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言葉の外

 


絵に描いたような積乱雲が、どこまで積もるんだというくらい積もっている。かと思うと、数分で蕁麻疹のように広がり、窓から見える空は、画用紙みたいに真っ白になった。見上げると延びた積乱雲のてっぺんがあり、空はちゃんと水色だった。夕方になると、空も雲も家々もみんなオレンジ色に霞む。雷が鳴る。少し目を離したら真っ暗に。夏の空は、花の枯れる速度とは比較できないほどの速さで、おびたたしく変化する。毎日たいへんだ。こんなんでは夏を越せない。

数日、絵は描かず、朝から晩までずっとメールを打っていた。対話を続けてくれた友人のおかげで、私は勝手に目が醒めたような気持ちになった。超個人的な感情に対して、私は信仰に近い心を抱いている。だったら堂々とするべきなのか。感謝している相手に対し、自分がとる行いのなかで、もっとも恥ずかしいのは、放棄や逃避だろう。
喧嘩も対話も似たようなもので、毎晩読んでる刃牙の登場人物をことごとくかっこいいと思うのは、それぞれの強者がそれぞれの誠実さをもって挑んでいるからと思う。正義とか責任とか、そんな言葉じゃおさまらないくらいの。

失くした針をまた探す


思い出すと心がギュッとなる過去がある。いろいろあるが、最近は、人のもとで働いていた時にうまくできなかったことや間違えたこと、またその状況が、パッパッパッと花火みたいに思い出される。夏の風に吹かれながら。

頭の中で追体験すると、仕事はできないまま。適応できない残念な自分のまま。誰に何を求められているかわからない。それどころか、まずは、息の仕方を思い出さなければいけない。手の洗い方もフォークの持ち方も。全部忘れたけど、取り繕えるだろうか。…そんなことばかり考えてしまうので、きっと、今もだめだ。今もだめだが、今は家の中にいて、全部空想なので、誰にも迷惑をかけていないのだった。過去を、少し離れて見れるようになった。 過去とは、振り返ることができるようになってようやく過去となるんだなと、当たり前のことを思う。一色だった感情が、今ではたくさんの色が混ざって下水のようになって溢れる。ゆっくりと、過去が、過去になる。
 
未然に防ぐなんてできるのだろうか?
これまでの人生では大抵のことに満遍なく不安フィルターをかけ、できるだけ慎重にぶつかってきたつもりだが、大抵のことは起こったし、大抵のことは防げなかった。いくつかは防げたが、受け入れなければいけないことの方が多かった。だから、不安を募らせ防ぐことに注力するより、過ぎた後に事実を歪めないこと、歪めないように終わること、の方が、少しは意味がある気がする。出来事や相手…なによりも自身に対しての誠意でもある。記憶は風船のように膨れ上がることがある。その度に割らなければいけないが、風船を割るための針は、よく失くす。

追体験して同じように傷ついていったい何が生まれるのか。できないことに執着して、できることまでできなくなって、そんなこと誰が望むのか。できることを大事にしたらいいのではないか。その傷は、ありきたりの小さな狂いからできたものだったのではないか。その傷は、もうかさぶたくらいまでには回復していたのではないか。私もみんなも、精一杯だったじゃないか。見落とすくらいの小ささで散りばめられた優しさと失敗とを、かき集めたら山になる。ちりとりでまとめて、ゴミ箱じゃなくて棚に入れておく。傷の痛みと一緒に入れておく。
 
すべての人が、それぞれの事象に対するとき、無表情で静かに、恨むとか逃げるとか嘆くとかではない、それぞれがそれぞれの形容詞しがたい方法で、長い時間をかけて、治癒や感謝ができたらいい、と、なんだかお祈りのように思った。

圧倒的主観の世界


熱風に吹かれながら川沿いを歩いて帰って、ふとボナールの絵を見たくなった。なんでだろう。すっかり夏バテで、胃が痛かったり落ち込んだり、少し頭も沸いている。この暑さは狂う。今日は梨の絵を描くことになっている。丸いものを描けて嬉しい。

昨晩、よだれ鶏を作ってみた。鳥がよだれを垂らしているイメージが離れなくて食わず嫌いしていたが、パクチーを食べてみたくて、そして由来を調べたらよだれを垂らしているのは鳥ではなく人間の方だったので(それでも少し嫌だが)、挑戦してみた。料理としてはとてもおいしくできた気がするのだが、パクチーが舌なのか嗅覚なのか、に、ことごとく合わなく、美味しいはずなのに美味しく思えないというすごく悔しい体験をした。歳取るほど苦手な食材が減ってきて(アレルギーで食べれないものは増えたが)、最近はなんでもおいしかったので、懐かしい感覚だった。幸い、横でおいしく食べてくれる人がいてくれて、絶望を免れた。一人だったら号泣していたと思う。



砂の城/雨


少し前、夢。
どうにもならなくなって、ついこのあいだ引っ越してきたばかりなのに、この町を離れることになる。引っ越し先は小さい頃に住んでいた団地。地元は懐かしさでできていた。団地の11階。窓から見える景色はそのままで、振り返ったら猫がたたんだ布団の上で寝てるような気がする。なぜかとても怖くて、振り返れない。不安が喉までのぼってきて苦しくなる。

何か大事なことを忘れた気がしながら起きる。起きられたことに安心する。家事をして、絵を描いて、今ここにいてよかったと思う。祭壇に、猫の骨が、銀のキーホルダーに、小さくおさまって、居る。懐かしい景色が頭に浮かぶ。そういえばこんな夢をみたんだったと、変なタイミングで思い出す。夢は砂の城のようで、掴んで持って帰ろうとすると、帰り道でただの砂に戻ってしまう。小さな砂利をみつめていつまで思い出せるのか。夢と過去はなにが違うのか。
 
いろいろの症状をいちどに見てもらうための病院から出たら、雨が降っていた。蕁麻疹や胃の不調など、各方面の薬が多すぎるので、全部を診てもらえるかかりつけ医にしたかった。診察は、少し不安になった。大丈夫なのだろうか?と信じないから不安になる。雨。それでも行きたい調剤薬局があって、数分走る。会いたかった薬剤師のおじちゃんには会えたけど、病院の下の階の薬局で薬をもらった方がよいかもねえ、とほほえまれて、そうですよねと、また戻る。雨は止んでいた。止んでいたけど、服は雨で濡れたままだ。でも止んでいる。不運な日は本当にことごとく不運なことが重なる気がする。でもどこまでの出来事を不運と仕分けするのかは自由だ。

泡のつぶつぶ


軽やかなものを見て、ふっとため息が出て、素敵だなあと思う。ああなれたらいいのにとか、なぜそうできないんだとおもう。なぜ自分からはみ出るものはすべてが重いのだろうとおもう。頭の中にごめんごめんが浮かんだり、あの人はこの人は何を思っているだろうとか傷つけたかも知れないとか内省をよそおって、嘘っぱちの安心を生成する。なぜなぜと考えればその理由は数秒で判明してしまうから、それがどんなにどうでもいいことなのか、仕方のないことなのか、「ないものねだり」ただそれだけの事実ばかり突きつけられる。
素敵なものは本当に素敵だ。
 
少し前、ポストに本が届いていた。嬉しい、けど絵本のことはよくわからないので、ただ開く。本の内と外に長い時間を感じる。焦って近道しても辿り着けない場所にその人はいて、青い私は立ち止まる。久しぶりに好きな絵を見ようと思った。知らない国の知らない人の絵の中の、花をいけたグラスの水の中に、その頃のその人の悲しみとか幸せとか怒りとか、全部が入ってるように思うのだ。私はこの絵を一年に一回くらい、どこかから保存した低画質のデータで見る。ひどい勘違いの中で、たくさんのプレゼントをいただいて。

強くなりたくば喰らえ

 
 
 (範馬勇次郎が息子・刃牙に対して↓)
キサマが女(いろ)と戯れる日々に......
もの知らぬ浅はかな者供があれこれと世話を焼きたがるだろう
毒にも薬にもならぬ駄菓子の如き助言
いらぬ世話をッッッ 一切聞く耳を持つなッ
禁欲の果てにたどりつく境地など 高が知れたものッッ
 
強くなりたくば喰らえ!!!
朝も昼も夜もなく喰らえッッッッ
食前食後にその肉を喰らえッッ
飽くまで食らえッッ
飽き果てるまで食らえッッ
喰らって喰らって喰らい尽くせッッ
〈範馬勇次郎の言葉 『バキ』13巻 より〉
 
負い目のなさが 勝ちを呼ぶ 
自分はこの喧嘩でなに一つ負い目はねェッ
その気負いッ
その自負心こそが拳に力を呼び
勝ち目を呼ぶんだッッ
柴千春の言葉 『バキ』4巻 より
 
たかだか人間の肉体を破壊するという単純な行為に
友情だの 結び付きだの 愛だのとー
上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき思想!!!
範馬勇次郎の言葉 『グラップラー刃牙』31巻 より
 
♦︎ ♦︎ ♦︎
 
『グラップラー刃牙』は全巻読み終わり、数日前から『バキ』に。昨晩ようやく15巻目を読み終わったところ。引用した言葉たちは本当に共感するものと、本当に尊敬するものと。ファンの中では有名な名言だったりするのだろうか。私ももれなく感動して読んでいます。勇次郎のセリフは、言われなくとも飽くまで喰らうつもりだった(雌をじゃないが)が、こんなことを言ってくれる大人がいるんだということにものすごい安心感がある。
(バキ名言集みたいな日記になっております)
 
今日も窓辺を描いていた。本当は青空にしたかったが、見上げた空が水色だったので、水色に。昔空想で描いていた窓辺の蝶が最近本当に飛んでいる。つがいなのか、二匹でふわふわ飛んでいる。いつか描きたいと思いながら、雲が見事で描かないわけにはいかない。一歩ずつ。バキの世界でのことを自分に適応させるなら、やはりこうするしかないと思った。
 

靴と歪み

 

起きた瞬間から瞼が落ちそうで、のろのろ動き休憩、そろそろ昼かなと思ったら夕方。まだ描き始めてもいない。戦争の夢を見たのと(昨日だったか)、気圧のせいかもしれない。数日ずっとこんな調子だ。あまりにも冴えないので、ネットでなんとなく素敵な靴を探していたら、一見とても美しく素敵な靴だが形が完全に範馬勇次郎の靴‥を発見し、思いの外元気が出た。欲しいものができた。そんな感じで回復してきて、夜から描き始めると、案外進めた。

ミュージシャン二人の対談映像を見る。二人ともに全然興味がないので歌も聴いたことがない。けど、おすすめに流れてきたので、作業中に聞いてみる。全然噛み合ってない会話が漫才みたいで面白いなと思った。気まずさもたまらなく、しかしさすがにたまらなく、リタイヤしてしまった。コメントを眺めてみたら、神二人の対談だと言う。二人は神らしい。
天邪鬼である限り二人の音楽を聴くことはないだろうと思う。

神格化は、ようするに認知の歪みの一種なのだろうなと、自分を振り返ってみて思う。尊敬して、視界が狭まって、何にも見えなくなって、目の前で精一杯生きている人間を人間でないものとし、決して対等ではない存在とする。それのなにが尊いことなのか?魔法というか、呪いというか。とてもばかばかしいことのように思えた。私はそんなばかばかしいことを、はずかしげもなく何度もやっていた。今こうして反省できることに本当に安心する。

小さな私

 

真っ白な空。
先日の雲を思い出しながら。
 
髪をほどくと胸くらいまでの長さになった。去年の春から切っていないので、まあ伸びた。鏡を見るとたまに誰だか分からなくなる。離人感みたいな現象が昔よくあって、そんな感じになることもある。当時は不安で、調べて調べて病院まで行ったことがあった。でも今はなぜか大丈夫だ。自分の体は自分じゃないような気もするし、全部自分なような気もするしで、魂抜けても、なんだかんだ大丈夫だろうと思う。私の想像することなどだいたい外れるからな。目的地の真逆の道を自信満々で歩き出すような人間。だからというわけでもないが、私は体のほうを信頼する。
 
絵は体で描いている。
想像力も技術もない私には、正直であることくらいにしか、絵を誰かに見せる理由を見出せなかった。そのためには頭は閉じて/体で描くという姿勢が有効で、それに気づいてからずっとそうしてきた。頭で描くと(これが未熟さなのだろうとも思うが)なにを描いても嘘や気遣いや見栄が混じる。体で描くと、思いのほか純粋でびっくりする。まあ、純粋に見えるだけなのだろうし、実際、完全に消えることなんてないのだけど。絵の中にひそんでいた小さな私に数年後に気づいた時はばったり過去の私と出会ったようで、そのばったりがおもしろいからずっと未熟でいいかなあ。
 
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相棒が不在でもたくましい子ペンギン
背景:意図せず、瓶に入った男 
 
『グラップラー刃牙』42巻読破・『バキ』に突入
✩花山薫が出てくるとつい笑顔になる
範馬勇次郎の言葉が刺さる
✩ずっと刃牙のこと考えてる

つまらない勝利、すばらしい敗北

 

青森にて。
衝撃的に楽しい瞬間があった。そのたまらなさに、くらっとなった。あまりにも楽しいと、その瞬間には、笑みも出ない。倒れそうになるのだなと知った。
 
刃牙を読んでいると、弱いまま強く、とかじゃなく、普通に純粋に強くなりたいと思わされる。いい勝負をして、すばらしい敗北で終わりたいものだ。
どんな切り口でもいいから、まずは切ること。そして、掘り進める。つまらなかったことが、掘っていけばおもしろかったりする。我に帰るスキマなど、気がついたら消えている。それくらいにならなければ。と、いつもそんなふうに思ってきていたが、青森で、実感があったような気がする。たとえば、東京で感じていた小さな虚無感は、新幹線を降りて、外の空気を吸った瞬間に消失したようだった。まだ小さな虚無だったからかもしれないが。想像できたつもりになっていた知らない場所での誰かの暮らしは、ほんの1mmも当たっていなかったかもしれない、ということで、塞がっていた窓から、またすっと風が吹いていくようだった。自分の小ささを思い知ることは、本当に幸福なことだと思う。

一人行動の時間では、温泉に行こうと思って、ホテルから三十分くらいバスに乗って向かった。バスから降りて歩いている時、人っこ一人いない道と、どんどん暗くなる空に気づき、怖くなった。あと5分くらいの地点だったのに、温泉とは真逆に歩き出し、Uターン、帰宅。光の速さであきらめた。道中あった神社で一応拝み、遠くの岩木山を眺めて、じゅうぶんだったと言い聞かした。私のあきらめと同じくらいのスピードで暗くなっていく夕暮れ、バスを待っている時、うすむらさきの岩木山はやさしい輪郭をしていて、本当にじゅうぶんだったような気持ちになった。私はぬるい。すごくぬるい。今のところ、勝利も敗北もない。楽しかった。

月と石と光

 
 
熱の中で描いていた絵は歪んでいた。今日は熱が下がったので、冷静に直せた。おかしくなっていたんだな。三時間感覚で力尽きるが、時間の速度はとても早かった。夕方、誰かの淹れたコーヒーが飲みたくなって久しぶりに外に出た。うすむらさきの空に小さく白い月が浮かんでいて、さっきの絵の、花瓶にさした光に似ていた。
 
チュルリョーニス (何回書いても名前を覚えられない)の展覧会の記憶は、日に日に忘れていった。きっと故郷が大好きだったんだろうなという感想と、綺麗だと思った絵たちの断片と、会場で流れていたピアノの音の耳ざわりが残っている。絵そのもののことも音楽のメロディもほとんど覚えてない。霧のように散って幸せな景色の余韻となった。
石が大好きな友達と石を拾いに行った時のこと思い出す。ちょうど一年くらい経ったらしい。私はそんなに石を愛でられないし、さんざん描いている花のことだって全然。愛するってすごいことだと思う。すごい幸せなことだと思う。それ以外何もいらないんじゃないかと思う。
本当にずっとそう思っている。 
 
宇宙に巨大な石拾いがあらわれたら月は石のように拾われるのかもしれない。小さな私には花瓶の光にしか見えなかった。

消えたともだち

 

少し前、雲が見事だった日に、描きながら横目で窓を見ていた。ほんの一瞬。大きな雲から「おっすー」という感じで、何者かが顔を出す。なんとなく他人とは思えぬフォルムに感動したが、その後すぐに消えてしまった。

今日は朝、喉のざらざらで息ができなくなって起きる。風邪を引いた。お昼あたりからノロノロと花を描き出したら、意外と健康なときよりも集中、というか、没頭してしまった。息継ぎなく泳いでいるみたいで苦しい。こんなもんかと切り上げるタイミングがわからなくなっていて、気づいたら夜中だった。風邪を引くと普段の不安がいっそう強くなる感じがする。後悔が怖くて、やめどきがわからない。あきらめにはパワーがいるんだろうか。いるんだろうなあ。
 
昨晩いただいた花はその人がそのまま花になったようだった。包まれたときにはきれいとしか思っていなかったのが、家に飾ってみると異質が際立ってドキドキする。自分がよく描く花と同じ花とは思えない。全然違う。魔法みたいで不思議。というか、魔法なのかも。今日は風邪っぴきの夢の中みたいな状態で、いただいた花束からひとつだけ描いてみたくなって(風邪だからか珍しく)苦戦してた花を描き終わって剥がしてから、チャレンジしてみた。魔法にかけられてる花、魔法が解ける前に描きたいと思って急いだ。そのせいなのか、色々あいまってなのか、記憶があんまりない。どんな絵になってるのか思い出せない。明日起きたらスケッチブックが全部真っ白だったらどうしよう。しょうがないか。しょうがないなあ。
 

ラッキースター、ラッキーダイヤ。神出鬼没のともだち共。

故郷 / 三角


 

数日前、久しぶりに美術館へ。いただいた招待券があったから。
美術館は毎回憤慨してしまうのでいつからか苦手になってしまった。今回もまた憤慨したが、チュルリョーニス展には感動した。音楽の人の絵だった。美しかった。とても真似できない。絵の中にリズムがあり、一筆が軽い。足をとめて人混みの中長く眺めた絵をおぼえておきたいと思い、図録を欲しくなった。図録というのはとてもありがたく、しかし、原画とは全くと言っていいほど別物だった。なぜかほっとする。写真は一枚も撮っていないので、忘れてしまうだろう。
絵をもっと描こうと思った。下手でもいいから。描きたいもの、描かなければとおもうものがある限り、描いたらいいんだと思った。チュルリョーニスはきっと故郷が大好きだったんだろう。心の風景を愛してたんだろう。真意はわからないけど、なぜそう思うのかもわからないけど、そういう心はいちばん嬉しい。彼の中の美しい世界は現実にたしかにあったのだし、あるのだ。描くことで、少しは安心して手放せたんじゃないか。
 
今日。朝起きてまず漢方ぶちまける。気を取り直して味噌汁を作り始めたら間違えて夜ご飯を作り始める。「何してんだ?」と困惑して落花生の薄皮向きを横着することを決意すると二倍の時間かかっていることに気づき絶望。自業自得なんだけど、今日は大凶なんじゃないかと落ち込んできて、数日前の感動はどこへ、すべてのやる気が一瞬で消失。振り絞って散歩。帰りがけ家の前にカメムシがいらっしゃり、目を合わせないように情けなく震えながらなんとか乗り越え家のドアを開ける。そんな感じだったので絵は描けず、掃除したりキャロットケーキを作ったりしてあっというまに日が暮れた。ちいさな三角と夕暮れ空で少し回復。
 

 
とってつけたようなミントはすぐとりました

鯉を見る鷺と人

 

 
川の横を歩いていたら、バッシャバッシャと音がした。何事かと覗いたら、大きな鯉が溺れていた。水位が低いから苦しそうだった。(大丈夫かいな?)と眺めていたら、川辺にいた鷺も(大丈夫かいな?)と鯉を凝視していた。あの瞬間、私と鷺は同じ表情をしてたと思う。
 
とくべつ面白いわけでもとくべつ悲しいわけでもないが、妙に心がざわついている。6月になったからかもしれない。年々冷静になってきてはいるが、今年もやはり来ている感じがする。毎年梅雨に聴いている歌をそろそろ聴かないといけないのか。大好きな曲なのになぜか少し気が滅入る。雨は好きだけど辛くなる。でも今日は、絵はよく集中できて、とくに葉をうまく描けた。拍子抜けするほどあっさり描けちゃったので、多分花に苦戦して落ち込むだろう。蕾がしれっと咲いていた。見ながら描きたかったのに間に合わなかった。しょうがない。無。ひと段落するたびに台所に立って何かしらをして、また絵に戻って、この行き来があるから我に返らない、を保てている。スキマはある。危険。今まで乗り越えてきた6月を想う。
 
昔激怒したことをもう一回思い出してみると同じくらい激怒できる。自分でも少し引いているしびっくりするが、ふと、傷跡なぞるように生活おくると、気持ちはほぐれていくのかもしれないと思った。激怒は結果だった。結果についてをいくら考えても、治癒のために必要なものなど何も出てこない。火は燃え続け、傷を深くし、自傷のループができあがる。でも、ループはいつか点滅する。結果の前や背景にある、無関係で無数の営みの瞬間のひとつと、今この瞬間とが重なる部分を、気づいてみる、見つめてみる。思い出してみる。それで、私はやっと少し反省することができた。きっとそういうことでないと、私は治らない。この愚かさは、冷蔵庫の野菜たちを腐らせるのと似ている。
 
 ♦ ♦ ♦
 


 
勉強のため読もうと思って買った本は眠くなって全然進まない、レシピを参考にしようと思って買った料理本は毎晩熟読している。料理とは到達するものなんかじゃなくて、食べたいときに食べるために作るものということがもう深く分かった。あったりめえの話である。なるべく憧れないように読んでいる。闘いや、抗いのための料理はもうしないと思う。今日はズッキーニを焼いてお昼に食べた。Kさんからいただいた熊本のレモンを漬けたシロップも出来上がったので味見、味音痴なのでよくわからないけど甘酸っぱくておいしかった感じがしました

川がある




室内でも元気に育ってくれている植物 / Kさんからもらった巻物
 
今朝は用事で早くに起き、起きたら用事が消滅していたので、朝ごはんらしい朝ごはんを食べ、家を掃除し、洗濯をし、散歩に出た。
歩いて隣町まで向かう。川の岩に見たことのない大きさの亀がいて、3度見る。川辺には、ぼんやりしている鴨がいる。鴨はあの巨大亀のことを知っているのだろうか。どうしてそんなに呑気でいられるんだろうと本気で思ったが、ふりかえると不慣れの早起きで、眠くて見間違えただけかもしれない。
 
豆腐屋で、前のお客さんを少し待って、絹ごし豆腐を買ったとき。 「少しお待たせしちゃったから」と、油揚げをおまけしてくれた。私はその間、亀や鴨のことを思い出すのに忙しかったので、そんなそんな、と思ったけれど、嬉しくいただいた。
そこから花屋までの道中にある、不穏な張り紙と共に長期休業していたお惣菜屋さんが開いてた。閉店してなかったんだと嬉しくなって、はじめて入る。コロッケをひとつ買う。
 
それから花屋で。 もう何回花を買っているんだかわからないのに、今日も今日とて緊張して、花を選べない。落ち着いて考えさせてもらっているあいだ、店員さんはこちらを見ずに、しずかに待っていてくれた。そのおかげで決められた。欲しかったのは紫のぼんぼんした花だったが、描かなければと思ったのは背が高くてなめらかな葉の「トルコキキョウ」だと分かった。そろそろちゃんと葉を描かなきゃと思っていた。描くための花だけを買う。財布にお釣りをしまったり、お花を受け取って体勢を安定させるのもゆっくりのまなざしで待ってくれて、しまいにはお店のドアまで開けてくださり(この間、終始、目すら合わせられていない、無礼な客である)、またしても私は、待つことと、そのまなざしに助けられた、ように思う。
 
帰りがけ、やさしさの正体について考えていた。猫が亡くなったとき、ずっと考えていたこと「やさしさとはなにか」が分かった気がしたのだが、それを解剖することはできずにいた。野暮だとも思って。そりゃ自分もやさしくありたいが、結局どんな姿勢がやさしいのかわからなかった。おかげで真逆のことばかりしてきたようにも思う。それが近頃、暮らしの中で自然に気付かされることがある。今日は、自分の活動をやめなければ/あきらめなければ、いつかはそうあれるんでないかという結論が出た。「いつか絵を買いたいです」と言ってくれる人がいたら「そのいつかまで描いていますね」とまっすぐ言いたいし、だから、選べなくてもいいし買わなくてもいいと本当に思う、思っていたい。きれいなものだと思わなくていいし、なんなら貶してもいいくらい、ずっと流れてる川のように、自分というものが在れたら、なにかがようやく始まる気がする。書くまでもないが、その姿勢は強要するようなものではなく、流れている川にふと救われてしまったようなものであって、実際には川以外にもそんな存在は無数にある。そうありたいと願うのは、ひとつの結論であり、欲であり、それ自体はきっとただの現象である。その無意識の循環を健全と思う。
そんなこと考えてたら真逆を歩いていて迷子になった。

メロン / 余地 / 会話

 

少し前、メロン。
近所の八百屋さんにはお店の入り口付近に安いようまいよコールを中くらいの声でしているおじちゃんが立っていて、その日は眺めていたメロン(380円)を手渡され、買った。その前の週もそんなふうにして買った。甘くて、ごちそうで、こんなにたべてもいいくだものだったっけ、と訳が分からなくなる。
 
昨日。デパートに入っている好きだった服屋が閉店するしらせを見て愕然として、意を決して大都会へ向かった。迷った挙句、持っていない、鮮やかな青い色の服を買った。ちゃんと着るし、大事にしようと思った。画材屋さんにも寄って、数種類の青い絵の具と、新しい筆を一本買う。絵の具のメーカーは冒険しないことに決めている。ありふれたメーカーだから、だいたい、どこでも買える。黒やその他の色の絵の具は固定化されてきたが、青だけは変動する。揃えていればどんな気持ちの時にも安心。この小さな自由に助けられているように思う。
帰りの電車、窓から空を見たらきれいな水色。反対側は桃色。電車の左右の窓で、こんなに違う景色になるのがふしぎだった。歩いていたらあっというまに日が暮れて、水色も桃色も集結されて真っ黒に。空にはまるまるした月がうろこ雲の向こうに見えた。
 
最近、会話の本を読んでいる。けれど、相変わらずうまく喋れやしない。言いすぎたり、言わなすぎたり、気になったり、後悔したりと、会話が苦手だ。会いたい人にせっかく会えても、話したかったのことのほとんどを思い出せなくなる。脳が遮断されたように何も出てこなくなることがよくある。存在の迫力にいつも敗北しているのだと思う。でもここ数日は、じつに身勝手だが、なんも喋れていないとしても、喋りすぎていたとしても、ただ嬉しい日々だった。会いたい人に会えたことを素直によろこべるのはうれしい。
関わらせていただいたお仕事では、全員の視線の先にあるのが人やその他でなくそのもの・その周りに漂うもの、であろうこともうれしかった。そこに会話は必要だが、大事なことはその先にあった。そのもののことを大事にしていれば、きっと満たされる。 

花火 / 祈りがささくれないように

 
 
描きはじめはほとんど青だけ、時々きいろを混ぜ、青とみどりで埋める。何層も青を重ねて、そのあとは思い切って黒をさす。はじめの黒はいつも緊張する。青を壊すことの後ろめたさも。気にしていたらいつまでも絵が進まないから一々止まらないけれど。
いつか止まるときがくるのかな。青い花火はきれいだった。
 
ふとしたとき、無性にかなしくなることがある。今がそう。わざわざ誰かに話すようなことではないが、すでに傷ついた部分をもう一回針で刺すような、たしかな痛み。その痛みは自分の意思ではどうしようもないもの。うれしいこと、やさしいこと、好きなものを思い出す。
 
コンビニで、郵便局で、書類のことをわたわたとしていた時、店員さんは「ゆっくりで大丈夫ですよ」と、ゆっくりと言ってくれた。コンビニでも、郵便局でも、それぞれの担当の方が。それはわたしがよっぽどパニックになっていたからかもしれないが、その一言で目のぐるぐるは半分くらい解け、安心した。平常心で作業をすれば、わたしにだってできることがたくさんある。できないことばっかりのわたしにも。こういうまなざしのことをやさしさって呼んだらいいのかなあ、なんて、帰り道に考えた。少し泣きそうになった。
 
このあたりの夕暮れどきは、以前よりもずっと好きな景色を見せてくれる。空が広くて、静かで、誰の目線もない、この時間は宝物だ。暮れかけた、影まで青にのまれた時間。 
  
新しい家の近所のスーパーには、知らなかった野菜がたくさん並んでいて、最近、浮かれているのか、よく手にとる。なかでも「サラダセロリ」はすごくおいしかった。家の雰囲気に乗っかって蒸篭も新調したから、最近は何を蒸そうか、どの食材を使ってみようか、何をつくろうかと、ごはんのことばかり考えている。本屋で右往左往して選べなかった料理本も、最近コツを掴み、買えるようになった。家で読んで身の丈に合ってないと思っても別に落ち込まなくなった。(身の丈、なんてないのだろうし、なりたいようになればよいのだろうし、)だれかひとりを、どれか一冊を、芯から信じようとするから絶望するのだ。わたしは多分、「信じる」という行為が、からだに合っていない。信じるのではなくて、色んなものや人や風景のすてきなところを勝手に吸収して、勝手に楽しく生きていくのが、きっとよい。きっと当たり前の話だが、わたしはようやくわかったのだった。

内緒話

 

窓辺で内緒話
新しいちいさなともだちと 

サザンクロス

 

少し前、真夜中なのに部屋が明るい。窓をのぞくと、光りすぎていた月。
 
今日もまた花を描いている。前の家では場所がなくてしまっていたスツールを、引っ越してから設置できたので、スツールも見て描けるようになった。木目や花瓶の反射を伴ってちゃんとそこにある。ずっと空想を描いていたのでその現象がおもしろく、最近は花よりスツールばかり追っている。描いているあいだは花をあまり見なくなった。多分、意識的に見ないようにしている。

頭で処理した花の輪郭をそのまま紙に写しとることは果たして観察なんだろうかと疑問に思う。細い茎を描くためにわざわざ鉛筆を尖らせて2本の線を引くことは、なんための作業なのか。他でもない、色を塗る時の自分の保険でしかない。私は生活でも絵でも保険ばかり張っている。そしてそれをよく観察だと勘違いしている。嘘なく記録することをなんとなく誠実なような気がしている。多分、実際は、誠実とは遠いもの。手放しても大丈夫なものを不安で手放させずにいるだけ。
 
先日、好きな絵描きのNさんの展示に伺った時、『ゆめちゃんの展示にも伺いますよ』と言われて、弱気になった。きっと興味もないだろうし、まあ、冗談だろう、と思って油断していたら、本当に来てくださった。なにがあったわけでもないが、私は緊張で心臓が止まるかと思った。きっと約束を果たすためだけに来てくれたのだから、申し訳なくもなる。けれど少し嬉しかった。誠実も執着も観察も正解も最近の私はよくわからない、でもこういう小さな約束を大切にする心が私にはまぶしく見えた。

小さな窓

 
 

昨年から展示を一緒に作ってくれている熊谷さんが、この活動についての文章を書いてくれました。興味あれば、ぜひ読んでみてください。
✈️ (クリックでとびます)



花を繰り返して描いてしまうのは、花を描けた気がしないからだと思う。その時見ていた花の像を、そのとおりに捉えられた日はない。いつも少しあきらめている。自分の目は頼りなく、ちゃんと描くことなどもしかしたら不可能なのかもしれない。
いつからか、高望みすることはやめ、自分にできることをできるだけやれたらいいと思うようになり、伝わることより続けていきたいと願って描くようになった。

花というモチーフは、自分の内側の、唯一の窓のような存在だ。だから、と言い切っていいのかは分からないが、この窓を塞いでしまったら、自分は人間じゃなくなるんじゃないかと思っている。
そんなことを時々想像しつつ(ほとんどは呑気にだが)、繰り返して描き、見る人をもしかしたらおいてけぼりにしながら、絵を展示させていただりしている。

熊谷さんとは、2021年に大阪で花の絵を見てくださり、メールを送ってくれたのがきっかけで知り合った。メールをいただいた後、都会の真っ黒な湖の前で初めて会って、凍えながらも長い時間話をした。
彼女が赤い服を着ているとき、自分は青い服を着ている、なんてことが多かったり、食べ物や歌の趣味も全然違ったりだが、気がつけば5年に近い付き合いとなっていた。
長い関わりの中で、私の窓が塞ぎかかったとき、熊谷さんが上記の活動について提案してくれたのだった。

晴れの日も雨の日も強風の日も窓を開け、風を通す。汚れた窓を拭くための雑巾を渡してくれたのは熊谷さんだった。
むずかしいことや大変なことは解決されていないし、わからないも増幅している気がするが、それでも陽気でいられるのは、自分にとって奇跡のような成果だ。

絵というものが、社会や人や動物や時間などの、無数の波が渦となって出現するものなのだとしたら、私はそれを、やれるだけ、できるだけ、ちゃんと写しとっていきたい。