涙が目から溢れそうになるのも鼻水が垂れてくるのもアレルギーだからだと思うことにした。自分をそんなに弱い、弱いと思ってたって何も成れない。
電車で、失うことを想像していた。自分の体の真ん中にゴッソリ大きな穴が空いている。こんなに広い世界なのに、探しものはどこにもなかった。想像、というか妄想の中で私はわかった。探し物…体のくりぬかれた部分は、毎日帰る家のなか、埃の被ったタンスの一番下の方にしまってあったんだった。居ても居なくても私はずっと私の形をしているのだった。ずっとあったものが、「淋しさ」に変わるだけ。
優しさについて考えている、ずっと考えている。「ブランコ」は、まだ少ししか読めていないけれどやさしい。
猫の1年と人間の1年は全然違うという話を聞いてクラッと来た。同い年くらいに思ってた猫は人間の年齢にするともう70代であった。私が死ぬまで生きてほしい、というのはやさしさからかけ離れている。
時間の流れる速度が私と猫と全然違っていたんだなと今さら気づいて、ああ、となる。
「やさしさ」「愛する」「祈り」。
猫の手術が終わって無事だったとメールが届いて、嬉し涙が出た。きっと、この涙は本物だ。偽物、本物と振り分けるのは好きではないけど、もう言い切りたいほどにそう思った。これからの人生、私はこういう涙だけ流して生きたい。恐怖から逃避するだけの日々をやめて、私の思うやさしい人になりたい。なにかを愛せる人になりたい。失ったときの淋しさは、愛の裏返しなんだから。私が欠けることなんて無いのだ、祈るべきは私事なんかじゃなくて、対象の幸せ。宇宙でたったひとつのルールが適応される。