数ミリのはなし


朝、バス停につくと、おじさんがいた。
おじさんに、話しかけられる。

「そのキュロットはUNIQLOですか、西友ですか?」
(キュロットってなんだっけ?このズボンってキュロットって名前なんだっけ?)
「インターネットで買ったから、ブランドをしらないです」
「わからないんですかお姉さん?」
「はい」
「わからないって言ってくださいお姉さん」
「わかりません」
「参りましたかお姉さん」
「参りました」

こういうときに限ってバスはなかなかこない。
おじさんは、通りすぎる車の説明をしてくれる。

「どうですか?すごいですか?感心しましたかお姉さん」

女子大が近くにあるので、女子大生がたくさんいる。
「右からもお姉さん、左からもお姉さん、真ん中にもお姉さん」
「あなたもお姉さん」

バスに乗ってからも会話が続く。
駐車場をみておじさんが
「いち、に、さん、しー、ご、ろく、なな、はち、八台。
八台ありますねお姉さん。どうですか、感心しましたかお姉さん」
「チハルさんちは日経新聞だって、お姉さん、どうですか、感心しましたかお姉さん 参りましたか」

私は目的地についたので「さようなら」と声をかけたけど、返事がなかった。
バス停から職場まで二分くらいある。その二分間で、人間について思案する。 
あのおじさんと、私には、どこに違いがあるのかね。
(わからない)


夕暮れ、その帰り道。

画材屋寄って、楽しくなっていろいろ買ったらまさか、まさかのデビットカード残金が足りなくて、若干落ち込んでいるところ、瞼に小さな衝撃走る。
てんとう虫がピンポイントでぶつかってきた。そしてそのまま巾着に入ってた水筒の蓋に着地した。
人混みのまちのなか、一人「えっ」
とびっくりする。
多分てんとう虫もかなりびっくりしていた。
あと数ミリずれてたら、私たち重症だったと思うね。


夜の今。

今日の帰り道は、私の町が、とくに私の町という顔をしていない。
私のたましいは多分まだ、あの団地の11階で家族とまだ暮らしてる。
わりと距離がある。



今日という日を、ふとんの上で思い出すと
やっぱりちょっと変だった。

サイドテーブルの夢




一人で暮らしはじめてから、自分が案外ちゃんと生活が出来る人間だった事を知る。部屋はいまだに旅館のようで、気持ちが良い。生活感はなるべく押し入れに収納してる。絵を描き、休む家にしたい。
今日はバス停を探して夜のまちをさまよった。そのときずっとサイドテーブルの事を考えていた。「サイドテーブルに石置いて描いたらさぞたのしいだろうな。」と前からぼんやり思っていた。最近その欲望がどんどん膨張している。とりあえず無印良品に行って、テーブルを凝視して店を出た。バスのなかで、カップルを見つつサイドテーブルを考えた。家についてからケータイを見て、サイドテーブルを調べた。今、Amazonのカゴにサイドテーブルが入っている。早まるな、と正常な私が遠くで叫んでいる。正常な私がどんどん遠退いていく。この作文を書いて、サイドテーブル中毒になってる私を誤魔化しつつ自分を客観視させようと思った。ほんとはサイドテーブルよりも、圧倒的に筆が必要だった。持ってる筆の筆先は全部、4つくらいに割れているので、描いてるときメチャクチャ腹が立つ。(自業自得) 
それでも、サイドテーブルは、ほしいわ。イラストレーションに載ってた、nakabanのアトリエにずーっと憧れる。あんな長い作業机を置くスペースはないから、小さなサイドテーブルでいい。だからサイドテーブルがほしい。
私は、高山なおみさんの海の見える窓があるような家で、nakabanのアトリエみたいな部屋に住んで、のっぽさんみたいな格好で、毎日ちゃんとおいしいもの食べながら、花も愛でられるような、絵を描くじいさんになりたい。老後ね。
でも、そんな理想的な環境で過ごすことになったら、心底クソみたいな絵しか生まれなさそう。それで、結局逃亡しそう。なぜか。なんでだろう。
ひねくれてるからか。

夜の正体






 

家/映画のひと/穴のあいた石

 
この物件をメールで教えてもらって、内見にいって、すごい早さで契約した。その二週間後を入居日にしたら、あっという間に、そこは家になっていた。
身体はこの家に適合しすぎている。心の三割くらいはまだ前の家にいる。
私は二階のひとへやに住んでいる。
天井の一部分が開くようになってて、天窓がある。その窓が、いつも朝を教えてくれる。それがとっても綺麗だったから、この部屋にしようと決めた。
今日ガスがやっと開通された。
そろそろ、絵を描きたい。
 

このクッキーは、国立にある「コレノナ」店主のありさんからいただいた。
彼女は映画の中の人みたい。
「人生は、まさかばっかりですよー」
と言ってた。
最近身の回りで起こっていることは、まさか、ばかりだった。 だから、まだ、まさか、が起こるのかと、途方もない気持ちになったけれど、ありさんは素敵に明るかったので、良いことにした。抗わずに波に乗っていくほかない。
 
穴ボコがあいた石っていうのは、流される中で波に洗われて土とか石が抜けてこういう状態になるらしい。漂着した穴だらけの石は、質量が失われたというより、むしろ生まれたままの姿のようで、本当に「洗われた」みたいで良い。
そんなこと考えてたら、いろいろ大丈夫な気がしてきた。

ネガ

引っ越し作業のため、いろんなものを捨てまくっている。そのなかで、写真もたくさん捨てた。・・・が、ネガは全部のこした。ネガのほかに、データ化してもらったCDもちゃんと全部、整理してファイルにしまって、のこした。好きとか嫌いとか、まったく関係なしで、ただすべての思い出が手放せられない。実家には、幼稚園のころに母と描いた絵とかも捨てられずにいっぱいしまわれてる。しらないうちに捨てて欲しい。そうでもしないと捨てられない。本当は全部おぼえてるんだから、形がなくても大丈夫なのに。だめな人間です。

最初のころにカメラで撮った写真のほとんどは、撮りたいものにピントがまったくあっていなかった。あとは、だいたいつぶれているか。でもそういう写真の方が、その時の温度やにおいがものすごくリアルに思い出される。逆に最近、ちょっとだけうまくなってピントがちゃんとあった鮮明な写真のほうが、嘘みたいに思える。なんでだろう、不思議。

たまに、いつ撮ったんだろう?なんていう日付のない写真がでてくる。それがあんまり良い写真で、あー。となった。それは名残惜しい気持ちとかではなくて、あのときはまぎれもない「今」だったのが、本当にいつのまにやらすぎさった「思い出」になっていたことへの、さみしさ。これはちょっと病的かもしれない。ちゃんと処理、というか供養みたいなことが、できてないのかもしれない。私は絵を描かないと、だめだな。などと思う。写真家は、すごい。写真って、せまって来すぎて痛い。

 



この家では、永遠みたいに長かった年月を、永遠が一瞬と思えるほど短かった年月をすごした。さようなら。さよーならー。