2022-12-28

最後の息


 



①…また久しぶりになってしまった、自宅にただいま。大屋さんがサンタさんになって自宅のドアノブにお菓子をさげてくれていた。
②…祖父の命日、実家の押入れに座る二匹の謎の生物と目が合う。ニヒルな笑いとはこんな感じだろうか。小さい私に作ってくれた手製の人形。
③…なんて素敵なクリスマスプレゼント!手紙とともに頂いた絵。何度も読み返して、何度も眺める。

「ブランコ」読み終わって数日。大切な漫画になったが、好きな漫画を読み終わった時のような喪失感が一切無く、これは何なんだろうと不思議な心地でいる。感情移入を越えて実体験みたいな出来事の数々にヒーヒーしながら読んだ。
新しい価値観が生まれた訳でもなく、悩みを解消してくれた訳でもなく。この物語から私に与えられたものは、多分ない。寧ろ、持ってた希望を全部奪われたようだった。そしてこの物語の結末は、私の人生の結末のようだと思えてならならなかった。

(穏やかに暮らしたり、理想の人になる事も、誰かのためになる事も出来なかった。知りたかった事は何も解明できなかった。伝えたかった事だって、ほとんど伝えられなかった。何者にもなれず、私は、何もできずにとうとう人生の果てに来てしまいました。)
未来の私は自分の人生を言い訳だけで語ってる。
そんな未来の姿を知ってしまったら、自分は狂うと思っていた。(これは妄想の世界だけど、)実際は真逆で、かつて無いほどに安心させられたのだった。

私に必要なものは、様々なものに対しての諦めだった。
諦めてからやっと、いろんな事が見えてきた。視界が狭くなった変わりにくっきりと見えるようになった。ぼやけた部分を空想で補う必要がなくなった。
何もできないし、自分の事は出来るだけ信じないつもりだが、未来に抗いたいという気持ちだけを頼りにしてやっていこう。それでいいのだ。それしか無かったんだ。
…という気持ち。

すさまじく抽象的な話ばかりで、一体私は何と戦っているのかと思われるでしょうが、私はいつも日常と戦っています。日々を暮らす中で発生する、しょうもない選択問題や物事の捉え方にいつも頭を抱えているのです。
絵を描くと色々な事を解決させられた気分になる事があり、自分が私が絵を描いている訳ではなく、描かされているのかもしれない、と思います。

今年は皆さんの影や気配に励まされて踏ん張れた気がします。
敢えて、その事についての感謝の気持ちは述べない事にしてみます。

でも、このブログを読んでくれて、ありがとうございます。
…それだけは言わせてほしかった。
 
 


みなさん、よいお年を。
よい夜と、よい夢を。

2022-12-26

散歩をしましょう



今日はKさんと、川原を散歩しながら長電話。
雲が全然ない眩しい晴天。枯れた紫陽花の枝の上にたくさんの雀がとまってた。風が強くて、目の前をいろんな鳥がバサバサ飛ぶ。あんまり気持ち良さそうに飛ぶので、私も飛びたいと思った。実際、タケコプター渡されても怖くて使わない気がするが。
Kさんの作った紙媒体の2号が面白かった。本文面には短編小説が書かれてて、裏面には読み終わったら紙飛行機にして飛ばしてね、と書いてある。私にはそんな清々しいこと出来ない。
もうすぐ引っ越す予定だが、引っ越し先は家どころか地域も決まっていないので気になる土地をひたすら歩いてみようかと思っている、と聞く。
私はそんなKさんの事を異星人のように思った。だいぶ離れている。簡単に壊れてしまう関係のような気もする。惹かれるのは何故だろうな。
彼女が心の窓からのぞむ景色は、どんなんだろう。新幹線の窓みたいに、目まぐるしく変わる中生活してるのかな。それとも、そもそも室内じゃないとこで暮らしてて窓とか無かったりするかな。なんて。

人と散歩をするのはなんて贅沢なことだろう。交わりなんてなくたって、もう私は満ちているのに。人生の醍醐味か。
これまで一緒に散歩した人たちを思い出すと、頭のなかで景色や温度、そしてそのときの会話が吹き出しのなかで再生されて描かれる。あなたの事がこんなにも分からなくて淋しい。でも一緒に歩けたのが嬉しい。
会話には、キャッチボールも論破も助言も本当は必要ないんだろうな。気持ちだけ。

2022-12-22

みらいさん

 



 家族みんな私のような人だと勘違いしていた。だから猫の命懸けの手術が決まった時同じくらい心配だった。
しかし手術中に家で待機しているとき、嘆くのは私だけだった。家族は案外、全然、たくましかった。なんなら猫もそうであるように思われた。
自分が救われる事しか考えられないところが嫌だ。優しいって何だろう、可哀想ってどんなことだろうと繰り返し考える。痛いのは可哀想だ、だから代わりたい。でも寿命が来る事って可哀想な事なのか。体が朽ちて何処かへ帰る事を阻止するのって、本当の優しさなのか。死って、痛いのか。わからない。わからない。
…いやでも、本当はもうわかってるんだろう。わかってるのを認めたくないんだろうなあ。
 
弱いのは(弱く見せる事なんかで助からないくせに助かろうとすがっているのは)私だけだった。 家を出て四年くらい。家族の印象は何度も変わった。ひどく脆いように思っていた。幻想だったのかもしれない。
ただひたすらに、私の事を考えなければいけなかった。他人への無意味な心配をする事で、自分とちゃんと向き合う事から上手く逃げていた。優しい人になりたいなら、まずはそれをするべきだった。私が私として立って歩く事って、それは誰かにとっての「優しさ」である。誰かを抱擁したり、待つよりも。私は、そう思う。今は。
 
冬の雨の日は寒く暗い。朝(※昼)風呂浴びて出て来たら日が射していて嬉しい。花を描こうと思って、さっきまでつけてた暖房を消した。日も沈むし、花も枯れるから、早く描くべきだが、焦らない事にした。こうして文章を作ることも、確かに自分に必要な作業である。絵と向き合う時間よりも大切な時間が、絵具を重ねるよりも大切な事がある。それは花の事を考えたり共に暮らすことや時間。こう思えるようになったのは、自分にとっては大きな変化。
さっき少し「ブランコ」を読んでいて、「みらい」さんからの手紙が届くシーンがあった。私のブログって「みらい」さんになれるとどこかで信じてやってるのかな、と思った。まだ三巻。
 
 
外は完全に晴れて来た。雨上がって綺麗な天気。
花が意味わからんくらい綺麗。ほおずりしてみた。
繊細そうで、さわったらくずれてしまいそうなはなびらは、案外厚みと弾力があり、儚げなんて言葉はふっとばされた。思ったより強い。こんなこと前も思ったような。しかし触れないと分からない事ばかりある。私以外私じゃないの〜って歌、あった。それだ。(それか?)私はいらぬ心配ばかりしている。滑稽で、私はギャグ漫画みたいな人生だと思う。
 
働いてる本屋さんで夜中に酔っぱらいが尋ねて来た日、もっと夜更けに酔っぱらった人から着信があった。その時話した事、なんかすごく良かったんだけどあんまり覚えていない。
昨日はこれまたなんかすごく良い手紙を受け取った。
どっちについても何が良かったかってうまく言葉に出来ないけれど、言葉にしない方が良い事かも知れん。言葉という形にならずとも、伝えたい事はいつか勝手に出てくるだろうから。


先日の夢。
実家の猫が、他の動物に変化して私の腕から逃げたくて暴れていた。色々な動物に変化したのち、湖に飛び込んでしまった。湖の中に入って探して見つからなかった。とても怖くて悲しい夢だった。

今日の夢。
大学生になって、誰ひとり友達がいない。映画サークルに入ったら、疎外感が半端なくひたすらに居心地悪い。文化祭、映画サークルの場所が分からずウロウロ。人ごみがホントにつらい。電話で退部すると伝えようとするが、仲良くない故誰の連絡先も分からず。いやな夢だった。
夢でよかった。今日も。 

2022-12-11

ここは美しい星


今このタイミングで「ブランコ」に出会ったのも、なんとなく入った本屋でウィスット・ポンニミットの来年度のカレンダーを勢いで買ってしまったのも、切実に私に必要な成分が含まれているからかもしれない。
涙が目から溢れそうになるのも鼻水が垂れてくるのもアレルギーだからだと思うことにした。自分をそんなに弱い、弱いと思ってたって何も成れない。
電車で、失うことを想像していた。自分の体の真ん中にゴッソリ大きな穴が空いている。こんなに広い世界なのに、探しものはどこにもなかった。想像、というか妄想の中で私はわかった。探し物…体のくりぬかれた部分は、毎日帰る家のなか、埃の被ったタンスの一番下の方にしまってあったんだった。居ても居なくても私はずっと私の形をしているのだった。ずっとあったものが、「淋しさ」に変わるだけ。

優しさについて考えている、ずっと考えている。「ブランコ」は、まだ少ししか読めていないけれどやさしい。
猫の1年と人間の1年は全然違うという話を聞いてクラッと来た。同い年くらいに思ってた猫は人間の年齢にするともう70代であった。私が死ぬまで生きてほしい、というのはやさしさからかけ離れている。
時間の流れる速度が私と猫と全然違っていたんだなと今さら気づいて、ああ、となる。
「やさしさ」「愛する」「祈り」。
猫の手術が終わって無事だったとメールが届いて、嬉し涙が出た。きっと、この涙は本物だ。偽物、本物と振り分けるのは好きではないけど、もう言い切りたいほどにそう思った。これからの人生、私はこういう涙だけ流して生きたい。恐怖から逃避するだけの日々をやめて、私の思うやさしい人になりたい。なにかを愛せる人になりたい。失ったときの淋しさは、愛の裏返しなんだから。私が欠けることなんて無いのだ、祈るべきは私事なんかじゃなくて、対象の幸せ。宇宙でたったひとつのルールが適応される。


2022-12-09

夢の記録 2022-12-09


夢の記録。
角の丸い三角形の雲が浮かぶ秋晴れの日、自転車を押して歩いていた。目的地は何かの祭りをやってる高架下。小学生の時の同級生・少しヒステリックな側面を持つミナミちゃんと待ち合わせていた。ミナミちゃんは徒歩だったから、私は二台持っていた自転車を貸してあげて、二人で自転車を押しながらえらく長い高架下を歩いた。ふと見上げると、空がおかしなことになっていた。壊れかけた機械のように空の水色が急に真っ白になったり、雲がすごい勢いで上がったり下がったりしていた。空がそんなことになってるよとミナミちゃんは教えてくれた。私はいつも、夢の中の空が不穏だと物凄く不安になる。今回も、もうじき地球は滅亡するんじゃないかと感じられた。怖かった。だから早足で高架下に向かった。祭りは人で溢れていて、道路は自転車で埋め尽くされていた。駐輪場は当たり前のように満員だったから、ふたりで道路に停めた。
高架下はとても長かった。私はカメラをさげて、ふたりで高架下のはじっこを目指して歩いた。はじめはただの高架下だった。ゴムの道(ゴムでできたみたいな道の事をこう呼んでます)、コンクリートの道を経て、急に地下の駅のホームになった。そこが一番混雑している場所だった。人混みが嫌で走って進むと狭い廊下に温泉街があった。そこも通り抜けると急に列車の一番はじっこの車両にいた。そこから見える夕暮れの景色が美しくて、シャッターを切った。まばたきするごとに変わる車窓の景色。涙出そうになるくらい綺麗な夕暮れ。ずっと見ていたかった。地球が終わるときの夕暮れだから綺麗なんだろうな、と思った。ミナミちゃんはそろそろ帰ろう、と言う。わかった、と返して来た道を戻る。この人混みの中、殺人事件があったみたい。駅のホームでたくさんの警察がバタバタしている。犯人が見つからないとの事。殺される前に帰らねば、と私たちは急いで高架下を抜ける。さっき停めた場所に自転車がなくなっていた。誰かが駐輪場に移動してくれたのかもと思って、暮れかけて少し暗い中で自転車を探す。向かいに自転車を回収する警察たちのオフィスがあった。ああ 
、違法駐車していた自転車はみんな回収されてしまっていたのかと納得。警察署は自転車の違法駐車の対応に加え、殺人事件の発生で建物外からでも混沌としているのが分かった。警察の何人かが窓から飛び降りて死のうとしていた。多分おかしな空も関係しているのだと思う。なんか気が狂いそうな天気をしてる。怖くてバスで帰ることにした。バスの窓はガラスが全部割れていて、通りがかりの知らぬ人みんなに声をかけられる。つぶれたおにぎりが余ったから貰いませんかと話しかけて黙っていた。怖くてしかたがなかった。ああ、明日と明後日は予定があるのにいつ自転車をとりにいこうかなと考えたところで、起きた。

高校生の時のある朝に、満員電車で怒鳴り声が聞こえた。その声はミナミちゃんだった。小学生の頃とあまり変わらずかわいい顔のミナミちゃんだった。私はその時、なんだかとっても心配になってしまった。
ごめんね、って思ってる。
理由はわからない。
あれから一度も見ていない。
元気だといいな。

2022-12-07

太陽と月


実家の猫の検査結果が悪く、数値がこのまま変わらなければ手術だというメールが母から届く。その日から息するたびに喉にボールが入ってるみたいな違和感がある。
心配で、体がうまく動けなくなる事もある。情けない。死ぬことが怖い。大切な人や大好きな猫が、私が今生きてるこの世から居なくなってしまうことが怖い。なんて強欲なんだろう。自分だけ大丈夫になるように、最悪の事態を妄想して耐性をつけようとしている。悪夢で何度も皆が死んだ。起きて夢でよかったと安心して、結局耐性なんかつけられない。怖いことから、逃げれない。だれかの痛みに寄り添うこと、当然のように出来ない。
その日見た夢では、私は大好きな猫を抱いて町へ繰り出していた。そのまま電車にのった。だっこされるのが嫌いだから、何度も腕から逃げようとされた。私は絶対離すまいと、強く抱いて移動していた。

この前聞いていたラジオで高山なおみさんが語っていた死生観が、こうしてダメになっているとき度々頭によぎる。穏やかに澄んだ声で大切に言葉が紡がれた。ひどく安直に、私もああなりたい、と思った。死ぬことや老いることが悪いことだとは限らないという事。美しいことかもしれないということ。忘れること、失うことは、もしかしたら本当はネガティヴな事ではないのかもしれないと、一瞬だけだけど感じられて、その時本当に、本当に救われた。
私が今、こんな絵を描くのは今世に未練がたくさんたくさんあるからかもしれない。こんな絵というのは、自分さえも救えないような絵の事である。最近ひどく実感する。社会のためだとか鑑賞者のためだとか思い込みながら描いている時があるけれど、実際のところその時の自分の為だけにできた絵のような気がする。その時の自分はもう二度といないから、確認して安心するためだけに生まれてるかもしれない。
私から嘘を全部取っ払ったら泥だけが残る。私から発せられる綺麗なものは所詮すべて綺麗事だ。悔しい。憎らしい。

いや、いやいや、こんなことを吐き出したけれど、全然まだ堕落してない。するつもりない。綺麗な人になりたいとずっと思ってたい。変わりたいと思い続ける。猫だって、何があっても大丈夫だと、思ってる。
最近事あるごとに、誰か助けてくれと思ってしまう自分がよわっちくてとても嫌だ。日が暮れると悲しくなってくるのも嫌だ。最近すごく弱くなって嫌だ。直したい。

2022-12-03

覆われた窓



ドリップバックからしたたるコーヒーの粒をみていた。
コーヒーの水滴が、落下する時には丸くなり、消える。その繰り返し。表面張力の威力はとんでもないものだっていつか聞いたが、生まれてから消えるまでのその早さが、なんか呆気なく思って笑えた。
新しい絵を描こうと思って、ブロックタイプのスケッチブックから昼出来た絵を破れないように慎重に剥がした。剥がしている時、急にその絵を憎らしく思い、破りたい気持ちになった。さっきまで惚れ惚れしていた絵である。なんというか、ここで本当に絵をビリビリに破いたら、ちょっと狂人っぽいというか、これをやってしまったら私はダメになるんじゃないかと思い、破りたい、と思うだけに留め、ファイルにおさめた。いつも絵が完成すると、突き放されたような気持ちになる。なんだか今日はいつもよりもとても淋しく、くたびれた。
空想の窓辺から望めた山や美しい夕暮れは草に覆い隠されて何も見えない。
 
それから、描けないまま暮れた。
あんまりな一日だったから、こうして文章を書いてみた。空っぽさに驚いた。
 
優しさについて話した。
Yさんという、とても優しい人のトークショーの録画映像を見ていた。優しさとは何なのかなんて、もう、もう本当に分からない。言葉にもしない方がいいような気がする。しかし自分は優しさとはほど遠い人間だということは、確か。ただ歩くだけで色々なものを傷つけているような気がする。それを自覚しても全然やめる事が出来ない。
私のする事は全て、私の為にしかならない。祈る事しか出来ない。良い人になりたいとも最近は思わなくなった。