最近、黒い丸をカリカリ描く仕事(?)をもらった。この黒丸7つぶんで、宮城に連れていってくれるらしい。うれしい。この黒丸は、在廊が苦手でいたたまれないときに描いた丸。そのときはずいぶん助けられた。
そのあとも引き続き黒丸を描いた。が、ずっと無。描いてるときも描き終わったときもなにも感じない。ペンのインクはどんどん減って、右手が少し痛くなる。描き終わるころには数時間経っているから、時間を凝縮したらこんな色になるのかと思う。
すこしまえに話題になっていた「頂き女子りりちゃん」のことを、ときどき考える。すこしまえに見た映画のことを振り返るのと同じように考える。黒い丸をカリカリしながら、彼女が喋っている映像を見る。気を抜くと同情してしまう。彼女やそれに巻き込まれた人を批判する声が、わたしにも刺さって痛む。でも、ほんとうに平気でうそをついたりひどいことをする人が居ることも知っている。だから、だまされているかもしれない。
映画『悪は存在しない』はよくわからなかったし好きな映画でなかったけれど、そのタイトルは日常でよくこだましていて、彼女のことを考えているときもそうだった。
小学生のときも中学生のときも、同じクラスの中にひとりは浮いている子がいた気がする。いじめがあったのかは知らない。でもたしかそのときも痛かった。わたしはそういう子に対し、積極的に話しかけていたように記憶している(そもそもあまり人としゃべれないので、自分にとっては、だけど)それは関わったその子への興味や関心またはくだらない善意からではなく、都合のいい人間関係を構築してうまくいっている(ように見えた)他のクラスメートに腹が立ってのことだったのでないかなあ、と今はおもう。別に自分の周りの人間関係がうまくいっていなかったわけでもないが、なんらかの劣等感はずっと抱えていて、多分、それ。わたしの個人的で身勝手なやりきれなさを、話しかけたり一緒に帰ったり遠足の班になったりする、という一見なんでもない方法で、ある意味暴力的にぶつけていたかもしれない。
誰が何が悪かったのか、そう結論づけたい気持ちはいつだってあった。でも最近、もう良いも悪いもなんだっていい、というような気分にばかりなってしまう。自分の個人的な悩みについても動揺に。ただつらいかなしいという感情があって、それだけじゃだめなのかと思う。…が、それは逆も然りであるということで、つまり、冷静にならないといけない。
たしかに悪は存在しないかもしれない。でも、じゃあ、手を下したその人だけに背負わされる罪ってなんなのだろう。わたしは暇だから、そういうこともたまには考えたらいいのだ。少し考えればすぐにわかる、わたしは自分に非があってのことであっても怪我を負わされたら相手が悪いような気がする人間なんだった。変わらなければいけない。