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(2023-10-30)
高校のころからの友だちと、高校の大好きな先生の展覧会のために銀座へ行った日
言葉にしようとすると憚られるような想いばかり重なった
それでもいい日だった
電車で原民喜を読もうとするんだけど眠くて全然進まない
 
こんなに連日人と会うのはめずらしいからカメラぶらさげて歩いてみたけれど、見返したら良い写真いっぱいあってちょっと楽しい
それにしてもちっさいふわふわ、いつでもどこでももらったりあげたりしている

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(2023-10-28)
展覧会に来てくれた中学生のころの友だちと上野を歩いた日
動物園に入らなくても 美術館に入れなくても
パンダとかきれいなものとかをたくさん見た

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(2023-10-24-10-27)
とってもにっこりのおばけカカシがかわいくて
いじけたみたいなムーミンが自分に似てるなと思った

天井/りんご

 

たいせつな人たち
じゃあねと別れて
それから二度と会えないんじゃないかと
そんなこと考えてさみしくなって
布団に入ってもう2時間ほど寝付けない
黒い天井があまりにも「死」だし
私も私でそれに作用されすぎている

裏返しのさみしさが
だんだん予感みたいになって
頭がそれに支配されてきたから起きた

みんな元気ですこやかに
そこそこ幸せに暮らしていてほしい
おのおのの大切な人もそう
思い出も一緒に歳を重ねて
その目でみてきたことただそのままで
歪ませないで
その角度でいい
わからないことはわからないままわすれよう
生きても死んでもない風景としてときどき思い出そう

世の中のすべては絶対的なものだとおもってたい
終わりがあるから美しいんじゃなくて
寂しさは結局寂しさでしかないみたいに
何にも喩えないほうがいいことだってある
時には必要だったけど

だめだろうか
暗いだろうか
これでいさせてほしい
許してほしい

つかれた
つかれたな

私のごみくずみたいな愛情と優しさ
まるめて捨てて忘れられますように
書いてたら鼻水止まったからよかった
朝が来たら傷んできたりんごを煮よう

また日が昇るのを信じて待つ

 

いっこしかりんごを買わなければ、りんごはどこまでもりんごでしかないような
…というか、りんごであるように描かれたであろうのに
いくつものりんごを描こうとすると、境界線がよくわからなくなって
曖昧になって ただ甘いにおいのする もの でしかなくなる

日が暮れて、電気をつけると、描けなくなる 形がわからなくなる
錯覚や感性にばかり頼って(依存して)ものを見ている のを 分かる
ぜんぜんしゃべれなくなったり 饒舌になったりするのと
似ているなと思った

ホックニー展を見てむかついた
むかつけたのは とっても広かったから?
 
安心ばかりがそこにあったよ
 
そっか絵って静物なのか
ぜったい生きてないのか
忘れてた
って思い出した

アンデルセンと原民喜

少し前の無花果のスケッチ、ウォーミングアップがてら。
観察して描くって、人と会って話すより親密なコミュニケーションだなぁ。
対人でもこんな感じで語り合えたら良いのに。
 
しばらくあけていた家を掃除したら、キッチンペーパーと小麦粉が棚奥から笑えるくらいたくさんでてきた。どちらも切れたら不安な物たちだった。買った時のことは全然覚えてない。検索したら認知症とかでてくるもんだから、夜にまたそんなこと考えて寝付き悪くなる。多分ただの心配性の一環…と思うことにする。
アンデルセンは重度の心配性だったことと、原民喜の書く作品が「不安文学」と呼ばれていることを、それぞれ別の人から教わった。アンデルセンの生前の行動を読んで、ガハハと一瞬笑うも、棚の上にあげた自分を思い出して笑えなくなる。
絵の世界を絶対的なものにしたいと考えていて、反復して同じ(似たような)情景を描くことでそれが夢や空想ではなく、もっとリアルになるんじゃないかとひらめいたことがあった。
それも遡れば不安から来ているような気もしなくもない。うーん良いんだろうか。不安を個性と認めてしまっても。
私の絵もいつか「不安絵画」とか呼ばれるんだろうか。

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煮物、揚げ浸し、洋梨のジャム、実家の猫。

 

 
最近のスケッチ、ジャムになる前の洋梨。次はイチジクを買ったけれど描けるかな。 
もうずいぶん冷えてきた。
ニュース番組をつけたら ジャニーズと戦争との報道が交互にやっていた

公転

 

最寄りの駅からバスに乗ると、数年前に住んでた家の近くを通り過ぎた
車窓から泣きながら歩いている 過去の自分が見えた気がした
(そんな気がしただけで当然居なかった)
 
しかし実際そこに居たとしても何も思わない気がした
あのとき抱えていた不安は、今抱える新しい不安に塗り替えられて
もうぼんやりとしか思い出せないから
私は今の不安のことばかりを気にして車窓を眺めていた

バスは病院に停車する
検査をしてもらったが、いつも通りとくに異常は見られなかった
とても悪い状態になっているだろう と思い込んでいたのが緩んで楽になる
 
その帰り道、もうさっきの不安など忘れて空を見た
渋い水色の空にうろこ雲
その隙間から輝きがこぼれる
ポジティブな風景を見た
不安に支配されているとき、どうして私は空を見上げなかったのだろう

.
忘れたくない記憶の断片を絵にしていたときには
他のテーマで絵を描くのが怖かった
 
ずっと昔、切り捨てるように過去と現在と未来とを設定した
その日を現在として、
そこから先は未来というような
つまり今は未来を生きているような心地でいた
過去という風船の紐を離さないために、使命感に駆られて描いた
 
今はそれを描くのをやめた
いつか帰るだろうと思いながらも
後ろを振り返ればちいさな私が泣きじゃくっているんじゃないかと思っていた

バスの車窓で過去の自分を妄想したとき
すこしだけ解放された気がした
すべては幻想だったんじゃないかと思えた
忘れることが怖かった日々がなつかしい
なんでもかんでも忘れてしまえと今は思う
 
空はだいたいいつもおかしいくらい綺麗で
そこに蝶が舞ったらどんな絵よりも美しい景色になる
光と影のコントラストはどんな物語よりもドラマチックだ
何を悲しむことがあったのか
美しい風景の中で私は 
ただ年を重ね ただ日々を流して ただ歩いている
それだけなんだった
 
嫌というほど暑苦しく粘っこい夏のことだって
この涼しい風に吹かれて歩いている内に
知らない間に忘れているだろう
そして冬が来る頃にはまた忘れて、
私はぐるぐるぐるぐるぐるぐるするだろう
いつかまた思い出すだろうか

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(2023-10-6)
千葉に住む友だちと、本を作ることについて話したり川沿い歩いたり公園をぐるりとした日