないかもしれない…。

どこかで見かけた際は、ぜひ、お手にとってみてください。
すなば書房さんでも購入できますよ。→☆(クリック)
 
 
 


雨あがりの街に 風がふいに立る

 

 
12月に描いたばらの茎をちいさな花瓶にさしてからまるまる2ヶ月経った。
これからどうなるのか、どうしたらいいのか。
別に咲かなくたっていいよと思いながら見ていた。
打ち拉がれもした、勇気づけられたりもした。
 
今日、久々に見て、とても水が減っていた、茎より下に水面があった。
大変だ、と思ってすぐ水を変えた。
少しずつ少しずつ葉が増え茎はより強固になった。 
知っているけど、知らぬ間に。
怖いよ。
 
 

「ほんとう」の呪い

はるか昔、私はゴッホにはなれないと思った。
「才能」や「能力」や「ほんとう」を信じてた。わたしは「ほんとう」になれないと悟った。汚れているから。絶対に及ばないと思ってた。怒りと悲しみのようなものでわたしは描いていた、生きていた。
 
日々を重ねる内、自分自身に対し、その<及ばない>についての説明が出来なくなった。それまでは抽象的な世界で、ただひとつの漠然とした「ほんとう」を信仰することが出来ていた。言語化が必要になったということは、突き動かされるほどの大きな感情も信仰心もすでに消えていたということなのかもしれない。知らぬ間に「ほんとう」を見失った。形を取る前に逃げられた。頼りないわたしの頭ではすでに記憶の改竄が始まっていた。残像を追いかけているうち、飽きるように、魔法が解けたように、「ほんとう」は崩壊した。崩壊してからそれは呪いだったのではないかと思うようになった。他でもない自分がかけた呪い。

今、私はゴッホにはならないと思う。
他者の絵を見て悔しいと思わない、思えない。感情に突き動かされることはなくなった。怒りや悲しみがあったところは空洞になっている。
その空洞を見つめるとわたしは時々寂しくなる。けれどもその寂しさの根源は執着心だ。そう思うことにしている。だから、振り切らなければいけない。振り切って忘れてしまったら失うものがあることは知っている。後悔で起き上がれなくなるほどつらくなるのは知っている。しかし振り切らなければいけない。それはすべてのものにたいする自分なりの誠意でもある。
「ほんとう」を抜きにして見たゴッホの絵は、あの頃一体何を見ていたんだと思うほど、異なった姿で映った。
 
もうあの時感じた「ほんとう」を目指したいと思わない。これは肯定的なあきらめだ。だって何もかもが本当だった。何もかもが正しかった。つまらない世界だ。やるせない世界だ。悲しい世界だ。でもわたしはそっちの世界も好きだった。
正しさを計るのは自身の仕事ではないし、そこから生じる全ての感情もまた本物で、否定する筋合いはない。それが楽しいんだと言えるほど強く在ることはわたしにはできない、けれど、必要なことだ。
 
呪縛から解かれて見る世界はあっさりとしていて、ゴッホの絵はただの絵の具の重なりだった。それでも様々なことを思った。自分の思うこと全て身勝手だなと思った。美術館でじっと見たその絵は覚えていないしタイトルも知らない。でもわたしはその時はじめてゴッホの絵と出会えたような気がした。思ったよりも演出じみていた。狂気…とかよりも、上手だなと思った。わたしはゴッホのことなんにも知らないと知った。わたしはこれまで虚構を見ていたと知った。今ももしかしたらそうなのかもしれないと疑った。虚しくなった。でもそれがすごく嬉しかった。虚構であることには変わりないが、わたしは信仰心ではなくそのときのわたしの目で出会えたことが嬉しかったのだ。その目でまた出会いたいと願った。だからもう少し生きていたいと思った。
 
信仰心ではない部分で何かを見て愛したい。頼りないと知りながらあきらめずに自分の身体でちゃんと見続けたい。これからずっと。
様々な悲劇から学びを見出して反省したくない。備えなんてしたくない。だってそんなの悲しい。何よりも悲しい。さわやかな終わりを求めることは自分ばかり大切にしてる証拠だと気づいた。悲劇をただの悲劇として持っておけよと自分に言った。みんな正しいしみんな間違ってるとわたしは思う。身を保つために裏返そうとする自分大嫌いだ。でもしょうがないのだ。強くないからだ。完璧な訳ないからだ。当たり前だ。だからどうして裏返す必要がある?と何度だって自分に問いかける。強くなろうなんて思わなくていい、弱くていいから、どんどん傷つけ。守ろうとするな、傷を治そうとするな。大好きを大好きなままでいたいなら我に返らず生きていくしかないじゃないか。

個展「花」はじまってます

 

 
duftさん/fernwehさんでの個展「花」、無事スタートしておりました。美しい花や服のあいだに、ぴかぴかな額に入って知らない顔をした絵たちが9点、散り散りになって飾られております。あした(17日)も13時より営業です。

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そもそも花の絵を描き始めた時、花が嫌いでした。
それを忘れるほど描き続けたら、花に対する色んな想いがどんどん募って上書きされて、何層にもなったわからなさを抱えつつわからないまま描き続けたらこんな素敵な花屋さんで展示をさせていただくことになりました。
人生とは分からないものだなとしみじみ思います。

絵の額は高円寺にあります古道具屋「背骨」さんにお願いしています。今回もまた一点一点絵を見て制作してくださいました。額に絵がおさめられると雰囲気はガラッと変わり、そして展示されると手元で見ていたそれとは全く別のものに思えるのが不思議です。DMや包装紙など、デザインによって印象が変わることも不思議です。わたしはその不思議さにいつも救われています。
展示が開催できることは簡単なことではなく、奇跡に近いと思います。
ご興味のある方は、無理のない範囲で、お越しいただけたら幸いです。

今日は在廊させていただき、穏やかで幸せな時間を過ごしました。
春の寒い日はしんどいのに、そんな中お越しいただいた皆さま、どうもありがとうございます。嬉しかったなー 楽しかったなー と、帰ってからも反復して思い出しては身体の中で元気がいっぱいになってます。

そうそう、「STARMP CARD」の新しいスタンプも用意していますので、お越しの際はぜひスタンプ押してください!
また、duftさんのお花は花の絵の包装紙に包んでくださいますので、ぜひぜひ。

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市村柚芽「花」

会期:2025年3月15日(土)-3月25日(火)
時間:13:00-18:00
場所:duft
   (〒154-0022 東京都世田谷区梅丘1-33-9 2F)
*お花のご注文状況によって営業日時に変更が生じる可能性があります。
 当日の営業時間については事前にduftのインスタグラムをご確認ください。
*在廊の予定はいまのところありません

DMデザイン:浦川彰太さん
額など:背骨さん

第12回更新のおしらせ / 市村柚芽エッセイ『RUN』

 

 おしらせが遅くなってしまいました。
すなば書房さんにて連載中のエッセイ、第12回が公開されました。
よかったら。

市村柚芽エッセイ「RUN」第12回目:☆(クリック)
すなば書房さん:https://sunababooks.stores.jp/