みらいさん

 



 家族みんな私のような人だと勘違いしていた。だから猫の命懸けの手術が決まった時同じくらい心配だった。
しかし手術中に家で待機しているとき、嘆くのは私だけだった。家族は案外、全然、たくましかった。なんなら猫もそうであるように思われた。
自分が救われる事しか考えられないところが嫌だ。優しいって何だろう、可哀想ってどんなことだろうと繰り返し考える。痛いのは可哀想だ、だから代わりたい。でも寿命が来る事って可哀想な事なのか。体が朽ちて何処かへ帰る事を阻止するのって、本当の優しさなのか。死って、痛いのか。わからない。わからない。
…いやでも、本当はもうわかってるんだろう。わかってるのを認めたくないんだろうなあ。
 
弱いのは(弱く見せる事なんかで助からないくせに助かろうとすがっているのは)私だけだった。 家を出て四年くらい。家族の印象は何度も変わった。ひどく脆いように思っていた。幻想だったのかもしれない。
ただひたすらに、私の事を考えなければいけなかった。他人への無意味な心配をする事で、自分とちゃんと向き合う事から上手く逃げていた。優しい人になりたいなら、まずはそれをするべきだった。私が私として立って歩く事って、それは誰かにとっての「優しさ」である。誰かを抱擁したり、待つよりも。私は、そう思う。今は。
 
冬の雨の日は寒く暗い。朝(※昼)風呂浴びて出て来たら日が射していて嬉しい。花を描こうと思って、さっきまでつけてた暖房を消した。日も沈むし、花も枯れるから、早く描くべきだが、焦らない事にした。こうして文章を作ることも、確かに自分に必要な作業である。絵と向き合う時間よりも大切な時間が、絵具を重ねるよりも大切な事がある。それは花の事を考えたり共に暮らすことや時間。こう思えるようになったのは、自分にとっては大きな変化。
さっき少し「ブランコ」を読んでいて、「みらい」さんからの手紙が届くシーンがあった。私のブログって「みらい」さんになれるとどこかで信じてやってるのかな、と思った。まだ三巻。
 
 
外は完全に晴れて来た。雨上がって綺麗な天気。
花が意味わからんくらい綺麗。ほおずりしてみた。
繊細そうで、さわったらくずれてしまいそうなはなびらは、案外厚みと弾力があり、儚げなんて言葉はふっとばされた。思ったより強い。こんなこと前も思ったような。しかし触れないと分からない事ばかりある。私以外私じゃないの〜って歌、あった。それだ。(それか?)私はいらぬ心配ばかりしている。滑稽で、私はギャグ漫画みたいな人生だと思う。
 
働いてる本屋さんで夜中に酔っぱらいが尋ねて来た日、もっと夜更けに酔っぱらった人から着信があった。その時話した事、なんかすごく良かったんだけどあんまり覚えていない。
昨日はこれまたなんかすごく良い手紙を受け取った。
どっちについても何が良かったかってうまく言葉に出来ないけれど、言葉にしない方が良い事かも知れん。言葉という形にならずとも、伝えたい事はいつか勝手に出てくるだろうから。


先日の夢。
実家の猫が、他の動物に変化して私の腕から逃げたくて暴れていた。色々な動物に変化したのち、湖に飛び込んでしまった。湖の中に入って探して見つからなかった。とても怖くて悲しい夢だった。

今日の夢。
大学生になって、誰ひとり友達がいない。映画サークルに入ったら、疎外感が半端なくひたすらに居心地悪い。文化祭、映画サークルの場所が分からずウロウロ。人ごみがホントにつらい。電話で退部すると伝えようとするが、仲良くない故誰の連絡先も分からず。いやな夢だった。
夢でよかった。今日も。