さみしさはたからもの
愛しさ、愚かさ、美しさ
もう、小説以外の文章は、なんにも書くまいと覚悟したのだが、或る夜、まて、と考えた。それじゃあんまり立派すぎる。みんなと歩調を合せるためにも、私はわざと踏みはずし、助平ごころをかき起してみせたり、おかしくもないことに笑い崩れてみせたりしていなければいけないのだ。制約というものがある。苦しいけれども、やはり、人らしく書きつづけて行くのがほんとうであろうと思った。
そう思い直して筆を執ったのであるが、さて、作家たるもの、このような感想文は、それこそチョッキのボタンを二つ三つ掛けている間に、まとめてしまうべきであって、あんまり永い時間、こだわらぬことだ。感想文など、書こうと思えば、どんなにでも面白く、また、あとからあとから、いくらでも書けるもので、そんなに重宝なものでない。さきごろ、モンテエニュの随想録を読み、まことにつまらない思いをした。なるほど集。日本の講談のにおいを嗅いだのは、私だけであろうか。モンテエニュ
6月/体をもたないともだち/価値をつけること
今日は絵もうまくいかず身体も瞼も重くぼんやりとしている内に暮れてた。
少し前まで油絵を描いていて、すごく楽しかった。けれども今は生活を優先しようと決めて、油絵や油絵の具をざっと片付けた。生活している部屋の半分以上が乾かない未完成の絵に占領されていたから、とてもさっぱりした。ひたすら乾かない油絵の具と対照的な、水彩絵の具を使い始めた。近所の文房具屋で買ってきた子供用のもの。パッケージが良くて選んだが、案外今の自分にとても合った、というか求めていた軽さを持った画材であった。油は沼のようだった。水の軽さに感動してしまう。
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自分は昔からずっと、インターネットが好きだった。肉体や性別や思想や過去、そういうものを全部消して対話することが出来うる所が好きだ。体をもたない友達でいられる所も好きだ。
しかし最近、インターネットに対する思いが揺らいできた。情報が多すぎて、人が多すぎて。そして人々の解像度が局地的にとても高くて、なんかもう体を持ってるみたいに見える。なんか全部、都合がいい気がする。秘密は好きだけどそうじゃなくて。生きたい世界は誰かを踏んづけて作るのは違う気がする。病名も性別もどうだっていい。みんな不健康で健康だというのに、存在する事に〈よい〉〈悪い〉などそもそもないというのに。なんて。
少し前のインターネットに思いを馳せてしまう。「ロウガイ」かなあ…。
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先日、ご縁で蚤の市のお手伝いをさせてもらった。その店では、拾って来た石も販売している。それぞれ丁寧に値札がつけられている。たくさんの人がその石をうれしそうに買っていった。その景色がすばらしく面白かった。価値をつけるという行為はまじないのような、魔法のような。良い意味で本当に馬鹿馬鹿しくて、その馬鹿馬鹿しさが最高である。いや、このお店で売られる石は欲しくなる良い石ばかりであったけれども。そうであっても、店って面白いなあ、としみじみ思った。店番中、談笑したりしつつ、価値についてしばらく考えていた。