2024-04-15

打ち砕かれて親友とまた会う

 

 電車のそばで、一本だけ咲いていたチューリップ。
 
ここ数日、自分の外にあるものから元気をもらうことがたくさんあって、とても元気だった。(その勢いに任せ、今日はとても久しぶりに髪を切りに行く)
 
 
会ったことのない、でもとても大事だと思っている人から電話で教えてもらって出会った、ある言葉(とその裏側にあるその人の存在)。友人が描いた漫画の本が刊行され、その漫画に添えられたあとがきの言葉。実家で部屋を掃除しているときに出てきた、母方の祖母からの手紙に「大好きな柚芽ちゃんへ」。友だちとの長電話(私が延々「バトル・ロワイアル」のことを話していた)、時々訪れるお店にて長話(「モテ」のことを延々話していた)。ぜんぜん切実なんだけど、切実だと大声で言えないみたいな、そういう話題の数々。
家で引きこもっていただけでは絶対に出会わないであろう、まぶしい体験や記憶たちに回復させられる。
 
外はいいもんかもしれない、と思いかけたとき、いい気分で古着屋街の古着屋さん(オシャレ)に入ってみた。
するとさっきまでHPマンタンだったのが、三撃くらいでゼエハアしだす。せっかく古着屋さん(オシャレ)に入れたのだから、普段絶対着ないような色の服を一着ぐらいは買おうと思っていたのに、逃げるように店を離れてしまった。そのとき着ていた服だって普段の自分からすると「色がある」服だった。派手なんじゃないか?かわいすぎる色じゃないか?と思っていたその服は、ここに並ぶ数々のカラフルな服と比べるとすごく地味なので、もはや無彩色に分類させられるような気すらした。その古着屋さんは色味ごと陳列しているから、ギリギリ「ピンク」の棚にはおさまらない色だったかもしれないと思う。お店が混雑してきて、ギラギラファッションをしている人に包囲されているとき、自分は部屋着でパーティーに来てしまったような気分になり、それで逃げるように店を出た。
 

 
商店街を早歩きで逃げているとき、数日前に見て回復させられた言葉をおもいだし、また読み返す。わたしはこれらの詩と親友だとおもう。勝手に。
勝手にこの詩との出会いを持ち帰ること、そしてこれからの人生でこの詩と何回もおしゃべりして作者のことをよく知らないままに仲良くなることを許してくれるのなら「芸術」とはすばらしいものじゃないかと、人生で初めて思った。


友人、大横山飴さんの漫画の内側では、昔大横さん含む同世代の友人たちと歩いたりドライブしたり(彼がとても長い時間運転してくれたのだった)動物園に行ったりしたときに見た景色が当たり前の顔をして存在していた。わたしはそれで思い出した。時間は流れていた。ああ生きていてくれてありがとうと思った。

2024-04-12

きっとおもいだすころにはわすれてる

 
 
 忘れるために描くのかもしれないと思った。
 
とてもひさしぶりに花を描いていた。
何も考えずに描いていたら浮かんでくる色や形が懐かしさを帯びていた。すこし前の自分(一年とすこし前くらいの)に出会ったようだった。
でもわたしが観たいと思う箇所は違っているし、筆の置き方もちがう。黒について思うこともちがう。あのときと同じ筆跡はあらわれない。もうあのときの自分ではないのだと思った。そしてあのとき思っていたすべてのことをあのかたちのまま思い出すことはもうないのだろうと思った。花の絵を描くといつも、少しずつ離れていることを実感する。そして思い出すころにはもう遠くにいる。
花を描いていると、別の絵を描いているときよりもたくさん気付かせてもらえる。自覚できるだけ自我をとりのぞいて描いているからだろうか。
 
 
 
窓に桜が

2024-04-09

桜と耳たぶ

 
 

桜が散りまくっている。
もったいないとは思うけど、さみしさは感じない。地面は雪が降ったように白い。昔から桜は好きじゃなかった。特に理由もなく。でもここ数年は桜を見るたび猫の耳たぶを思い出してしまって、思わず見てしまう。でも別に桜が好きというわけでもないんだろう。どんな桜の花びらよりも、猫の耳たぶのほうがやわらかくかわいかったし。

(桜のある風景の断片)
  • 先日、風のない生温い静かな夜に、桜の木の下で自転車を停めた。見上げると、桜の木と花が、神々しく、青白く光ってた。
  • いつか川越に、そのとき仲良くさせてもらっていた絵描きの友人たちと桜を見にいったことがある。桜というより白いかたまりが、風が吹くたび、ドッ!!!とくずれていく様子が、凄まじかった。そのときはたしか、親知らずを抜歯した直後だった。だから口の中でずっと血の味がしていた。
  • 家の窓から見える桜は、空想みたいだ。少し泣きそうになる。なんでだかはわからない。

 
 
おかまいなしの音楽は
どこにでも無断でついてくる
だからおかまいなしの音楽は
おかまいもされずに好かれてる

2024-04-07

On Melancholy Hill


 



今日も日記を。
 
ここ数日は、まるですこし前までの順調な日々がずっと前のことだったみたいに急にぐったりとして、様々な被害妄想に取り憑かれて頭をかかえていた。定期的にこうなって、そのあとはまた生まれ変わったように元気になって、今のような日々のことをさっぱりわすれて繰り返している。

とは言ったものの、やらねばいけないことはものすごいスピードで進められている。来月の展示の価格表などの作成も終わった。(本の形に。いままでつくってきた本のおこぼれのたくさんのいい紙たちを、好きに使っていいたのしさ、身軽さ。)今月末締切の漫画も描き終わり、あとはごみ取りやパソコンでの修正のみ。表面的に見ればだいぶ優等生なんじゃなかろうか。それでも心にゆとりはない。なぜ?
 
数日料理もろくにできていなかったので、のろのろと炊き込みごはんをセットしていた。醤油差しに醤油を注いだら、ボトルのほうの醤油が切れた。こんなにしょっぱくてこんなにおおきくても醤油ってすぐなくなるなと思った。日本で戦争がはじまったら、醤油も品薄になったりして困ったりするんだろうか。そのうち生活必需品、いろいろなものも品薄になって、貧しい暮らしになったりするんだろうか。テレビでは戦争のことしか映さなくなって、ミサイルや爆撃のアラームにも、遠い人が亡くなるニュースも知人が亡くなることにも慣れる日がくるんだろうか。いやだな。もう亡くなったじいじはわたしへの絵手紙に戦争の禍々しい炎の絵とともに「柚芽がこんな絵をかかなくてすむ世界を祈ります」と添えられていたこと、何回も思い出す。わたしもいつか、そんなことを誰かに話すのだろうか。話したくない。絶対にいやだ。ばかばかしい。
 
昨晩は4時まで眠れず、布団の中でイヤホンで(爆音で)『On Melancholy Hill』を聴いていた。その歌詞のうつくしいこと。洗われたようで清々しくて何度も聴いた。英語はほとんどわからないけど(すこしわかる箇所もある)、完全にはわからないまま…不完全な状態で、その余白にすっと入って、わたしだけのきれいな場所でまどろむのが心地いいんだ。
一瞬、ほんとに一瞬だけ、このバンドが活動している国のことを想像して、はっとした。わたしは差別をする人間なんだと思った。そりゃそうなんだった。また自分を過信していた。それでもこんなうつくしい歌を汚してはいけない。作品に、いや人間に、土地に、なんの罪があるというのか。自分の愚かしさと汚さが悲しい。そんな泥まみれの自分をも躊躇せず包み込んでくれるようなメロディに救われてしまう。ありがとう。虚無が日常のいたるところに入り込む。それは余白ではなく、わたしの隙なんだと思う。隙じゃなくて、余白を持たなければ。
 
Up on Melancholy Hill
There's a plastic tree
Are you here with me? 
 
 
 

2024-04-01

神田散歩

 



引き続き今日も日記を書いてみる。

今日は絵のスキャニングのため、神田へ。どうにか迷わずスキャン屋さんについたけれど、1枚あたり3,000円かかるらしく、若干怯む。まあ必要経費ということで、承諾する。電話番号を伝える際、自分の電話番号がわからなくなり違う番号を伝えてしまった。念のためメールアドレスを伝えたので連絡については大丈夫だったが、わたしのあたまは大丈夫なんだろうか。道で立ち止まって「電話番号 わすれた 認知症」と調べかけたが、振り払ってそのまま神保町まで歩き、本屋で漫画を二冊買う。その足で、喫茶「ぶらじる」に行く。音楽がかかっていなくとても静かで、静かすぎてうるさいような気がして居心地がよかった。「コンニャク ショコラ」みたいな名前のチョコレートケーキがおいしかった。
 
支払わねばならないものだけで所持金がなくなるのが悔しいのだから、お金が尽きる前に自分へ何か買い与えたらダメージが軽減されるのではないかと思い、今日の優雅な散財。結果、割と大丈夫だった(支払いは明日だけど)。いい作戦だったかもしれん。
 
その付近で、数年前お世話になった佐藤直樹さんの展覧会が開いているので訪れる。カァ〜ッ!となる。しかしこれらは、絵なのかわからない。森っぽいものを描きまくっておられるが、森なのかもわからない。佐藤さんが何をしていらっしゃる方なのかも未だによくわからない。わたしから見るとこの森(?)を描き続けている人という印象だけど、佐藤直樹というとデザイナーの印象が強いかもしれない。そういえば6年前に「路地と人」という空間で壁一面にこの森(?)を描いていたのを見て、佐藤さんが講師をしている「描く日々」という講座に受講することにしたのだった。あのときもカァ〜ッ!となったんだ。「描く日々」ではみんなおのおの絵を描いたり、みんなで鍋(すごくおいしかった)をしたり、佐藤さんがお菓子をムシャムシャ食べていたという記憶しかない。だから余計にわからない。6年前に見たときの森(?)は拡張し続け、今は300メートルにまで至ったそう。この絵たちや行為に対して敵した言葉が見つからない。感想を述べられないが、よかった。カァ〜!だった。
 
帰りには近所のスーパーでたくさんの野菜とおいしい味噌買って帰る。きのうの夕飯が大失敗したので、今日は絶対成功するはずの煮物を作る。昨晩はわたしにパスタは不可能だということが分かった夜だった。





2024-03-31

うすぐもり

 
 
今日も日記を書きます。

数日前から靄が晴れたように頭の中で言葉が止まらない。お風呂に入ったとき、わたしは無心でシャンプーを泡立てているだけなのに、頭の中がずっとうるさかった。自分と頭がべつの人のような気がする。
今日も絵は描かず、荒れた家を少しずつ片付ける。古いスケッチブックの間から、棚の奥から、カゴの底から…使いかけのノートが出てくる出てくる。わたしは文字の形や絵のひとふででも気に入らないと破って捨てる癖があるので、ほとんど真っ白。時折決意表明が書いてあるものもあった。すっかり忘れている。すこし前から始めた「自分見つめ直しノート」も続かないだろうと改めて思い知らされる。続かないだろうと思いつつ何気に続けられたらうれしいな。なるべく破らないようにせねば。

「自分見つめ直しノート」に、はじめて「罪」(※ごく個人的な、背負いたいから背負う罪のこと/超極秘)について書いてみた。ここまで自分に正直になるのははじめてだった。これまではノートであっても誰かに見られるんじゃないかと疑って結局よそ行きの文章を綴っていたので。3月に背負ったわたしの「罪」は5個。そのうち、「ゆるせる」ものは1個しかなかった。甘いのかもしれないけれど、白状できたのははじめてなので、それだけでヨシということになっている。可視化させることで罪の重さに気付く(遅い)。だいたいのことはこの罪を減らしていけば解決するんじゃないかと思うほど。
人に話したら「そんなことないですよ」と言ってもらえるのかもしれないけど、自分はほんとに性格が悪い。しかし周囲からはは「いい人」(偏見)と思われているのではないかと勝手に思い込んでいるので、性格の悪さを隠すように振る舞って疲れる。そこで、まずはブログにて性格の濁った部分を具体的に日記形式で書いてしまったらいいんじゃないかと気付き、今に至る。きれいな人だと思われたとて、べつにうれしいことはない、ではないか。
それに、わたしはあるいは人よりもだいぶ信頼できない。だれからも信頼されるべきではないとも思っているので、ここで独白します。ずっと前に点滅社さんの「鬱の本」という書籍に文章を載せていただいたのですが、今はその文章と全然ちがうことを思っている気がして、情けないことにちっとも読み直せません。その後ろめたさから、一切の宣伝をできておりませんでした。すみません。自分の文章を束ねた「絵・日々・言葉・生活」という本も、まったく読み返せる気がしない。あれをよかったと言ってくださる方がいても、苦笑いしてしまう。すみません。もしこれを読んでくれている方がわたしと関わることがあったら、ぜひわたしを疑ってください。わたしもわたしを疑い続けています。

文字が小さく読みにくく、なんの足しにもならんであろうこのブログの文章を読んでくださっている方は、ありがとうございます。多分、読まれているから続けられています。(続けてしまっている、かもしれない)そうそう、そんな気持ちを持ってすこし前からインスタグラムで「台所の記録」というのをはじめました。つくりたいときにつくったとき / あじわえたとき / 撮れたら撮る ということを目標に時々アップしています。これは<裏アカ>ってやつなのですが、やはりこれもある程度の人に見られている自覚がないと続けられないだろうと思い、インスタグラムの「市村柚芽」のアカウントで、24時間で消える<ストーリーズ>というコーナーで少しの間紹介して、その間にフォローしてくれた人だけが、今もフォローしてくださっているという状況です。数十人からフォローしてもらった直後、一瞬後悔しかけましたが、他者の目はやはり大事そうなのでよかったと思っています。このブログからインスタグラムに飛ぶ人はいないんじゃないかという気がしますが、興味がある方よかったら。(→☁︎
 
今日の投稿は、めっちゃ時間かかるレシピだということに気付かずに作り始めてしまい、出来上がったのが夜12時近くのキーマカレー(ののこり)。

2024-03-30

きれいな外 / 銃声

 

↑上、nakabanさんのDMはがき
↖︎左、後ろ姿が私ににている、といただいたポストカード
↗︎熊谷隼人さんの絵。三つの絵ともこの絵に似てるみたいに見える。
 
5月の展示のための絵が描き終わり、展示前の打ち合わせも完了。心は少しずつ落ちついてきた。今日は絵を描かず、たまってきた雑務をして過ごした。 3月分の領収書を整理したり、自分見つめ直しノートに最近のことを書き加えたり。こういう時間はなんとなくでなく、確実に毎月とった方がよさそう。お昼ごはんには、昨日の残りのロールキャベツを食べた。ロールキャベツが一晩たってもっとおいしく変身していた、感動。ありがとう。
日が暮れてから、散歩がてら近所のスーパーへ。外はとてもきれいだった。家から見る外よりも、外から見る外が、一番きれいだと思った。青い夕暮れの空を背に真っ黒い木の枝が細かく分かれているところを、こんなに美しい風景があるんかと思いながら見た。もうすこしがんばって、どんなときでも外に出られるようになったらいいのかもしれない。散歩をしたい。
 
自分見つめ直しノートに、戦争について思うことを書き加えた。それについて使った言葉はどのページよりも多くなって驚いた。
すこし前まで、私は戦争の「せ」の字も見られなかった。目を背けていたという訳ではない(と自分は思ってる)。最近になって少しずつ調べている。調べるほど、それに関連する言葉については気をつけなければならないと感じる。今も、とても気をつけて書いています。
私に(あるいは私たちに)できること/したほうがいいことというのは、冷静ではいられないような状況であっても冷静でいるように努力することではないだろうか。
誰かを批判したい気持ちは決してない。全ての人の全ての想いを赤の他人の私が否定する筋合いはないから。しかし肯定しなくたっていい。そのままでいることは悪いことではないと、そう思いたいから思う。だからそういう角度から見てもやはり冷静さは必要。急ぎつつも冷静に。冷徹さも必要かもしれない。つまりは冷たさが必要だと思っている。粛々とできることはあるし、している人もいる。そこに愛情の有無はなんの関係があろうか。どんな視点から見ても戦争は嫌だ。恥である。当たり前に反対である。それを本当に当たり前に掲げながら、なるべく冷たくいたいと思っている。個人的な話で言うと私はこれから先<寄附ができない>とか<なにもしてあげられない>ということで罪悪感をおぼえないし、謝りもしない。わたしは「いまそこで起きている状況」にずいぶんひっぱられ、こんなに時間がかかってしまった。
すこし前に夢で日本でも戦争が始まった。銃声には、3日で慣れた。私はずっと逃げていた。 冷静で冷徹だった。自分と自分の大事な人だけが助かればいいと本気で思いながら、死体を横目に逃げた。いつものぼんやりはどこに行ったのか、覚醒していた。それ以外のことがあまりにもどうでもよく、ただ助かりたかった。それしか生き残る術はないと思った。

2024-03-24

20分前



仕事の前/約束の時間の前/展示の前、には、いつもソワソワとして落ち着きがなくなる。今は久しぶりのバイトの直前であり、大きな目で見ると展示の前(約一ヶ月半前)でもあるので落ち着きがあるわけがない。展示中と展示後はどんよりするか覚醒状態になる傾向があるので、先日展示が終わり、ようやく落ちついてくるはずなのにソワソワしていいて心が忙しい。
 
ソワソワだけならまだ良いものの、その期間中は変な行動をしがちなので怖い。急に新しいことを始めたくなって大きな買い物をしたり(後悔する)、誰かに連絡して約束をしてしまったり(後悔する)、自分が何か病気にかかっている気がして病気と病院のことばかり調べてしまったり(不毛)。今は←これだったので、とにかく別のことで気を紛らわせようとパソコンをつけ、文章を書き始めた。
 
ひとつきっかけとなる出来事があり、その日から自分見つめ直しノートを制作しはじめた。左側には出来事ととった行動を・右側には本音を記入する。
一通り記入していくと、行動と本音の距離がずいぶん離れている箇所が多くあり、また、いやな出来事に直面して消耗するより、その距離自体に罪悪感を抱き自滅することが多い印象があった。

今日こうしてパソコンの前に座れたことは、多分このノートのおかげ。このままバイトの時間ギリギリまで病気の症状を検索していたって夜眠れなくなるだけなのだから。
そういえば病気恐怖と葛藤する前、展示に向けて描きおろす絵の最後の1枚を描き始めた。予想の一ヶ月半早い。絵の進捗状況がものすご順調。私はこの性質に恩恵を受けている。が、つらいのでやはり不要だとも思う。


(バイト後追記)
アルバイトに向かうために自転車に乗ろうとしたらなぜか動かず、仕方なく小走りで向かった。完全に遅刻だとテンパりつつ向かうと結局20分前に着いた。一番ちょうどいい時間。
 

2024-03-17

ずっといちばん大好きな歌

 

青森の本屋さんが、友部正人さんのライブを主催されていた。
やりとりをしていたときのことだったので、青森まで本気で行こうかと思った。
片道5時間、2万円。行けないこともない。でも諦めた。
それは先のことを慮ってと言うよりは、最近の自分の心の動きを見つめて。
後悔するだろうかと思いながら。

ライブの日、開演時間である19時に、私は家でひとり友部正人さんの大好きな曲を聴いた。聴いたと言ってもCDを持っていないので、ユーチューブでライブの映像を見ただけだけども。
この曲のことは、よくわからない。
歌詞も耳で聴いて把握しただけなので合っていないかもしれない。
この曲の詳細を知らなくても音源が手元になくてもいいような気がして、いつもそんな雑な聴き方をしている。
いつかCDを買う日が来たりするんだろうか。

この曲は18歳くらいのときから、反復して聴いている。1年に1回くらい聴いてはまた思い出したときに聴く、というような。こういう聴き方をする曲は、他にない。

その日もしばらく聴いていなかった。
聴くとあんまり胸が震えるから、避けていたかもしれない。
久しぶりに聴けたその曲は、変わらず大好きだった。
ライブに行けなくても、友部さんに会うことがなくても、私は満足な気がする。
この詩のことは、生きてる限りはずっと何回でも思い出すだろう。



知らないことでまんまるなのに
知ると欠けてしまうものがある
その欠けたままのぼくの姿で
雨の歩道にいつまでも立っていた


2024-03-11

なんでもない日

今日も、なんとなく日記を書いてみる。
 
起床。
顔にべっとり花粉がついているような気がして、猛烈に洗う。
湯を沸かしつつ、身支度をすませる。
黄土色のシャツと、青みがかったグレーのロングスカートを着る。
青い陶器のイヤリングをつける。
いつもより色がある。
春が近いからか、そんな気分だった。

昨日製作した、「琥珀糖」の経過を観察。
昨日の夜から、朝になるのが楽しみだった。
少しだけ、表面がパリッとしてきたような。
これは、結晶化してきたってことなのか。

紅茶を淹れ、ビスケットといっしょにいただく。
郵便局へ向かう。
香川の本屋さんへの発送をすませ、
青森の本屋さんに送る荷物に使う梱包材を買う。
郵便局の向かいにある和菓子屋さんで苺大福を買って家に戻る。
 
帰宅し、洗濯物を干す。
パソコンの前に座る。
自転車を漕いでいたとき、今日は日記を書こうと思った。
それで今、こうして打っている。
 
次は夜、追記する。
 
 
昼過ぎ、お世話になっている本屋さんへ向かう。
ここはずっと前に、初めて個展を開いた場所。
今はそこが本屋さんになった。
差し入れに苺大福を渡す。
尾形亀之助さんの『美しい街』という詩集を買う。
少しおはなしさせてもらう。

帰宅して、おやつに肉まんを蒸す。
描きかけの絵を進める。
小さな花の花びらがどうしてもうまく描けず、日が暮れてしまった。
うまく描けないと、知らぬ間になげやりになっている。
絵の具が乾いていないのに上から重ねてしまったり、水が濁っていたり、パレットが色で埋まっていたりする。
とにかく落ちつかなければだめだと、
絵の具の乾くのを待つことにした。
その間に、『美しい街』を開いて読んでみた。
この詩が、目に留まった。


「うす曇る日」
 
私は今日は
私のそばを通る人にはそっと気もちだけのおじぎをします
丁度その人が通りすぎるとき
その人の踵のところを見るように
 
静かに
本のページを握ったままかるく眼をつぶって
首をたれます
 
うす曇る日は
私は早く窓をしめてしまいます
 
 
読まずにとっておいた『双紙いのちかたり』も開いてみる。
森友学園問題でお亡くなりになった赤木俊夫さんの命日である3月7日に、妻の赤木雅子さんの願いが叶うことを願い、小熊昭広さんが制作/発行されたもの。 
小熊さんは、宮城で活版印刷所を営まれている。
その本の中に掲載されている、熊谷麻那さんの文章に添える黒い丸を担当させてもらったご縁で、数日前に実物をいただいたのだった。
 
先月宮城へ行ったとき、小熊さんの活版印刷所へ、熊谷さんにくっついて訪れた。
そのときの光景や感じたことは、あまり言葉にして残しておきたくない。
多分、熊谷さんに対してもそう。
自分でもよくわからないけれど、大事な感情がある。
尾形亀之助さんの詩集を買ったのも、小熊さんと熊谷さんを思い出してのことだった。
 
『双紙いのちかたり』のことも、あまり言葉にしたくない。
わからないが、今回もまたそう思った。
ただ、この本から漂うインクのにおいが、活版印刷所へ訪れたときと似たような、胸がぎゅっとするような感覚になること。 
それも多分、大事なもの、なんだろう。


忘れたくない大好きな存在や景色がある。
けれど、それを強引に引き止めることなど
きっとしなくていいんだろうと思わされる。
そいうことが、ここ最近、よくあった。
 


なんにもない、と言えば、
なんにもない1日だった。
なのに、気付けばとても長い文章になった。
 
 
今日は3月11日。
これは追悼なのだろうか。
 
わからない。
おぼえておきたいから?
 
多分、ちがう。
でも、よくわからない。
 
○ 
 

○ 
 

○ 
 
さっき完成した絵。
すこし前まで蕾だった花が咲いてきた。
絵の中で、雪が降りだした。

2024-03-08

雪の日


眠くて眠くて二度寝したら、また夢を見た。
私は久々に実家に帰っていて、猫がいた。
思っていたよりずんぐりむっくりしていて、
毛羽立った古いぬいぐるみみたいな毛をしていた。
なでたら、ごそごそ、って音がした。
むかしはもっと艶があって、絹みたいに光っていたんだけども。
しかし、毛艶がなくなって姿が変わったとしても、目の前に居てくれるだけで、こんなにも心が喜んでいる。それを母に伝えたりして、家族と団らんする。
 
ホットカーペットの上で、布団をかぶって三角みたいな形になりながら、遠巻きに猫を見ていた。ふと、母に話しかける。「あ、おもいだした」。私はまた思い出した。
夢の中で思い出すの何度目だろうか。
私は泣いていないのにすごく泣いていた。ふと母を見ると、母も泣いていた。
 
 
起きたら、窓から見える景色が真っ白だった。
一晩で、 雪が積もったらしい。その雪が太陽を反射して、白く光ってる。
私は雪が降ったことすら知らないで、たくさん眠っていた。
 
日常に戻っても特に泣いたりはせず、普通にゴミをまとめて外に出る。
すんとしている。雪がそばにあるとき、空気がきれいな気がする。
照りつける太陽で、雪はすごい早さで溶ける。滴る音があちこちで鳴る。

部屋に戻って窓を見た。
カーテンが、黄金色にひかっている。
こうして積もった雪も、この天気じゃすぐに跡形もなくなるだろう。
あんなに真っ白なのに、どこいくんだろうね。

2024-03-06

「ここにあるもの・室内」展示の記録



きのう、東京・高円寺のるすばんさんにて開いていた個展が終わりました。
その、展示の記録を、記憶が遠くに小さくなる前にここに貼っておきます。
(read more...をクリックすると表示されます)
いつもはホームページに記録していたのですが、訳あって更新できなくなってしまいました。
公開はしているので、今までのいくつかの展示に興味がある方は、ホームページも見てくれたら嬉しいです。
 
今回の展覧会についてのこと。
言葉にしない方がいいことと、言葉にしてもいいようなことがある気がしています。
書き残しておきたいことを慎重に考えて、写真の後においておきました。
読みたい方は、読んでくれたらうれしいです。 
 
展覧会にお越しくださったみなさま、気にしてくれた方々、会場であるえほんやるすばんばんするかいしゃさん、あたたかな時間と、よい空気を、どうもありがとうございました。

2024-03-02

そこに在るということ

 
 
今は絵の具の乾き待ち。
これを乾かしている間に、瓶に反射するものをどれくらい描こうか決めようと思っていた。
が、頭の中で言葉が溢れてくるので、ここに書き留めることにした。

絵を描いていた。
大切な友だちと、つい先日話したことを思い出した。
ふと、何に対してなのかはよくわからない涙がとめどなく溢れてきた。

私が私でしかいられないことのもどかしさと、自分の傲慢さを、両方同時に実感して、悔しくなる。
世の中にはどうにもならないことというのがあって、そんなものは私にも当たり前にある。
今朝も、「ごめんなさい」と思いながら見ないようにしたものがあった。意識していないだけで、たった一日でも山ほどあるだろう。
しかし、他人のそれをどうにかしたいと思うことは、とんでもなく傲慢なことである。そんなことも分かっている。それでもどうしても何かしたくなる自分に、苛立ちと虚しさを思う。こういう時にだけすがるようにしてしまう私の薄っぺらい祈りにも、呆れてくる。

瓶は透明なガラスだから、色々なものが表面に反射する。置かれる場所や光の入り方が、大きく反映されて姿を変える。そうでないと、そこに在るとは言えない。
だからこの文章を書き終えたら、瓶に外の雲の映り込みを描くと思う。

私の頭の中で考えることや大切なことは、私を離れた瞬間に、あるいはそれは脅威や悪意になる。何に対しての涙なのか、やっぱりさっぱりわからない。今でも泣きそうになるのに、何も分からない。
それでも自分は恵まれていたなどとは思いたくない。もうこれは意地だと思う。ただ無責任に祈ってしまう。

2024-03-01

卸販売について / 注文書のこと

 

(お店屋さん向けのおしらせです)

卸販売について、おしらせです。
最近更に商品が増え、卸していただくことも増えたので、もっとお取引がしやすいように「注文書」をつくってみました。
こちらに数量を記入し、それをメールにて添付して送っていただければ、文面でのやりとりなくご注文いただけます。
 
文面で見た方がわかりやすい方は、こちらを参照ください
 
「注文書」は裏表あります。裏に送料無料の条件など書いてありますので、ご一読ください。
(下記データをダウンロードして、印刷してご利用ください。画像をクリックすると、Googleドライブにとびます)
 
いつも気にかけてくださるみなさま、本当にありがとうございます。
つくったものが、自分の行ったことのないような場所にまで届いてくれることが嬉しいです。
 
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2024-02-28

あかんべえが聞こえない

さっき久しぶりにある人のブログを開いたら、ぽろぽろと更新されていた。その人のブログは、生活そのものという感じがする。生々しさと、私のおもう美しい生活の上澄みがある。人の日記に、そこまで興味はないし、そこまでおもしろいとも正直思わない。でもその人の日記(言葉)は、ぱくぱく食べるように読めるから楽しい。そこにたまにえぐみがあって、だからか最近は時々にしか読めない。
その人の日記を読んでいたら私も書きたくなったので、ここに記してみる。


今日は九時頃起きた。
昨日は花粉のせいか呼吸が苦しく全然寝付けなかった。起きてすぐ花粉を感じたので、ゴミをまとめ(枯れた花を4輪捨てた)洗い物だけすませ、自転車で皮膚科に直行した。
寒いくせに春の嵐のような強風で、危険を感じるほど大きな風が、大量の花粉とちっさいゴミと共に私に吹き付けてくる。両目にゴミというゴミ、全てが入ってくる。これの対策がずっと分からないでいる。瞬きをしまくるとか、目を極限まで細めるとかをやってみてもだめだった。まつげを増やしたりしたら改善されるのだろうか、つけまとか?

皮膚科にて、診察時間3分程度で簡単にアレルギーの薬を増やしてもらう。あまり信用していないので(失礼)こんなにアレルギー剤って併用していいのか、など薬局で詳しく聞く。自己判断で飲もうと決めて注文した漢方の飲み合わせも聞く。(大丈夫だった。一安心!)

帰宅してすぐ、処方してもらった薬を飲み、目薬をさす。
漢方も届いていたので、飲む。
一回一錠だと思っていたら一回四錠で驚いた。こんなに飲まなくてはならないなら、粉状の方が飲みやすそうだと思った。薬を飲むのが下手で、喉を傷つけそうな気がする。

日が落っこちて部屋が暗くなるまで、途中の絵を進める。
昨日買ったラナンキュラスを見ながら描く。花を描くというつもりじゃなく、さりげなく描きたい気持ちがあるのに、ラナンキュラスが美しすぎて、とにかくひっぱられる。茎のうねりと花のうす桃色が本当に美しく、心から美しいと思ってしまうこの身体に若干腹が立つ、くやしくなる。それでも本当に綺麗だった。もう負けたよと言いたくなるくらい。

窓から、大きな風の音が聞こえる。室内はあたたかく風も吹かない。
本当に安心する。絵はずっと不穏に、暗くなる。
 
おやつに、一昨日炊いたこしあんであんバタートーストを食べる。
本当に美味しい、感動する。
あんこを炊くのははじめてだったが、本当に意味不明な行程ばかりがあった。結局五時間もかかってしまったけれど、あのわけのわからなさがすごくよかった。またやりたい。


日が暮れて、部屋が青暗くなっていた。
絵を片付けて、注文していただいた方への商品の梱包作業。とても苦手なので、一件一件進める。やたら疲れたと思ったら、夜が来ていた。

夕飯を作ろうと電子レンジをあけたら、緑の光と共にバチッと音がなったきり動かなくなってしまった。
昨日の残りのハンバーグが温められなくなったので、つめたいままワインやソースや玉葱と煮込んで、煮込みハンバーグにした。昨日のもやしのナムル、昨日の味噌汁、白米。ほとんど調理していないが、煮込まれてるハンバーグは完全にごちそうだった。やたら疲れていたので、昨日の自分に感謝。
TVerで「徹子の部屋」を見た。 
藤井聡太さんが出ている回で、徹子さんが将棋の駒を格好よく打ちたくて奮闘している姿がすごくよかった。「徹子の部屋」は、49年目らしい。徹子さんは、テレビのはじまりからおわる頃まで出続けるんじゃないか、と話した。マツコデラックスの出ている回で、時計とともに徹子さんがあらわれる時報を始めるのはどうかと仰っていて、それはとても見たい!と思った。

湯を張って、ゆっくりつかる。
今日の汚れを全部流したつもりになった。
宮城でいいお風呂に入ってから、よくお湯につかりたくなる。あのお宿は本当によかった、とまた、宮城のことを思い出す。

それから今、日記を書いている。
文章を書いていたら深夜1時になっていた。もう寝なければ。
この日記は今成哲夫さんの「あかんべえ」という曲を聴きながら、はじめは書いていた。が、言葉に集中できなくて、結局止めてしまった。
この歌は、最近なんでか好きだ。歌詞があまり聴き取れないのだが【あかんべえが聞こえなくて、あかんべえに聞こえなくて、あかんべえを返してくれと叫ばれている】という歌、だと思う。特に気にもせずたまに聴いていただけだったのに、どうしてか最近この曲を思い出して、それからよく聴いている。

2024-02-22

とりとめもない水

夢を見た。
また、もう死んだ猫がまだ生きている夢だった。
こういうどうにもならない夢を見る度に、どうしても記録しておかなければと思ってしまう。
なんなのだろう、何に対しての執着なんだろう。

夢の中で猫は、生前よりまるっとして、毛がうすかった。
病気をして、もういつ亡くなるかわからないから、久しぶりに実家に帰ってきたという設定だった。
なんとなくそれが最期の夜のような気がして、私は猫を撫でて目をつむったとき(あとどれくらい一緒にいられるかな)と思った。

そう思ったとき、ひもがほどけたみたいに夢から醒めてしまった。
夢から醒めたその瞬間に、また会えない日々がはじまることへの悲しみよりも、緊張していた心が楽になったことを強く感じた。
一緒にいれるよろこびよりも失うことへの恐怖ばかりに引っ張られる自分が憎い。
そんなことを考える暇があるのなら、もっとよく見て撫でていればよかったんでないかと思う。どうしようもなく。

起きてしまった後に布団でぼんやりしていてもろくなことがないので、台所で水を飲んだ。
外はまだ真っ黒だった。それでも早朝の時刻であった。
祭壇の前で久しぶりに手を合わせてみたら、涙がぽろぽろ出た。
泣いていたってまたろくなことがないのも分かり切っているので、こうして文章を書くことで深呼吸をはかる。
書いている内に窓の外が青白くなった。

祭壇の前で流した涙は、会いたいなあと思ったらぽろぽろ湧いてきた。
さいしょの二、三滴くらいは、きっと純粋な。
昔より少しは変われたんだろうか。少しずつでも、変われているんだろうか。

(2024-2-22 早朝)

2024-02-19

宮城の記録



夜、帰りの新幹線にて

宮城へ行ってきた。
新幹線がとても早くて距離感がわからなくなったり・暖冬で雪がなかったせいかもしれないけれど、東京から300キロ離れたそこは、肌なじみがよかった。
大きな山があった。ごつごつした川辺がたくさんあった。きれいな水があった。太陽がずっとまぶしく、空をあまり見られなかった。ひんやりした気温の中でいい風ばかり吹いた。
たった3日の滞在でその土地のことがわかった気になるのは安直すぎるのだろうが、思い出すと崖っぷちに立ったようにひやひやする。あの場所が失われたらとても悲しい。そんなふうに思うのにびっくりした。
友人にくっついて、活版印刷をしている工房へ伺った。そこでは文字に重量があった。文章を書くという行為があまりにも物理的で、それにすごく安心した。ずっと読めなかった活字が、久しぶりに読めた。
友人が生まれ育った故郷を歩いて、心がざわざわとした。彼女が持つ原風景のようなものと私のそれは、その距離通りの遠さなんだろう。どんなにたくさん喋っても、根はそれだけ遠い場所にあること。一緒にいて全然つかれないから、それが少し淋しいような気すらしてしまった。

会いたい人や行きたかったお店も行けて総じてとても楽しかったけれど、この淋しさはなんなんだろう。また訪れたらいいのだろうけど、そのたび増幅しそうで少し怖い。本当にきれいな景色を見た。私はああいう(風景画を描きたいという訳ではない)絵をいつか描きたい。

それにしても、新幹線は本当にすごい。一人で新幹線に乗るのが初めてで、とにかく緊張して余裕なく乗車したのだけど、座ってしまえば二時間くらいぼやっとしているだけで着く。最近はチケットも必要がないらしく、ICカードをピッとするだけで自分の最寄りから宮城に着く。実際、今住んでいる場所(都内)から渋谷へ行く方がずっと疲れるし遠い感じがする。距離を数字で見れば、300キロ。ずいぶんと遠いのに、近かった。
東京に着いて新幹線から降りたとき、その乗り物の宇宙人のような造形に驚いた。イルカとウルトラマンを混ぜて巨大化させたような姿。そりゃ新幹線はすごいわけだと何か腑に落ちた。

2024-02-14

花の絵が包装紙になりました

花屋duftさんにて、花の絵を包装紙につかっていただいています(第二弾です)。
ひろげるとこんな感じで、巨大なポスターのようになります。

duftさんは松陰神社前から
梅ヶ丘へ移転されました。
旦那さまの営む古着屋fernwehさんも同じ店舗内にてオープンされました。
先日ようやく伺ったのですが、人間も花も洋服も、あの空間にあるもの全部がぴかぴか光って見え、どこを切り取ってもきれいな絵みたいな(ものすごミーハーな感想ですけど)わあっとなる空間でした。
その日は慌ただしく去ってしまったのですが、またゆっくり伺いたいです。

近所の羽根木公園では梅祭りが開催されているそうで、駅周辺はにぎわっていました。
とてもいい公園らしいです。
お近くの方、ぜひいってみてください。



duftさんで買った花は、普段自分で選んで描いている花とは全然違うなあと 家に持ち帰って眺めていて感じました(今回、お花を店主ちえみさんに選んでもらったりしたからかもしれませんが)。
花瓶にさして飾っては、一本抜き出して描こうかと一瞬思いましたが、やはりこのままで鑑賞していたく、描かずに飾っています。

同じ花だというのに、この魔法にかけられたみたいな気持ちはなんなんだろう?と考えます。店主ちえみさんのまなざしや、姿勢を思い出したりしながら。
花に対しておもうことは、花を描いていなくても、そばに置いていなくても、やはりずっと変化し続けているように思います。
生きているから、ずっと変わり続けるのかもしれません。
 
諸事情あり段ボールだらけ・失敗した本だらけのこの家には少々浮いた存在ですが、しばらくいろんな気持ちで眺められるのがうれしいです。
しかし、シティーガールが急にやってきた感じで、そわそわします。

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●包装紙のデザイン
浦川彰太さん(→

●お店の場所
duft (→) / fernweh (→)
1540022
東京都世田谷区梅丘1丁目33-9
モンド梅ヶ丘ビル2F


2024-02-08

怖い夢の中で

わたしの不安と恐怖がつまったみたいな夢を見て明け方起きる。久々に悪夢を見た。
窓は彩度の低い青をしていて死を連想させた。幽霊が飛び回っていそうな空気でもあった。じゃあ会いたい幽霊飛んでないかなとか思ってみたりするも、すぐ悲しくなって楽観的になるやり方を全然思い出せない。
たくさん描いた絵が、全部妄想の中で描いた虚構のような気がしてくる、私は本当に現実を生きていたんだったか。生きているのか。心臓の鼓動の音は幻聴ではないのか。私が幽霊ではないか。などと、悲観(?)的になると目はどんどん冴える。
しばらく動けず、目を瞑ったまま見た夢を文章にする練習をした。文章にすると、ほんとうのこともまるで文章にしたいために作られた嘘のように感じられ、少し助かる。(発見だった)
た夢にひっぱられ、今度はその夢の分析をはじめる。だんだんその夢は何かが起こる前触れのような、運命的なものに思えてきてまた震える。
身体が不安でいっぱいになるのを感じた。金縛りにあったようにすっかり動けなくなる。
自分の心だけを見つめていると、怯えの中にちいさく灯るなんかほわほわしたのがあるのに気づく。さっきの夢の中で、その不穏な世界の中で、とてもかわいくてとてもやさしいものにふれたような気がしたことを、ようやく思い出す。姿も声もないし認知すらできなかったけれど。
穏やかになってくる。息ができる。
わたしがわたしでいる限り、あるいはわたしからわたしが去ったとしても、この悪夢より怖い現実が訪れたとしても、忘れたとしても、変わらない(変われない)ことがあるような気がして、それは、冷静な頭で考えても、きっと不安なことじゃないと思った。


2024-02-04

冊子「ここにあるもの・室内」のこと




2023年9月から12月までの小さなスケッチを束ねた、本のようなスケッチブックのような日記帳のようなものを製作しました。
(えほんやるすばんばんするかいしゃさんでの展覧会に伴い発行しました)

今回はできるだけ言葉を削ぎ、自分にとって必要な情報だけ残してあとは流しました。
なので、無愛想かもしれません。
余計だと思いつつ言及しておくと、この本を作った動機は、私の執着心からです。
忘れることがこわくて、だれかに記憶してもらいたくて、強迫的に作ったかもしれません。それはあるいは今までの本づくりと同じだと思います。
(かもしれません、というのは、何かをつくるときのことなど、自覚しなくてもよいのではないかと思っているからでもあります)
これは動機ではないけれどひとつの目論みとして、さまざまなことに対しての、私なりの意思表示のつもりというのがあります。歪んで届いてもいいくらいの、ちっぽけないじわるです。
私は今、不安でいっぱいで、喪失感で満ちていて、それでも、しあわせで生きています。
以上、多分数年後の自分が見たら消えたくなるであろう余計な言葉のおまけでした。読んでいただきありがとうございます。


●タイトル:ここにあるもの・室内
●著者:市村柚芽
●サイズ:約185×152mm
●ページ数:本文32ページ
●仕様:20枚のスケッチを本体に手貼り
●製本:中綴じ(カバー付き)
●本体印刷:中野活版印刷店
●刊行:2024年2月1日


現在、展覧会会場であるえほんやるすばんばんするかいしゃさんと、私のウェブショップより購入可能です。
気になった方、よかったらのぞいてみてください。
(卸販売もはじめる予定です)








2024-01-28

こころをあらう

 


 
猫が11階の家から落っこちそうになっているのに気付き、とにかく捕まえようと身を乗り出して猫に手を伸ばす…という夢をみて(ふだんは高いところが怖い自分も、猫が落ちるかも!ともなれば全然怖くなかったのだった) めっちゃびっくりしながら起きたその一分後に、ずん!という地震が起こってまためっちゃびっくりした(震度4)
 
ようやっと製本作業が終わったので、祭壇をきれいにし、お花を買ったり、肉と野菜を買いに出た。ささやかなお祝いで、今日はポテトグラタンを作るのです。
外、日曜日は人が多く、太陽もまぶしく、くらっとする。
早々に帰宅し、きれいにした祭壇の前で、ひさしぶりにお骨の前で手と手をあわせてみた。それで、心の中にいる猫を撫でた。
そうだそうだ、彼女はずっと安全な場所にいてくれるのだったと思い出す。
穏やかになる。
すこしだけさみしい。
(これは無限に湧いてくるただの欲である)←心の声
 
昼は調子にのってじゃが芋をたくさん食べてしまった。
そのために血糖値が爆上がったのか、夕方、眠気に耐えきれず寝てしまった。
そのときに見た夢の幸福なこと、家族の夢だった。いろいろな別れの、あとと前の私たちが混在していまの家に団らんしていた。 
こんな夢ばかりだったら良いのにと切実に思う。 
こんなかんじだったのでその他の仕事は全然捗らず…夜にやろう。

たくさん製本作業をしたけれど、これは何ができたのだろう。
本らしき紙の束。本というより、図録と呼んでくれたらしっくりくるが、本になってしまったとも思う。 文学として消費してくれたら、それもうれしいのかもしれない。
 

▲製本のためにつかったテープのり(替と本体)と100均のホチキス。
今回はこれだけつかった。気軽に作るつもりではじめた今回の本(的なもの)。
重い、とても、重い。

2024-01-25

完全度70%のホットケーキ


製本作業の日々。
絵はしばらく描いていない。
進捗状況としては、ようやく80%程度は完了したのではないかという段階。
6000枚の絵を手貼りする作業が終わったので、山場は越えた気がする。
あとはカバーを折り/接着する行程と、OPP入れ。ここで、もうおわった!と油断すると心がすぐに折れるので(折れても進めなければいけないのだが)まだ全然終わっていないぞという心持ちで作業を続けます。
 
数日前からやたらとホットケーキが食べたくて、それもおいしいホットケーキが食べたくて、さっき作って食べた。10年くらい前の、まだニコニコ動画が活気に溢れていた気がする頃に「完全なるホットケーキ」という動画を見た。それを思い出して食べたくなったんだと思う。
動画を調べてみるとまだ残っていたので、動画内で作られたホットケーキのレシピを参考に作ることができた。<生地にバターを少量混ぜることがポイント>らしい。かすかに憶えていた。
その人はシロップから手づくりしていたので、たしかにあれは「完全なるホットケーキ」だわと思った。自分のはとってもおいしかったけれども、その人に言わせれば、市販の蜂蜜だし材料もあるもので製作したので、【70%】ぐらいの完全さだろうか。

70%でもとっても美味しいので、皆さんもぜひ。
  
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【完全度70%のホットケーキ】
 
・バター:5g
・砂糖:20g
・ベーキングパウダー:5g
・卵:ひとつ
・牛乳:150ml
・薄力粉:100g

①バターを練り 砂糖を加え 混ぜる
②ベーキングパウダーを加え 混ぜる
③卵黄を加え 混ぜる
④牛乳を加え 混ぜる
⑤薄力粉を加え さっくり混ぜる
⑥卵白を泡立て メレンゲにする
⑦メレンゲひとすくい分を生地へ落とし よく混ぜる
⑧残りのメレンゲと生地をあわせ さっくり混ぜる ( あまり混ぜないこと )
⑨フライパンを弱火にかけ バター ( 5g ) を溶かし広げ 生地を流す
⑩表面に穴がたくさんあいてきたら 裏返す
⑪弱火で片面をゆっくり焼き 完成