2024-07-24

8月のちいさな展示のおしらせ



 
 
8月のちいさな展覧会のおしらせです。
東京の本屋・イトマイさんでの書籍『花』のお取り扱いを記念して、ささやかな花の展示を開きます。点数はすくなめになるかと思いますが 夏の散歩にぜひ お越しください🍉
ふかふかの椅子の上で、ゴージャスな飲み物とか、かわいいプリンとか、たべられます。


市村柚芽「花」

会期:2024年8月18日(日)-9月9日(月)
場所:書店と喫茶 本屋イトマイ
   ( 東京都板橋区常盤台1-2-5 町田ビル2F )
*営業時間とおやすみは、snsなどでご確認ください
*在廊の予定はいまのところありません

2024-07-23

仙台



















 
写真2枚目...仙台についてすぐ、ホテルのロビーで製本作業
写真8枚目...夕方から、曲線さんでの小熊さんの展示の搬入のお手伝い
写真9枚目...図録で、まちがっちゃいけない部分の誤植をおしえてくれているところ
写真13枚目...熊谷さんの手、四葉。 熊谷さんは、四葉のクローバをすぐにみつけられるらしい
写真17枚目...わたしの木彫りの熊(親子)と、すなば書房さんの熊のお人形を交換

仙台は東京より少し温度が低く、日陰に行けばとても涼しい。そして、いい風が吹いていた。とっても楽しかったのに、なにが楽しかったのか書き出そうとすると、うまくかけない。たのしかった会話の内容もおぼえてない。意識してたくさんシャッターを切ったけれどほんとうに写真でのこしておきたかった気がするシーンはなんでか残ってない。忘れてしまうんだろうな。名残惜しいけどきっとそれがいい。想定より数時間掛かった搬入のあとの打ち上げで、疲弊して身体がバキバキの中、わたしはいまここにいられてよかったと思った。

2024-07-20

いい暮らし

 

今朝、梅が届いた。
午前中、きのう買えなかった氷砂糖をスーパーまで買いに行き ( 扱ってなく、2件はしご ) 、帰ってきて、すぐに梅酒で漬けた。
 
明日仙台で合流予定の忙しそうな友人Kさんに
『製本につかう「赤い糸」を探しておいてくれたらうれしい』
と任務を授かったので、夕方に自転車をはしらせる。見上げた空の雲がとてもきれいだったけれど自転車に乗っていたから写真を撮れなかった。
はじめて伺った手芸用品店は、ちいさなおばあさんがひとりで営まれているようだった。
『なにかお探しですか』と話しかけられ
『「赤い糸」をさがしています』と伝えるのは、少しはずかしかった。
製本につかうんですけど、と言ったらいろんな素材といろんな種類の赤の糸をだしてくれた。
 
おばあさんがずっと昔に作ったというバッグがとてもすてきで、値段をたずねると変な顔をされた。
『こういうの好きなの?値段、どうしようかねえ。じゃあ、3000円かしら?』
... 他、ビーズのボンボン、選び抜いた赤い糸、を購入。
 
帰ってきて、洗濯物を取り込んで一息ついていたら、雷雨!雨が降っていても蝉は立派に鳴いている。バッグのきらきら光るみどりのビーズは、今朝の梅みたいな色だった。
 

2024-07-19

3つの瓶



『人生は、おもったより、長いんです』
どう生きていったらいいのか相談させてもらったとき、絵描きのKさんはこう言っていた。
いろいろなことを教えてもらってメモしたが、この言葉はしてなかった。
なにかをしようとするとき、ふいに 頭の中で再生される。
少しだけほどかれたようなきもちで、また静物のスケッチを描きはじめた。

2024-07-13

花のポストカードについてのご報告



花のポストカードについてのおしらせです。

発行してから二年が経ち、たいへんありがたいことに、初版分のポストカードが売り切れました。清算が済み次第、今までと変わらず記載した宛先へ寄付させていただく予定です。
しばらく売り切れ状態が続いておりましたが、このたび、重版しました。
それに伴い、いろいろな気持ちがあるのですが、寄付の活動は終了することにいたしました。

改めまして、みなさま、ご協力や、あたたかいメッセージ、どうもありがとうございました。
花のポストカードを通じてのご縁や経験を、宝物のようにおもっています。

この商品は、2022年にウクライナへの人道的支援を考えて制作したもので
『売り上げの30%をウクライナの難民支援機関へ寄付する』
という活動をうたい、販売していました。
結果、自分ひとりでは払えなかったであろう額を寄付することができました。
購入していただいた方や、ポストカードを取り扱っていただいたお店さまのおかげです。

重版後のポストカードもネットショップで販売しているので、もし興味があればのぞいてみてください。卸販売も対応いたします。
( 前回と同じく、『えほんやるすばんばんするかいしゃ』さんに今回の発行も関わっていただいています。そのため、個人でも卸でも、るすばんさんからでもご注文が可能です。お問い合わせください)

◎寄付についてのご報告 ( 随時更新 ) →『寄付についてご報告』
◎ウェブショップ→
◎えほんやるすばんばんするかいしゃ→HP

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【花のポストカードの取り扱い店舗さまへ】 
初版分の花のポストカードを販売中のお店さまに関しては、引き続き、上記にも記載の通り『売り上げの30%をウクライナの難民支援機関へ寄付させていただきます』という文言を添えての販売で問題ありません。
(が、明記しなくてもかまいません)

アドレスが分かるお店さまへは上記と同じ内容のメールをご連絡させていただきましたが、どうしても分からなかったお店さまに関しては、返信不要のご報告のメールのため、SNS上のDMやLINE等だと重荷になるかな、と思い、自粛いたしました。
寄付やポストカードの件でなにかお問い合わせがあれば、気軽にご連絡ください。
直接お礼をお伝えできずすみません。この場を借りてお礼申し上げます。

2024-07-12

ももいろ味

 


昼、ざーざー雨がふってきたがすぐに止む。
洗濯物を干す。 涼しいうすくもりの日。 

予約していた病院に行ったあと、八百屋と肉屋に寄る。
ここ最近は買い出しに行く元気がなかったから、よかった。
肉屋では合い挽き肉600gと鶏胸肉2枚を買う。
こんなにたくさん買っても1000円とすこしでうれしい。
八百屋では、スーパーでは高すぎて買えずにいた玉葱を。
それから、きれいな桃色のプラムから目が離せなくなって、目を離さないままカゴにいれた。
たべたさと、描きたさがあった。
描きたさがあるとき、値段を気にせずすぐに決められる。たべたさだけで買えればいいのにとおもう。でも、描きたさもたべたさも、おんなじことのような気もする。
 
涼しいけれど動いていると暑くなって、さっき買ったプラムを早くあじわいたくなった。
帰ってきて手を洗って、そのまま台所でプラムをひとつ食べた。
 
晩、ハンバーグを作った。
それを友人に伝えると、彼女が先日5時間かけて野菜を煮詰めつくったという「ドミグラスソース」 をおすそわけしてくれると言うので、おかえしのプラムふたつをもって外に出た。
アイスもって2人でしばらく歩いた。はじめて食べるスイカバーはおもったより冷たくかたく、かじれないまま時間が経ち、溶けていった。
それが腕からしたたりべたべたになって、ひいひい言いながら歩いた。

お仕事のおしらせ

 


おしごとのおしらせです。
出版社・点滅社さんから刊行された二冊の本に寄稿させていただいています。
左『ザジ Vol.2』には漫画を、右『鬱の本』には文章を載せてもらっています。
『鬱の本』は刊行からだいぶ日が経ってしまいました。
情けないのですが、自分の文章を読み返すのが怖く、ご紹介できずにいました。
ごめんなさい。
本屋さんでみかけたら、ぜひ手にとってみてください。
 
点滅社さんはふたり出版社ですが、その2名+ご友人1名で収録している『無力映画会』というpodcastがすごく好きで、ときどき聞いています。それを聞いているとき、彼らがいる時代に生きていてよかった、としみじみすることがありました。
すごくやさしいからだとおもいます。
 
大切なご縁です。
心から感謝しています。

2024-07-05

持続するときめき / 暗黒の意思表示

 


ときメモGSのこと
ゲーム機をもっていないからプレイ映像を見ただけだけど、それでもときめきがすごい。
電源を切っても物語が終わっても(自分の場合はその動画シリーズがおわってからも)なおときめきが持続する。キャラクターはいつづけて、いつまでもときめきがある。
わたしはちゃんとときめかされつつ(?)、いつもその裏で、心底感動してしまう。いかに普段つまらないことにひっぱられて生きているか、思い知らされたようだった。いつからか、「はみでた部分」こそが「本質」だと履き違えて認識していたかもしれない。ちがう、わたしはただ、遊びたい。楽しいことが好き。楽しいを求める道中で発生したしがらみにばかり気をとられ、足ももつれて。
 ときメモGSで心の扉をこじあけられたが、オープンマインドで世の中を見たら、今までと違う景色がひろがっているんでないか、と思った。
ありがとう、ときメモGS..

高畑勲監督のドキュメンタリーのこと。
見てるだけで胃がきりきり痛むようなドキュメンタリーだったけれど、あの現場には理想的な共通意識があって、感銘を受ける。うるうるした。
その意識とは、各自の仕事との向き合い方において自主性があり、自分事として捉えているような状態のこと。映画製作に関わったすべての人たちが「これはわたしの映画だ」と言えるのは、すばらしい。
人間ファーストでなく作品ファーストであるから、人間同士はフラットな関係性に見える。音楽の久石譲さんや作画担当のアニメーターさんたちが監督に意見するシーンがあって、その姿が超眩しい。
監督の姿勢がどうこうという話ではなく、監督と周囲の人との信頼関係が、そして全体が向かっている方向が、またそれによってできた映画が、..つまりは全体が美しい、という話であって、間違ってもこれを美化してはいけないと、肝に銘じる。これを迂闊に実現すれば、あまりにも暗黒な社会になる。だから、他者に強要することではない。だから、暗黒のまわりに自然に暗黒があつまってきてほしい。わいてきてもいいとおもう。
ここで、暗黒の意思表示をしておきます。少なからずわたしは今もなお暗黒でいるので、暗黒仲間の方がいたら、なにか仕事できたらうれしいです。(急な勧誘)
 
 

▲ときメモGS3の設楽先輩の<ガラケーをうまくつかえない>シーン模写。
ぜんぜんときめけない絵しか描けず、描きながら笑ってしまう。
高畑監督の「かぐや姫の物語」の作画枚数は24万枚らしい。
わたしはそのうちのたった1枚も描けないだろう…

2024-07-01

たりないこと

 
 
 白いカーネーション。
後悔はないけれど、もっとうまく描けたらよかったのに、と、毎回すこしの未練が残る。
ほんものの花はもっと黄緑がかっていて、やさしい印象があった。
それでも描きなおしたりせず、「まあこんなもんか」と割り切って完成とさせられることに、最近あまり後ろめたさがない。
日々のすこしずつの変化。
 
白い花はむずかしい。
色のある花よりも何層も色を重ねる。
が、写真に撮ってみると塗り忘れみたいに見えておもしろい。
なにか足りない気がとてもする。 
パズルのピースみたいに、はめたくてうずうずする。
 

2024-06-26

鏡のように

 
 
ここ最近は何を描いてもぼんやりしていて、覇気がない。感動もそんなにない。
去年・一昨年描いた花の絵を見返すとその生命力におどろく。
当時の絵は、ちょっと怖いくらい強い。今は、いいように言えば穏やか。
これからどうなるんだろう?

2024-06-23

泥蛙


5年前に描いた絵。
黒すぎてわかりにくいが、母のうしろに乗ってふりかえる子供。
絵はほとんど手元にないので、こうして画像データだけ見るが、どんな絵だったかあまり思い出せない。大きさとか、質感とか、色味とか、忘れたなあ。 

それでも、好きな絵を描く人の影響をおおいに受けながら、どうしても忘れたくなかったことを必死に描いていたあのときの自分の心のうちは、ぼんやりとおぼえている。ここに記録していたからかもしれない。今とはぜんぜん違った。

振り返った先にはなにもなく、からっぽの絵だけ残る。
そんなものに、もう意味とか価値なんていらない。ただの不安障害であると言い切りたい。そう思うと過去の絵は、なんて気持ちがいいんだろう。きょう描いた絵も、いずれそうなってくれる?

2024-06-17

黒丸

 

最近、黒い丸をカリカリ描く仕事(?)をもらった。この黒丸7つぶんで、宮城に連れていってくれるらしい。うれしい。この黒丸は、在廊が苦手でいたたまれないときに描いた丸。そのときはずいぶん助けられた。
そのあとも引き続き黒丸を描いた。が、ずっと無。描いてるときも描き終わったときもなにも感じない。ペンのインクはどんどん減って、右手が少し痛くなる。描き終わるころには数時間経っているから、時間を凝縮したらこんな色になるのかと思う。
すこしまえに話題になっていた「頂き女子りりちゃん」のことを、ときどき考える。すこしまえに見た映画のことを振り返るのと同じように考える。黒い丸をカリカリしながら、彼女が喋っている映像を見る。気を抜くと同情してしまう。彼女やそれに巻き込まれた人を批判する声が、わたしにも刺さって痛む。でも、ほんとうに平気でうそをついたりひどいことをする人が居ることも知っている。だから、だまされているかもしれない。
映画『悪は存在しない』はよくわからなかったし好きな映画でなかったけれど、そのタイトルは日常でよくこだましていて、彼女のことを考えているときもそうだった。
小学生のときも中学生のときも、同じクラスの中にひとりは浮いている子がいた気がする。いじめがあったのかは知らない。でもたしかそのときも痛かった。わたしはそういう子に対し、積極的に話しかけていたように記憶している(そもそもあまり人としゃべれないので、自分にとっては、だけど)それは関わったその子への興味や関心またはくだらない善意からではなく、都合のいい人間関係を構築してうまくいっている(ように見えた)他のクラスメートに腹が立ってのことだったのでないかなあ、と今はおもう。別に自分の周りの人間関係がうまくいっていなかったわけでもないが、なんらかの劣等感はずっと抱えていて、多分、それ。わたしの個人的で身勝手なやりきれなさを、話しかけたり一緒に帰ったり遠足の班になったりする、という一見なんでもない方法で、ある意味暴力的にぶつけていたかもしれない。
誰が何が悪かったのか、そう結論づけたい気持ちはいつだってあった。でも最近、もう良いも悪いもなんだっていい、というような気分にばかりなってしまう。自分の個人的な悩みについても動揺に。ただつらいかなしいという感情があって、それだけじゃだめなのかと思う。…が、それは逆も然りであるということで、つまり、冷静にならないといけない。
たしかに悪は存在しないかもしれない。でも、じゃあ、手を下したその人だけに背負わされる罪ってなんなのだろう。わたしは暇だから、そういうこともたまには考えたらいいのだ。少し考えればすぐにわかる、わたしは自分に非があってのことであっても怪我を負わされたら相手が悪いような気がする人間なんだった。変わらなければいけない。

2024-06-14

暇沼

 



 
なんとなく見返したくなった画像を探すため、前使っていた携帯のsdカードを開いてみる。たかだか3年そこら前の写真。先日、2年前の出来事をずっとむかしかのように話す人に、ぜんぜん最近ですよ、と言ったというのに、あまりにも懐かしい。
このクッキーは、必死にはたらいて、だめになったとき、せめてもと思ってそこで働くみんなに焼いたクッキーだ、とか(振り返ると、なんて図々しいやつなんだとおもいます)、ふつうに生きてたから、ふつうの携帯のカメラで撮った、ほんとになんでもない表情の猫とか、夜に散歩でみかけた小さいばらとか。そのときは忘れたくないと思って撮ったのに、結局それが見たくて見返すことはなく、今の今まで忘れていたことたち。猫はわたしのなかで、居たときよりも大きくなっている。亡くなってからどれくらい経ったかもうわからない。実家に帰って撫でられていた日が、ほんとうにずっと昔のことのような気がしていたのに、全然最近までそこに居たのだった。生前、わたしは今のような事態になるのをとても恐れていて、そうなったときわたしは狂うか死ぬとおもっていた。今日ものうのうと生きている。ぜんぜん違うことで気が狂うんじゃないかとおもったりして、うまく寝れなくなったり心臓が痛くなったりしている。
結局探していた画像はみつけられず、記憶の断片がまた呼び起こされ、気づけば見事に沼に嵌っていた。わたしがもっているひまは、沼に嵌るためのものじゃない。もっとちゃんとした立派なひまがいいのだ。沼に嵌るときは、やることリストに「・沼」を入れなければいけない。今日やること、あと10個。そうじき、梱包、黒丸、お返事etc..。

2024-06-07

たのもしい感情


残金がゼロに近づいていく日々。
お金がだいぶないとき、今の自分はなにか欠けているんでないかと取り憑かれたみたいにずっと考える。ここ数日もそう。「なにか」って、「お金」でしかないのに。なんなら生活できているなら「お金」だって大丈夫なのに、...。
自分の存在が不潔で不穏なような気がして、とにかく身を清めたくなる。こころの汚さが表面に出てるんではないかと怖くなる。とりあえず髪の毛とか切りたくなる。服もかばんもイヤリングも、みんな汚してしまったような気がして、新しいものが欲しくなる。しかし、そんな余裕はない。だからもやもやだけ残る。
でも、わかっている。いつも、金欠が終わると同時に何もほしくなくなるから。毎回、超足りていることを思い出している。
こころが汚かったら死ななければいけないのか。そんなこと思っていない、はず、というかそう思っていないとやってられないはず、なのに、その結果が物欲として目の前にあらわれ、はずかしい。
カバンのポケットからちいさな人形や小銭や飴がぽろぽろでてくるみたいに..、最近はよく、理屈ではわかっているのに太刀打ちできないことが、自分の身体から無限にでてくる。いくつかはあきらめられた。自分にとっての誠実さをもって、これからの選択を考えようと思った。自分にできることは、それしかない。
 
映画『悪は存在しない』 を観てから、どんな階段でも自信を持ってゆっくり降りることができるようになった。これまで、年に一回くらいは階段で転んで怪我をしてきたから。すごく混んでいる電車のホームでも、足元から目を離さないで、慎重に下る。今日新宿駅でそうっと降りているとき、目が回ってぐるぐるしていた視界が、一瞬だけクリアになった。


デヴィット・ボウイの歌声は、人身事故が起きた駅を通りすぎるときでも、うつうつとして寝付けない夜でも、自分の欠陥を責めているときでも、いつもきらきらとしていた。不意に「愛してるぞー!!」と叫びたくなる。デヴィット・ボウイはスターとしてそこにいて、だから安心してそう思える。めずらしくたのもしい感情を持つ。それはとても幸せなことだと気づいた。ミーハーに無責任に、叫びたい!自分に対するいろいろな感情も、むしろたのもしく育ってくれたらいいのかもしれない。それでやっと闘えるかも。

2024-05-31

巨大ナメクジと花 / だいじょうぶな人

 



 
トイレスタンプというものをはじめて買って、トイレにスタンプしていた。
ジェルが消えた頃にはスタンプ方法を完全に忘れており、勘でやったら巨大ナメクジみたいにスタンプされてしまった。それに、3日で消滅した。どうやらスタンプの蓋の存在に気づかず、蓋をしたまま全力でスタンプを試みた結果、その隙間から巨大ナメクジの姿となってあらわれたようだった。
さっき落ちついて箱の裏を読みながらスタンプしたら、こんどはちゃんと、花が咲いた。モニュッ…と咲いた。



去年の冬、室内で育てていた多肉植物を植え替えたら枯れてしまった。そもそも光が足りなくて、軟弱に育ってしまっていたようだった。植え替え後は絶望的な姿(もうおわりだよ…)をしていて茎もわたしの心も折れたが、ヤフー知恵袋を信じ、春がくるまで室内のいちばん光のあたる場所に置いておいたら、気根(きこん)が伸びてきた。冬は水をやるとよくないとのことだったので、心を鬼にして放置。一筋の希望のようだった気根は、気持ち悪いよってくらい何本も伸びてきた。
春がきてからは屋外に出し、時々水をやって、基本放置。思い出さないと忘れるくらい、ふつうの存在になってくる。一ヶ月ほど経ったころ、完全復活をとげていた。
 
今日、洗濯物をしていて久々に多肉植物のことを思い出し、まじまじ見つめてみると前にも増してたくましい茎、気根もムキムキになっている。完全に終わったと思っていた鉢には新芽(?)まで。
直射日光は与えすぎてはいけないという文言をどこかで読んで、それに過剰反応してしまって大事に屋内で育ててきた去年とは比較にならぬほど、生き生きと育っている。土から生える植物は強い。図太い。安心する。

その姿は自分の心のようでもあった。(もうおわりだよ…)状態のとき、わたしは全然おわってなんかいなかった。立ち方をいつも忘れてしまうだけで。いつも、たしかに心から気根を伸ばしてまた立ち上がってきたではないか。

2024-05-30

枯れるのを待つ花みたいに

 

昨晩はすごく楽しかったし疲れて眠いのに、布団に入ると不安が次から次へと浮かんでくる夜だった。相変わらず紛らすことしかできない。
 
最近なんでか耳に残って繰り返し聴くようになった曲を深夜にまた聴き返す。こういうとき、音楽を聴くのがよいとどこかで読んだ。
『Starman』
デヴィット・ボウイの声、瞳、表情、身体。怖い顔をしてる。不穏だった。でもなぜか何回も聴いてしまう。泣きそうになる。好きなのかもしれない。わからない言語、ききとれない言葉のまま、無垢で素直な心で聴いてたいとおもうほど大切だ。
彼が生でうたっているところをみてみたかったけれど、今生きていなくてよかったとも思う。生きていることは眩しすぎる。わたしは多分、死んでからやっと出会える景色がある。自分も誰かにとってはきっとそう。あなたに出会い直すために死ぬのを待っていると思えばそれは案外、もはや今より嬉しいことかもしれない。

2024-05-29

窓辺の肖像 ◌ 展示の記録

 

 
きのうで、個展「窓辺の肖像」がおわりました。
会期は5/18-27でしたが、日数は7日なので、あっというまでした。
前の展覧会とはがらっと空気が変わり、澄んでいるような、清々しいような、5月の初夏の気持ちのよい外の空気みたいな空間になったようにおもいます。意図せずぴったりな季節に開催できて、うれしいです。
 
以下は、みなさまへの感謝の気持ちと発見の記録です。追記(Read more >>)に、展示の記録写真を載せています。よろしければご覧ください。
(パソコンが古くてホームページが編集できなくなったため、こちらに載せています)


ノストスブックスさんはアート・ブック中心の本屋さんで、年代/性別/画材、問わず、とにかくいろんなかっこいい絵が収録された本やかっこいい本、美しい本、がたくさん売っています。知識が乏しい自分はそれぞれの本の稀少さや作家の偉大さに気づかないままなげやりに眺めることができ、この絵は好き、こっちはなんも興味がない、とか、これは絵より造本が気になるとか、ていうかこれなんの紙使ってるんだろう、とか想いを巡らせたりして、時々楽しませていただいていました。
そんな、サンドバックにもできちゃうくらい強固な、またちょっと泣きそうになるくらい膨大な、芸術の歴史がぎゅっとした場所で絵を飾らせてもらうのはどんなふうになるだろう、と始まる前から興味深かった(言葉を変えれば不安でたまらなかった)のですが、こんなふうになるとは、よかったです。いい意味で存在感がなくて、いや、存在感がないというより透明に在る感じ..幽霊感がありました。そう思ったのは自分だけかもしれませんが。
最近の展示は毎回お葬式みたいだと思っていましたが、なんと今回それがありませんでした。幽霊なのに。幽霊だから?ふしぎです。
全部の時間がそこにあるような感じもしました。絵は、額のおかげもあって本物の窓のようだったし、本物の窓も大きかったし、風通しがよかったからかもしれません。
 
 
 
うすぐらいところへ隠れがちな自分にとっては、ひらけたこの場所は外のように明るくからっとしていて、在廊していたときはいつも以上にもじもじしてしまったかもしれません。相変わらずどのように立ちふるまったらよいか分からず、じっくり観てくださった方に挨拶もできぬまま帰られてしまい、その後ろ姿をみて(ありがとうございます..)とつぶやくばかりでした。すみません。
絵は自分のために描こうと決めて(断言するようなことじゃないけど、それだけはゆるがないようにしたいです)、だから人がわたしの絵を見て楽しんでくれるか分からなかったのですが、観てくれた方が感想を伝えてくれたり(対面でも芳名帳での感想コーナーでも)長い時間観てくださる方がいて、安心します。
どのように社会と共存するかを自分なりにずっと考えていますが、これでいいのかもしれないと思わせてくれました。..というより、いつも少しずつ忘れて、忘れたころに展示をやって、みなさんに思い出させられているんですね。多分、これでいいんだった。
ほんとうに、感謝しています。
 
 
 
今回も、額を古道具・背骨さんにお願いしています。
1枚1枚絵を見て、デザインや素材を考え製作してくれました。一緒にノストスブックスさんへ赴き、その空間や質感も考慮してくださいました。こんなに楽しいことがあるでしょうか。
巨大ポスターはノストスブックスさんとデザイナーの浦川さんが作ってくれて、それもこの展示を象徴する、かさっ!ざざっ!とした、軽い質感を持っています。
絵がほんとに完成したとき、描き手も一緒になって鑑賞することができるのかもしれない、と思いました。弔いのようでもありますが、灯籠流しみたいに、すっきりした思い出です。

 
 
ノストスブックスさんのウェブショップでは、6/3まで未売却の絵を販売してくださっています。ポスターや花の本も出品してくださっています。
よかったらのぞいてみてください。写真がすごくきれいです..
こちらをクリック→

つぎは夏にちょっとした花の絵の展示を、夏のおわりごろに日々の絵の展示をさせていただく予定です。不安多いですがなるべく負けずにせっせと自己探求しつつ生きていきます。
読んでいただきありがとうございました。
以下、展示の記録写真です。
 
 
 

2024-05-25

Check it up、Funk it up

 

 
去年の今ごろに「絵・日々・言葉・生活」という本を作った。
最近の日常は「生活(お掃除、ごはん、絵、税金、懺悔、不安、暇、排泄)」。
絵は「生活」の一部である。もしかしたら「暇」とか「排泄」とか「懺悔」?と同一かもしれないが、とにかくそれは「生活」に属している。
 
これは重要な分類だ。
絵を「生活」でなくて「絵」としてやろうと思うと、動けなくなる。意志は、石のように、どんと居座る。動いてやらんと言う。全体の生活が崩れていく。すぐにわたしは泥になる。
 
さっき掃除機をかけながら、(描かなきゃ)と焦っていたとき、なにも描けない気がした。そりゃそう。きのう目の上に蕁麻疹が出た。普段はこれを薬でおさえてもらっている。ちょうど薬が切れた時間だった。これが痒くなくて、腫れなくて、おさえる必要のない症状だったら。絵はそんなようなもの。
 
↑ 写真二枚目。自家製クリームチーズを最後に贅沢につかったときの。チーズとお砂糖と卵を混ぜ、パンの上にのせて焼くだけ。うるうるするほどおいしかった。
 
↓最近の掃除のときのバック・ミュージック!