2022-11-30

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2022-11-28

祈りと呪い

 


今日は、身体が重い。曇りだからかもしれない。起きてホットケーキを焼いた。
ときどき、楽しみに読んでいるブログのひとつ。高山なおみさんの「ふくう食堂」の中の日記「日々ごはん」の最新記事で綴られた文章を読んでいて、心がゆらゆら動いた。
 
「日々ごはんは、私が生きていくために書いている。ウソを書いているわけではないけれど、私が生きたい世界を書いている。だから、自分のためで、読者のみなさんのために書いているわけではないんです」
そこまでは言えたのだけど、今朝ベッドのなかで思っていたのは、その続きの言い足りなかったこと。
(それでも、私が生きるために書いたそんな日記を、どうして書き続けられたかというと、読者の方たちが待ち望んでくださったから。そして、長い間読み続けてくださった。そのおかげで、アノニマのスタッフと力を合わせ、20年も本作りを続けることができた)
それが今朝、ようやく言葉になった。

(2022年11月20日の記事より、引用)
 
「日々ごはん」には、私の大好きな絵描きや、もう会えないかもしれない、大好きな友達が時々登場する。私はそれを見る度に、安心する。ずっとずっと、元気でいて欲しい。
(好きな人たちが、好きな人のえがく生きたい世界の中で輝かしく生きている事が、もっともうれしい)
 
先日、絵は描くけれどもう実名で世に出す事をしなくなった友達が、みんなどういう気持ちで絵を世に出すのだろうか、どうして人に絵を見せられるのか、と言っていた。
それに対して私は精一杯答えを伝えたけれど、うまく言葉にならないし結局よく分からなかった。それは承認欲求ではないか、とも言われたが、合っているような違うような。いや違うと思いたい、などと思う浅はかな私。
確かに、絵を描くのは高山さんと同じように、自分の為である。絵を贈るのも、自分の為である。自分の為ならなぜ、リスクを伴ってでも世に出すのだろう。わからない。わからないな、という思いが、それからずっと頭の片隅に居る。だからこの言葉は、今の自分にとって鍵の一部のようなものだった。

家の中、ひとり、友達のような恋人のような絵と向き合って制作をするが、完成した時には、友達はただの絵になっていて。抜け殻をそばに置いていても、虚しいだけだから。抜け出た魂は、もう窓から外へ、はばたいている。届くべき人のもとへ、バサバサと飛んでいるような気がする。私は、それを追いかけるようにして、自分も絵も傷つかないように、なるべく穏やかで良い波を持つ海辺から、そっと絵を流すように…祈りを込めて流すように、世に送り出したいと思うのだ。

そんな「日々ごはん」を読み終わってからは、北村太郎さんの事を書いたエッセイ「珈琲とエクレアと詩人」を読んでいた。有名な作品を世に放ってきた詩人や絵描きというのは、どうしても作品だけを観てしまい、その向こうに人間が居るという事を忘れてしまう。私もいつか忘れられる時が来るのだろうか。(それは本望なような、少し淋しいような) 先日、北村太郎さんの親族の方々に連絡する事があり、親族の方々は本当に親切に対応してくださった。
その時に感じた、詩人ではなく父親としての北村太郎という人間の気配。そして今回、この本の著者の知り合いである、人間としての北村太郎の生々しい匂い。詩を読むところからの想像する、詩人である北村太郎の像。それぞれからゆっくりと掘り進められ、ひとつの巨大な人間になってきたように思う。続きはまた明日、読む。

それから、昼過ぎ。いてもたってもいられなくなり、暫く連絡を取ってもいない知り合いに、急に絵を贈る事にした。
その人の近況を見て、少し涙が出た。絵を贈る他ない、なんて思ったのだった。それは同情でもなんでもなくて、むしろ暴力であると自覚している。それでも一筋の祈りのようなものを信じなければ、私の体が落ち着けなかった。
ひとつの紙から出来た8枚の小さな絵のうちの1つを、急いで梱包して発送した。ネットショップで販売しているこの絵たちは、結局1枚も売れていない。当初、制作費があまりにも足りないことから絵の販売を始めたので、その試みは失敗している。でも、不思議なことにこの絵を描いてから、〈この絵を贈りたい〉という人が何人か目の前に現れて、もう残りは僅かになった。だからこの絵を描いて、高い値段をつけて売り出したことに後悔は無い。

郵便局から家に帰って、温かいコーヒーを飲んだ。この時期の家の中のあたたかさは、どうしてかすごく安心できて、幸福を感じる。
1枚の絵とさよならした後は、不思議な気持ちになる。私はあたたかいが、絵はこれから寒い思いをするだろう。それでも大丈夫な気がするのだった。
この絵の行く先が、送った人の部屋でも、ゴミ箱でも、もう私たちは報われすぎている。祈りが祈りのまま、届きますように。

2022-11-26

水中カメラ


 
久しぶりに工藤さんの歌を聴いてきた。聴いていてこんなに淋しくなる音楽を他に知らない。とても良かった。しばらく落ち込む。最近工藤さんのライブに行った後は、いつもこうなる。昨日はちょっと寝付きが悪かった。夜は寝た方が良いなあ。
 
上の絵は、「水中カメラ」を聴いた時に思い浮かぶ景色。やっと描けた。初めて聴いた時から好きで、きっとこれからも好きな曲。皆さんも是非。
 



2022-11-22

風が吹けば未来が笑う

 


みんな本当は、自分で時間の速度を決める事も、自分で時間を作り出す事が出来るかもしれない、なんて考えた。 
漫画を描いている。パソコンで絵を描くのなんていつぶりだろうか。すぐに目が疲れてしまい、あまり捗らず。
最近、フィッシュマンズの「My Life」がちょっと恥ずかしいくらい響く。
音楽ってすごいなあとしみじみ思う。響いてるのは詩だけではなくて、演奏も声も、全部。
バンドって凄いよ。
私も出来る事ならバンドとかやってみたいな。集団恐怖症には無理かも知れんけど。
先日、Kさんと大きな公園を歩いたり止まったりして話した夜の事、毎晩思い出してる。
「嘘のない文章を書いてみてください」と話した記憶。淡々と述べるように、今日の事を。
今日も元気で過ごしました。
もう少し作業を頑張る。

2022-11-21

ひとり部屋のなか





 
朝起きたら雨が降っていて部屋が暗かった。
毎日気分が天気に引っ張られるので、明るいふりしてコーヒーとトーストで朝食をすます。
昼になって、急に晴れてきた。晴れたので外に出たい。本の注文が2件あったので、その発送と、用事と、散歩のため、西荻窪へ。
雨上がりの街はうるうる、きらきらしていて美しい。鳥の声とかも聴こえる。数週間ぶりくらいに西荻窪の自宅に戻ると(最近は知人宅に転がり込んでいました)、ポストには嬉しいお手紙と贈り物でいっぱいだった。手紙は東北から、大好きな本屋さん。贈り物は北海道から、大好きなふたり。母からの仕送りのような贈り物のなかに、お二人からそれぞれ、文字のつまった手紙が入っていた。
そういえばこの三人へは、描いた絵をそれぞれ別のタイミングで贈った事があった。
私が大切な人たちへ送ったもの、もう自分ではあまり覚えていなかったから、今日の手紙で思い出した。私が押し付けたものを大切に持っていてくれた事、その時、救われたと教えてくれること。自分勝手な祈りを暴力的に押し付けて、責められたっておかしくないというのに、お返しだと言ってこんなに愛を頂いてしまった。ちょっと泣きそうになります。

うずくまったり、転んだり、嘆いたり、社会から取り残されて眠れなかったりしながらも、なんとか一人で立つ、或いは立とうとする事が今の自分にとって重要である。
人と関わる時には、そこに手を差し伸べるでもなく、助ける事もせず。互いに、心配したり、感動したり、励まされたり報われたりする、という関わりが出来る事に、感謝してもしきれない。誰にだろう、分からない。
そんな幸せな今が続く事を、心から祈る。

さて、今日はバリバリ作業を頑張ります。手紙をくれた皆さん、最近会ってくれた人たち、もし読んでくれていたらありがとうです。一生大好きです。

写真の三枚目は、お店番をする事になった時に私の絵を好きだという女の子がわざわざ来てくれて、漫画を貸してくれた時についていた小さなお手紙。「ダイヤ兄弟」というよくわからん私のオリジナルキャラクター(?)を描いてくれて嬉しい。私の描くよりも、ダイヤが豪華になってます。
今日読んだお手紙にも、ダイヤ兄弟がふたり、描かれてました。ニコニコします。

2022-11-20

散歩


三日前には大きな公園で、同い年の編集者、Kさんと。
昨日は多摩川の川辺で、数年ぶりに会うTさんと、長い間歩きながら喋った。
普段あまり人と会わないので、少し疲れた。でも楽しかった。
公園へ向かうバスの中では、久しぶりの人へ、長い手紙を書いた。
ここ数日、人の事を考えたり、人とよく、ふれあった。

私は人の眼にどういうふうに映っているのだろう。
特定の人を喜ばすことも、特定の人を貶すこともしたくない。個人的な事だけをしていきたい。誰の為にも生きず、ただただ自分の為に生きていかねば。そういう事を健全だと思っている。健全に生きていきたい。だからちょっと人と会うのが怖い。
Kさんが私に対して希望だと伝えてくれた。Kさんにはたくさんの友人が居るみたいだけど、なんかいつも一人っぽいところが安心する。私もずっと一人がいいな。群れは怖いな。
Tさんは、私と会える事が本当に嬉しいと伝えてくれた。

このごろ3、4年前の事をよく思い出している。最近人と会う時に映る景色はあのときの景色に似てる。あの時、よく人と会っていたな。
色々あったけれど、何にも変われてないような、ひどく変わってしまったような。
数年後に今日の事を思い返して、同じ事を考えるのだろうか。

2022-11-15

まんなかをゆく

 


今日は本やポストカードを取り扱っていただけるというお店、二店へ品物を発送したのち、家でLaB LIFeを聴きながら漫画を描いたり、内職したり。久しぶりに雨が降り、外の空気は冷たかった。家から郵便局までの短い道のりで冬を感じた。
うまく働けなかったり描けなかったりしても、こうして注文をいただいて生活が出来る事が本当にありがたいです。
本や絵の感想のメッセージも。家に一人でいるのに孤独ではないような感じ。
肌にふれる空気は寒いけれど心が温かく。ありがとうございます。
 
最近はというと、生活が少しずつ壊れてきている。毎日作っていた味噌汁もいつからか作らなくなり、ご飯も炊いていない。その場しのぎみたいな料理を、辛うじて作ったり。作らなかったり。調子のいいときと悪いときの境目にいる感じ。
いつでも悪くなれそうなので気をつける。こうしてブログを書いたりするのは自分にとって大切。こんな文章を読んで楽しんでくれている人は、ありがとう。
文章をたくさん書ける時は、いつもこんな感じのような気がする。きまって手紙も書きたくなる。淋しいのか不安なのか?自分でもよく分からない。
ようやく人より気分と調子のコントラストが激しいのだなと気付いてから、上に上に行っている時ほど下降すべし、下に下に行っている時ほど上昇すべし、を意識できるようになった。
こんな暗い気持ちの時には、明るい音楽を聴く。貧乏を忘れる。楽しい事だけ考える。死ぬ事を忘れる。悟ろうなどと思わない事。
制作はした方が良い。それによって人がどう感じるか、どうしてそれをやったか言語化する作業は、いくらでも跡付け出来るし、自分の範疇を越えている。自分が自分に出来る事は弱さを自覚する事だけである。目に見えるものをそのまま受け取る事が優しさである。何年も落ち込んだり上がったりを繰り返して来て分かってきた事。まだ研究途中。
良い音楽とか服とか、買ってしまいましょう。
 
先日は頂いた招待券で、片山健の絵を観に(二回目)吉祥寺美術館へ行った。最終日なので混雑していた。一回目観た時はとにかく圧倒されてため息しか出なかったが、二回目はようやく表面にある筆跡より奥の部分を観れた感じがする。絵本作家、漫画家、画家の境界線について考える。片山さんはきっと絵が大好きな人だよね。私もそう。絵が描けたら絵本でも漫画でも絵画でも何でも楽しい。絵本も漫画も絵画も全部繋がっているのに気付くのは、掘って、掘った先なんだろうな。とにかく強烈に絵が描きたくなる絵の数々だった。ゴッホとか、ルソーとか、色んな美術作家の自然な影響を感じた。違うかな。分からないけど。
「憧れ」って美しい感情だ。すばらしい感覚だ。そんな片山さんの絵に、私は多分生涯尊敬するだろう。静かに紡がれていく、語られない美術史を感じた。
AIは早く、片山健のすごい絵たちの力強さも吸いなさい、なんて思います。もっともっとすばらしい絵を見るのが楽しみ。

そうそう、ブログをちょっと模様替えしてみました。携帯から読みづらくなってるかもしれません、ごめんなさい。もっとラフな感じで、散らかした感じでノートみたいにやりたくて、こんな感じになりました。 どうでしょう。
 

2022-11-14


 
 
 
少し前になりますが、中野活版印刷さん発行の大きな本に、絵を3点つかっていただきました。
リソグラフ印刷、画像の絵は、朱と緑。
かっちょいいーです。

2022-11-10

空の穴


 

狩野岳朗さんの展覧会を見て、感じた事があったのでここに記しておく。
絵であり音楽であり生物であり風景であり、過去であり未来であり今である作品群だった。哲学的な探求の現時点での結果報告と、キャンバス上の美への探求の実験である事が兼ね備えて成立している。あの絵たちは1枚1枚、ただぼうっと山々を眺めるように心地よく鑑賞する事ができるのに、果てしなく虚しい自己探求の報告でもある。自己探求であるのに、自分では無い他者への研究でもある。閉じていく事と、開いていく事が同居している。
そこにあるのはキャンバスの上に絵具が置かれている物体であるのに、それはある時画家の視点から観る風景に変身し、ある時平面上のリズムに変身し、ある時天井から見た部屋に変身する。解き明かされて、アニメーションの様に絵が動き出すのが(というより幽体離脱したように自分が浮遊する感覚)面白い。
生涯の孤独な自己探求は、ならぶ美しい絵からは想像出来ないような虚しさとの葛藤があるだろうと想像してしまうが、その苦しみに見合う価値と成果を自分は感じられた。それが嬉しくて、ちょっと泣きそうになる。自己探求は内へ、内へ潜っていくけれど、内へ潜った先には全体の縮図が在ったりする。部屋にいるほど、町の中にいる様な。
 
グレー下地の絵から目線を動かすとキャンバス地そのまま残った白い絵が映る。清々しく、さっぱりとして、湿っぽさのない、心地よい朝の光を感じた。最近の私の夜はろくな事がない。寝付けないと、朝がくるまで不安で頭がいっぱいになる。だから夜はとにかくショートカットせねばならない。
無事夜を越えられた時の安心といったら、朝の喜びといったら。
その気持ちが普遍的なもの、きっと私だけのものではないということがなんか嬉しい。

前に狩野さんと立ち話をした時に、
「ずっと何もできないし、何もわからないです」というひどい相談をさせていただいた事があった。そのとき狩野さんは「この年になってもずっと同じ状況だよ」 と答え、私はただ頭が真っ暗になった。
しかし今思い出すとあのときより少し大丈夫な気がする。何層にも重なった黒を遠くから見れば圧倒されて太刀打ち出来ないよう感じるほか無いが、毎日訪れるひそやかな黒を毎日かわして進んでいけば、なんとかなるような。などと。
 
ちなみに画像は、狩野さんのワークショップを私ひとりが受講させていただいた時にできたもの。

2022-11-07

COM'ON ROCERS!





今日は朝からフィッシュマンズの映画を見つつ、漫画の本書きをしている。今は休憩。
しばらく本の事はお休みしようと思っていたが、思いついてしまったので数日前から漫画家みたいに原稿を描く日々。手製本の冊子 < wasureta〜 >シリーズのおかげで、本がどのように出来ているかが分かったので、ラフが出来てすぐに本の形にできた。
本の形になってようやく足りない部分に(内容も装丁も印刷方法についても)気付く事が多い。絵を描くみたいに本を作ることが出来るようになれたら良いな。
こんなに長い事絵画をやってなくて大丈夫なのだろうか、と心配になるが、冷却期間、発酵期間のような時なのかもしれない。また新しい気持ちで絵を描けるのが楽しみ。
空想の医者は、意地悪なヤブ医者だったが、実際描いてあらわれた医者は自分の理想とする医者だった。達観したような言葉の数々は自分のどこから来たのだろう。

最近は夜に眠れるようになったけど、夢は相変わらずよく見る。悪夢は少ないが、だいたいいつも、何かしらに心配をしている。卒業式に遅刻しそうだったり、運動会の前日に自分だけ練習してなかったり。一番恐れていて会いたくない人が泣いていて、それを心配して立ち尽くす夢も見た。

その夢の人は実在する人で、実際、一方的に、恐れて妬んで悲しんでいる人である。認知されているかどうかすらわからないのに、いつか刃物を持って家に来るのではないかと怯える事もある。私はやはり、ひどい心配性だと思う。自分でも自分の異常さが分かる。
けれども、その人が泣いていたら悲しいし、笑っていたらうれしいだけ、という自分も腹の底にいる。夢の中で立ち尽くしていた自分は、腹の底にいる大きな方の私だったのだと思う。本当は負の感情なんてほとんどなくて、ただ勝手に幸せに暮らしてほしいだけである。
漫画に出て来た医者の言葉も、そっちの私の言葉なんだろうと気付く。夢の中の私はだいたいいつも不安だが、皆の事が大好きで友達になれると信じている。まだまだ嘆くけどうつわが広くて深い。
腹の底にいる私はどっしりしている。全ての不安を簡単に受け入れる事が、抱きしめる事が出来る。私は私が思っているより、大きくて優しくて強い。ゆっくりでいいから表層にいる自分も大きい人になりたい。どれも本当の私である事は確かだが、根っこにそんな自分が居ると思うと安心できる。夢の中の私は、ばかな方と大きな方、割合としては半々ぐらいかな、なんて考える。人を恨むなんてろくなもんじゃない。良い抜け穴を見つけなければ。
焦るな、焦るな。もう足りている。落ちつきさえすれば大丈夫なんだからと、すてきなメロディの中でサトちゃんに言われた。