光の背中


 


絵を、遠く近く、遠く遠く、近く近くで、見る。
私の脳が動き出して、抽象が具象へと処理される。あいまいをあいまいのままに受け取れない自分の脳に呆れてくるが、しかし、一歩引いて裏返ることの淋しさと爽快感は、脳の回路のことなんかどうでもよくなるくらい良いものだ。執着していたいろいろなことが一瞬にはぐれて、また新しい絵が出来上がる。また一歩引けば淋しさが散り散りになって戻ってくる。しかしそれらが構成している全体は美しい。

視界に広がる、悲しみ、憎しみ、怒り、やるせなさは。絵と同じように、一歩引けば風景の一部でしかないのだろう。一部を成すそれぞれが、そして全体そのものが、流動的であり留まらない、儚く美しい存在である。留まらない風景の中で、いつしか忘れられた痛みや記憶は、それでもずっと本物であり、それをないものには決してできない。それらは全体を構成する色となり、質感となり、残留し、影響を及ぼし続ける。そして、呪いにも祈りにも昇華する。ここに、構造から逃れる余白があるように感じる。私が見た絵たちは、呪いではなかった。

自分のことを「大人だ」と言えるような人になりたいと思う。
大人とは、完璧でないし、怖いものでもない。できることやできないことは、今とあまり変わらないような気がする。ただ、今の自分よりも「安心」に近いような存在だと思う。他者の語る大人像のことはよくわからないけれど、私の思う大人の背中はそんな姿をしている。
大丈夫じゃないものを「大丈夫だ」と言えるような人のことは、かっこいいと思う。が、そうなりたいとは思わない(なれないのだろうし)。大人になるとはどういうことなのだろうか。免罪符のように口走ってしまう、本当はとても大切な言葉の数々を、ひとつずつ解体していかなければ、何も始まらないような気がする。

どういう大人が私の前を歩いていてほしいのか考える。小さくなる後ろ姿は自分の向かうべき方角の目印だ。光のほうに消えていく。

浮「窓辺の肖像」開催記念ライブ について


 
「窓辺の肖像」開催記念として企画していただいた、浮さんの北東北ツアーのご予約が始まっています。展覧会のおしらせは、こちらの記事をご覧ください→ ✸  
 
浮さんの歌声やメロディは舟のようで、家で聴いていても、気づくと水辺へ連れて行ってくれるようです。窓の向こうを想像したとき、空想の中に浮かぶのは、そんな水辺の風景なのかもしれないと思いました。
本ツアーは、展覧会の企画を担当してくださっている、絵のしごと/熊谷さんと、個展会場であるTHE STABLES/小田原さんが中心となって進めてくださっています。
かつて目の前にあった私の窓辺が、届かないくらい遠くまで、信頼するみなさまと、歌の舟にのってあちこちに。どんな夜になるのだろうととても楽しみにしています。
ぜひご来場ください。 
 
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day1:青森・弘前 弘前れんが倉庫美術館スタジオ
日時:11月1日(日)18:00開場 18:30開演予定
会場:弘前れんが倉庫美術館スタジオB(青森県弘前市吉野町2-1)
前売・予約 4,000円 /当日 4,500円 着席・全自由席
予約:https://x.gd/9qxEp
 
day2:秋田 交点
日時:11月2日(月)19:00開場 19:30開演予定
会場:交点(秋田市保戸野通町6-2-2F)
guest:田中太郎(踊り)
前売・予約 4,000円+1drink / 当日 4,500円 +1drink
予約:https://x.gd/sj1qU7
 
day3:岩手・盛岡 九十九草
日時:11月3日(火・祝)18:30開場 19:00開演予定
会場:九十九草(盛岡市中ノ橋通1-8-4)
 *お車でお越しの際は近隣の有料駐車場をご利用ください。
前売・予約 4,000円+1drink / 当日 4,500円 +1drink
予約:https://x.gd/xpfVr
 
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*THE STABLESさんのテキストを参考にさせていただいています。
*お問い合わせは各予約フォームのアドレスへお願いいたします。
 

外


私の目がカメラのレンズだとしたら、輪郭線が過剰に強調された、しかも間違った線を拾われた、心霊写真のような、奇妙な写真ばかり出力されるだろう。
 
今、左腕に蕁麻疹ができている。昨日薬を飲まなかったからだ。理由が明白だから、心配することはない。しばらく続いている、胃の鈍い痛みの原因は、わからない。なにかに疲れているが、なにに疲れているかもわからない。予想はできるが、確定するだけの材料が足りない。わからないことは不安だし、足りないことはもどかしい。病気不安の根源を考えると、あいまいなものに耐えられないからだろうと結論が出る。自分会議において、そのすべてに結論を見出そうとするのも、結局は、私の性質なのだと思う。私はいつも自分に囚われている。

なにかを描こうとするとき、輪郭線を使わないと、形を捉えられない。それは学生時代に教わった日本画的な物の捉え方が根付いているということなのかと思っていたが、これももしかしたら、私の根源にある性質、安心の姿が由来なのかもしれない。風景が描けないのは、ひとつのこらず捉えなければいけない、と硬い頭で考えてしまっているからだ。
 
知らないものを描けるわけがないから、知ろうとするところから始まる。それで、知ろうとしても、決して踏み込めない領域があることに気づく。だから、わからないことを色や技術でカバーしようとしたり、知ったかぶりをしようとする。それほどの技術も意志も想像力も持たない私に、嘘は難しい。早々に限界が来て、やっとあきらめる。私の絵はいつもそんな手順をもって描かれる。いや、むしろ、あきらめたところからはじまる。絵を描くことは、私にとっては、あきらめることに近いと思う。折り合いを付けるとも言えるのかもしれないが、今の私にとってはまだ、「あきらめ」という言葉のほうが正直である。視界に入った隅から隅までをちゃんとあきらめなければならないと思うと、広ければ広いほど苦しい。だからやはり静物が優しい。実際、静物を観察すれば、その奥深くに、見たかった遠景が見えてくることもある。だからやはり、見える範囲のものを、徹底的に描写するというのは、少なからず、私のような性質を持った人には適しているのではないかと思う。描けない悔しさは、悔しさとして、持っていたらいいとも思う。行きたかった場所に続く地図になるから。

家の窓から見る空と、外で見上げる空とは、まったく違う景色に見える。雲の柔らかさとか流動性に驚かされる。私が室内で首を曲げて腰を痛めて追ってきた雲の形は、何一つ残っていない。室内で感じる虚しさなど、一歩外に出れば、すぐに打ち砕かれてしまう。

個展「窓辺の肖像」 / THE STABLES

 


展覧会のおしらせです。
青森・弘前「THE STABLES」さんに、窓辺の絵を10点飾ります。
また、展覧会に関連した、浮(ぶい)さんのライブツアーがあります。
秋のおでかけに、ぜひお越しください。
 
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市村柚芽 「窓辺の肖像」
会期:2026年10月31日(土)-11月23日(月)
休み:火
時間:12:00-18:00 / 11月1日(日)は17時閉店
場所:THE STABLES
(青森県弘前市代官町14−2)
 
風も吹かない 淋しい窓辺で
雲はしずかに 花咲いた    
 
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浮  「窓辺の肖像」 記念演奏会
<ツアースケジュール>
11月1日(日):青森・弘前 弘前れんが倉庫美術館
11月2日(月):秋田 交点 /w 田中太郎(踊り)
11月3日(火・祝):岩手・盛岡 九十九草

ご予約や詳細はこちらの記事をご覧ください→ ✸  

THE STABLES HP:https://thestables.jp/
絵のしごと Instagram:https://www.instagram.com/enoshigoto/
 
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「窓辺の肖像」というタイトルの展示は2回目です。同じ構図・同じものを描いていても、以前とは異なる風景があらわれるので驚きました。
ライブのほか、ほとりさんと作る「あしたのジャム」も販売予定です。季節の果物で作ったジャムを試作していただいています。また、ご紹介いただき、弘前の古道具店ミヤマコさんに額をご依頼しています。こちらも絵に合うように、試行錯誤してくださっていると聞いています。
窓の外のはるか遠くで出会った、たくさんのご縁が積み重なって出来た展示です。私の窓から、遠く遠くの誰かの心へ、風が吹いたらいいなと願います。
 
デザイン:青木隼人さん
問い合わせ先:enoshigoto26@gmail.com

地獄と言葉

 

描くためじゃなく買った花の、枯れて茶色くなった部分を切り落として、小さな花瓶に生け直した。枯れたものの、いつまでも花が咲いていて捨てどきがわからなかった花は、思い切って捨てた。新しい花をそれぞれの花瓶に生けて窓辺に揃えたら、荒んでいたというわけでもないけど、心が平らになったようだった。

しばらく描きたいという気持ちが湧かない。なぜだかはよくわからない。でもたぶん描いた方がよいのだろうという見立てがあり、描かなくなるのは違うだろうと思い、一応、描いている。でも、進まない。求められているわけでもないのに私はなんのためにやっているんだろうという気持ちになる。それは、ごはんを食べたり洗い物をしたり部屋を片付けたり、どうせ伸びるのに髪を切ったりどうせいつか死んでしまうのに病院に行ったりするときに感じることと、すごく似ている。いつも何かの病気なんじゃないかと不安を抱えて病院に駆け込み、病気じゃありませんようにと祈りながら診察を受けるけれど、しかし同時に、何か病気であってくれ、病名をつけてくれ、不安を終わらせてくれと祈る自分もいる。

窓辺の花は私が明日を生きる目的にはならなかった。もう根がないのだからあとは枯れていくだけだろうと薄情な気持ちで花瓶に生けている。いつからか、そこに申し訳なさも感じなくなった。仕方がないことだと割り切るようになったからだと思う。枯れるのを待つだけなのに、それでも、少しでも長く持ちますようにと水を換えたり延命剤を使ってみたり、反射的に祈ってしまう。一瞬で矛盾する自分のことはよくわからない。わからないけど、もしかしたらそういう反射のほうに私の本体があるのかもしれないと考える。言葉にできるようなことなど信用しないほうがいいのかもしれないと。

人間

 
 
「綺麗事のなかで生きていきたいわけではない」とノートに書いた。
そもそも綺麗事をやれるほどの器をもっていないのだから当然である。
 
ないものねだりをし続けるより、少なくてもちいさくても、今もっているものに目を向けた方が、楽しいことを知っている。気づいたら「なかったもの」に接続することもあるのだと、知っている。あきらめなど、戯言だ。
 
ちゃんと折り合いをつけて生きていきたいのは、暮らしとはそういうものだからだ。  
この道を通りたいのに目の前を歩く人がじゃまだったときに、だからその人を殺してみたときに、殺されたその人の「この道を通りたい」はどこに消えるんだろう。どんな理屈をもって処分されていくのだろう。運のいい人だけが強い人だけが上手な人だけが生き残る世界で、生き残った人のかたちをした生き物のなかに「人間」はいるのだろうか。

頑張りたいのは、ちゃんと自分で歩きたいからだ。
私が、私の体で、いきたい場所への一歩を踏み出せるように、歩けるように、頑張りたいと思う、頑張れと思う。

薄緑の海

 


瀬戸内海を窓から覗くと薄緑に光っていた。まるでプールのように穏やかだった。近づいて水面を見ると、やはりプールではなく海で(当たり前だ)、飛び込んだら這い上がれなそうで、ゾッとした。青森で海を見た時のことを思い出した。途方に暮れるような水平線に果てしなさを感じて、死を連想した。あの海の景色は死のイメージに近い。だからあまり近寄りたくなかった。遠くからでも近くからでも変わりなく荘厳で怖い海。近く近くまで来てようやく気づく尾道の海は、もしかしたらもっと怖いのかもしれない。
 
すばらしい場所ですばらしい展示を見た。どうしたらこんな場所が作れるんだろう、と考えると、逆に、どうした「から」こんな場所が作れる、なんてことはないんだろうなと、答えになってはいないけど腑に落ちて一人議論が完結する。素敵だなと思うのと同時に尾道の海みたいな気持ちにもなる。みていいのだろうかと思うのと同時にみせてくれてありがとうございますと言いたくもなる。筆跡のひとつひとつが研ぎ澄まされている。思想や主義や主張とは違う、もっと天然で自然なもの、祈るみたいに、線も色も形も生まれているのだろうかと想像する。地続きの絵、だから、憧れてもきっと描けない絵。脆く見えるのにどっしりしているのは場所の力なのだろうか。一歩踏み外したら全部が反転しそうな緊張があるのに緊張が見えにくいのがすごい。庭のような場所。しらない誰かの大切を、まるで自分が最初から持っていたように、私も大切だと思った展示。

大切なものを水面にそっと浮かべて手放す時なにを祈るだろう。穏やかでもそこは死が近すぎる。他者は何ができるだろう。祈りは、大切が大切のままいられますようにとか、無事に渡れますように、とかだろうか。他者は、たぶん祈りとかじゃなくて、自然な形で、穏やかな波に手放せるように、そのための手配とか介助とか、小さかったり大きかったりの具体的なことをする、淡々とする、孤独にする、ことになる、と思う。その報われなさについて、自分はどうできたかということを、もうしばらく考えている、でも自分にできたことがまだ見つからないし、まだわからないでいる。まなざしとか、やさしさとか。自覚とか。簡単な言葉だけど、きっとこんなに難しく大変なことはなかなかない。よっぽど近くまで来ないと気づかないことがある、だからただありがとうと思っている。きっと無事に渡れたこと、そう思えたことを。

出発した「大切」は、きっと心配するまでもなく、祈るまでもなく、勝手にやさしい風がふわりと吹いて、いくべきところに連れて行ってくれる。いつもそうなんだと思う。痛くてもやりきれなくても。そんなに脆くない。人も絵も心も。

断片 (2026-9)

 





 
 (2026-9)
尾道
 
この町の美しさのこと私にはよく分からない
海とか山がエンタメみたいに見えたりする
催眠術にはかかりやすいのに魔法に全然かからない
手渡されたものには温度と重みがあって眩くて
写真を見返すとたしかにとても美しかった。

8羽の水鳥

 

4年前に描いたちいさな絵「水鳥」は、8枚あったのが、残り1枚になった。当時、たぶん煮詰まっていて、気軽なことをやりたかったのと、金欠の作戦として描いてみたのだった。気軽といえば気軽だったけれど、こんな動機で8枚も絵ができてしまったことに少し落ち込んだ。金欠作戦としてもべつにうまくはいかなかったし。失敗だと思ったりもした。何回展示をやっていても、絵を売るというのが少し恐ろしくて、それなのに「一生貧乏なんだ」と想像すると辛くて耐え難くて、だからお金が欲しいと思った。働くことがむずかしいから、自分にできることでお金を得られたらと願った。矛盾している、だけど自然な感情だ。そりゃそうなる。描いているとき、完成するであろう絵のその先にお金や見返りなんかはまったく存在していないのだから、値段をつけるときによくわからない気持ちになるのは当然で仕方がないこと。生活にはあきらめではなく折り合いをつけることが必要なのだと思う。最近、自分の先を歩くかたの近況を聞かせていただいたときに、やっぱりそうなのかもと思った。私には眩しく映った。

私はいつもあきらめるような気持ちで、捨てるような気持ちで選択してきた。だから後ろめたさがずるずると残る。後悔しないなんて無理だが、後悔する方向に歩み出すのは間違えている。どこかでひとつ道を違えている。生きることそのものが折り合いの連続なら、ゆっくりの足取りでまた歩き直せばいいのかも。いつかみんなにやさしい光が降りそそぎますようにと祈りながら。

絵は、がたがたと売ったり、急に勝手に押し付けたりとかで、速度もそれぞれに飛び立った。7羽の水鳥すべてがうれしいご縁だった。飛び立つたびに、それがどんな経緯でもよろこびがかえってきた。それぞれのよろこびが。「こうだからこうなる」みたいに、予測できた感覚ではなかった。だから、なんであれ、描いてよかったと思った。幸せの記憶は長続きしないけれど、しばらくぶんの、あるいはいつか訪れる暗やみの中で、生きるために十分なあたたかさや光がある。

台所

 


 
贈り物のカステラ柄のノートがきっかけで、カステラを上手につくれる人になろうと思った。第一弾として昨晩焼いたカステラは、一晩でぎゅっと縮んでしまって、喉の渇くような、かさかさした食感になった。焼きたてはシフォンケーキのようだったのに。まだまだということなのか、カステラとはそういうものなのか、そもそもカステラのことをよく知らなかったので、わからない。でもおいしかったので、点数とは無関係に、私は嬉しい。そして研究しがいがあるから、楽しい。上手に作れるようになったら誰かにあげたい。

台所に立てるようになった。今日は夕方にホワイトソースを炊いた。牛乳の白さや、ローリエの香ばしい匂いや、木べらでやさしく混ぜるときの感触が、いろんな不安を包んでくれる。今晩は一人なのに豪華な食卓だった。きのことかぼちゃのグラタンと、ブロッコリースプラウトとお豆腐のサラダと、かぼちゃの豚汁。サラダにはごぼうチップをのせる。お腹空いてなかったのに、おいしくて少し食べ過ぎた。残りのホワイトソースは何に使おう。

たまに、時間とは、本当にもう戻らないんだ、ということを考えて、怖くなる。そういう恐怖を、なんというか、生身で感じるとき、自分は歳をとってしまったと思う。これからもっと迫ってくるのかもしれない。耐えられる気がしないが、ゆっくりとでも受容していくしかないのだろうとも思う。でも、もしかしたらそれは、思っているほどきついものでもないのかもしれない。「耐える」とかではないのかもしれない、そんなに怖がらなくてもいいのかもしれない。世界も自分も変わり続けているのだし。

つらかったけど、目の前のことに怯えてさんざん嘆いていた日々に、あたりまえのように存在していた「安心」が、いまごろ見えるようになる。悲しい歌を一日中聴いていた頃が、悲しい絵ばかり描いていた頃が、気づいたら昔になってしまっていた。無自覚でいられた短い時間は、とても大事なものだったような気がする。そんな日々のことを「幸福」と呼ぶのではないか。…そんなふうに考えると淋しさが込み上げてくるけれど。でも、きっと今だってそうだし、これからもそうなのだ。生きていれば気づくだろう、いつもあなたに吹いていたあたたかい風やまなざしのこと。

箱庭恐怖

 
 
久しぶりに湯船に浸かった。少し元気になった。いつかのマルタイラーメンのこと思い出してもう少し元気になった。もうダメだと思った昼のマルタイラーメン。熱くて火傷して味はわからなかったが、なんだか満たされた。仕送りみたいに、どっさり入った贈り物のひとつだった。マルタイラーメン。いろんな人にありがとうと思った夕方。
 
鏡に映る化け物じみた自分を見て焦燥感に駆られる。特に髪。ホラーだ。美容院に行きたい。というより、行かなきゃと思う。が、お金があるならば、今は、見た目のことよりも、健康のほうが気になって仕方ない、病院に、行きたすぎる、本当に。
わかっている、狂っているのは精神のほうだ。
数日前、わざわざ紹介状まで発行してもらって、少し遠くの病院で検査を受け、なんでもなく、6400円払って帰った。情けなかった。残金がぜんぜんないので、借りたお金で検査を受けた。ちなみに前日には別の病院で5000円払っている。安心には近づいたけれど。情けないという気持ちの方が大きい。架空の病気を過度に不安がって何もできなくなっていた時間をおもう。仕方がないけど、何回繰り返すんだろう。いつになったら治るのか。治るようなものではないのか。治らない気がする。そもそも病気はそんなに怖いものだろうか。病気に脅かされて毎日がおぼつかなくなるほうがよっぽど怖いのではないか。今がいちばん愚かなのではないか。本当に落ち着いてほしい。私のあたま。

 
 
変な顔しながらドラマを見た。私は、登場人物の行末への興味より、そこで描かれる世界の小ささに対する怯えの方が大きかった。ドラマなのだから、そういうものなんだろうが、出口を塞がれた箱庭のように見え、心がざわざわした。私の中に、新たな恐怖症が誕生。箱庭恐怖だ!
虚しくなったら窒息しそうで。逃げたくなったとき、凌ぐように窓から脱出しても、またつらくなりそうで。多分、人はそんなにヤワじゃない。脆いけれど、強いはず。身支度して出口から出て、振り返って跡形もなく消えていたとしても、思ったより、大丈夫に生きていけるのではないか。、いや、わからない。私の歪みかもしれない。実際、厳しいのかもしれない。死ぬほど厳しいのかもしれない。
 
じゃあ、私は、厳しくなった人に、マルタイラーメンみたいなものを、あげられる人になりたい。いろんな音楽があるみたいに、いろんな居場所、段に応じた救済措置。箱庭なんて作らなくたって、「大丈夫」が無数にあると思えるような。

羽


連日、真っ白な空。雨も降る。傘に穴が空いていて雨水垂れる。蝉が静か。家から少し歩いたところで、見かけるたびに怖がっていた蜻蛉が亡くなっていた。羽は黒く身体は青かった。綺麗だった。気が早いだろうと思いながら、つい夏の空を思い出してしまう。夏のよさを想ってしまう。暑かったけど、やっぱり、あの空に、あの雲に、たくさん助けられていたんだったとか、回想してしまう。暑かったけど、身体もずっと調子が悪かったけど、晴れてたらそれだけで少し楽しかったし、雲の見事さに嬉しくなったし、夕暮れを見るとなにとも結びつけずに悲しくなれたし、曇り空よりはマシだったのではないかと思う。

実際には、夏は、厳しかった。つい先週くらいのことだから、まだしっかり思い出せる。冷房を、寒くないように高い温度に設定しても、一日中当たっていれば調子が狂う。胃が重くなって食事するたびにもたれるようになる。胃液が上がってきて、吐いてしまうんでないかと怖くなる。ドアをあけるのに大きなパワーが必要になってくる。肩や背中や思考がガチガチになってくる。身体も動かなくなってくる。過去の失敗が暇な私に話しかけてくる。そのへんの空気が失敗に変換されて、部屋が失敗で満ちる。何をしてもダメになる。毎日自分に敗けて、失敗が積み重なって、向き合いたくなくて消えたくなったりする。

「私なりにがんばってきた」。そのがんばりが、他者から見て、がんばりだと見なされなくても、がんばったのだから、がんばった。でいい。なかったことにしなくていい。というかならない。どんなに小さくても、あなたの一歩は一歩だ。違うのか。「どうしたらよかったか」。そんなこと、後から考えれば、いくらでもこじつけることができた。今は、つまり、ただ、無理だったんだということを、受け入れなければいけなかった。現実に対して「成功」とか「失敗」とか、いちいち判決を下す癖。そもそも、判決を下すことは、どういうことなんだろう。だれのためなのだろう。その物差しは、どんな単位で、どんな規則を持っているんだろう。知ったつもりになっただけで、わからない、わけではないのだろうか。すべてのことは、ただの「結果」でもあるということ。そこからいろんなもので飾りつけられて、浮き上がってくるのが悪とか罪だったりするだけで。腹の底にいるほんとの自分は、善も悪も罪も罰も、心底どうでもいいことだと、思わないか。自責や他責の前にある、ほんとうの気持ちは、見えているか。どうしたって見えない視界があるっていうことを、おぼえているか。
 
多分、私が、あなたが、みんなが、少しずつ足りない。人間には無理なのかもしれない。いつかAIが満たしてくれたりするのだろうか。今は、私から見える私の足りなさを、ただ足りないものとして、わかっておくことくらいしか。

私の窓に、

 
(2026-8-15)

(2026-8-23)

(2026-8-25)

(2026-9-3)

(2026-9-7)
 
最後の窓辺の絵には、もともと持っていた瓶は描かずに、先日急にいただいた花瓶を描いた。しっかり終われた感じがあった。絵の中で、いまだに窓を開けられないでいるけれど、気づけば、部屋の中にも外にも、誰かの気配で満ちていた。私の窓辺には、空想じゃない、本物の夕暮れも来るらしい。きっとまた描くだろうから、その時までは守っておこう。

花・私・窓

 
 
枯れた花を捨てて、新しい花を買って、花瓶に活ける。換気をしたみたいに室内の空気が変わる。好きになる前に、理解する前に、いつの間にか、花に助けられていた。
 
突然の贈り物、ガラスの花瓶。どうやってお礼を伝えようか迷っているあいだに、月日が流れてしまった。少し前。いつか触れてみたいと思っていた陶器の作品を、背伸びをして注文してみる。お皿じゃないので、使うものではなく、ただ存在するものという感じ。触れてみるとひんやりとして、時々ぼこぼこ、手触りがある。遠くの人からの手紙。メッセージ。会ってないのに、そこにいるみたい。あたたかい。私はずっと家にいて、郵便受けから、ドアから、遠くの風が吹いた。 
 
もう描けなそうだと思っても、手を動かせば絵は進んだ。さっき描いた絵が見慣れない顔をしている。きっと風に包まれたからだ。絵は外を向いている。窓になれている。 
花のこと、たくさんの勘違いをしてきた。私はいつも。好きとか嫌いとか。恋とか友人とか。嘘とか本当とか。花は絶対的な他者であった。ただただ。

浮さんの歌の「話そう 正しさなんて探さないで/話そう いつまでも 私たち」という歌詞が頭に残る。なんてやさしい眼差しだろう。昼間に洗濯物を吊るしながら、繰り返して聴く。 
 
二年前にはじめて描いた窓辺の肖像を今描くと、やはりずいぶん変わっていた。描いてみなければ気づかなかったことがたくさんある。私はこういうことばかりだ。気づかなくてもよいものも中にはあったろうと思う。でもその追求や出会いがとても大事なことのような気がして。間違えていても、恥ずかしくても、受け取らなくても、流されてもいいから。今の私の窓辺は、花が多くなった、空が広くなった、淋しくなった。かつて、揺れるカーテンの前に不安だけがあった。脆弱な安心が突然にあらわれ、そのひとときが、幸せと淋しさを際立たせた。

毎日を満たせ!

 

電話。電話。何度も同じ言葉を喋る。疲れない。
自分の人生は喪失や不安と向き合っているうちに終わってしまうのだろうかと感傷に浸った日があった。しかし、今は、今が、ずっと続いてるだけなんだった。続いてる。終わってない。できることはやることはたくさんある。どうすればよかったか?そんなの知ったこっちゃない。今できることをやる以外に選択肢はない。
今日は電車で、デビットボウイの「Starman」を久しぶりに聴いた。相変わらず何を言ってるんだかわからない。それでも知ってる音楽の中で1番好きな曲だと相変わらずなことを思った。
間違えててもいいと思えるからきっと正しい。正解!!

白鷺・ザネリ


 

絵を描いていて、窓を見ると、いつのまにか白鷺が電信柱の上に立っていた。椅子から降りて立ったときに目線の高さが揃う。そんな高いところにいるんだね、とふしぎな気持ちになる。鷺も自分も。机のほうに目をやって、しばらく作業をしていると、音もなく、いなくなっていた。
 
 ● ●
 
誰かの日記を読んでいたら眠くなった。うたた寝の夢。
 
二人で青森を訪れていた。打ち合わせが終わったのが昼頃だったので、山のほうへ向かって、いいお宿に泊まれるのではないかと、冒険心が湧いてくる。それを同行者に共有する前に、もうひとりの人物があらわれた。三人でしばらく喋っていると、乗らなければいけない電車が来てしまった。その電車は混んでいて、会話する余裕がない。ならばひとつ電車を見送って、目的地をはっきりさせてから乗車したほうがいいのではないかと思い、そのつもりで目配せした(つもりだった)。しかし同行者は、颯爽と電車に乗っていった。かたまっている自分と一瞬目があったが、この駅で別れる知人にむかって手をふるばかりだった。
 
呆然としながら、「とりあえず電車に乗ります」とだけ連絡をし、ひとり取り残されて次の電車を待った。ひとりになると、急に電車が怖くなる。乗車方法にしても、切符の入れ方にしても、どのあたりに立っていれば他のお客さんの邪魔にならないかとか、この土地のルールを何一つ知らず、準備できておらず、そうなったときに考えればいいとはいえ、不安は募った。また、たとえばこういう不安から過呼吸になりそうになったとき、それを伝える相手がいないと思うと、恐ろしくてたまらなくなるのだった。私はこれまで、どれだけ彼に、身近な人に、助けられてきただろうと思う。

動悸がひどくて仕方がないので窓を見る。さっきまで晴天だったのが、真っ白な空に、雪まで降っている。しかも大雪。真夏なのに、ギョッとする。外とは、知らないことばかりだった。こんな天候で山のほうまで行くと遭難するのではないかと思い、少し栄えた駅で降りた。携帯を見て、メールを確認するが、返事は来ていない。ああ、『銀河鉄道の夜』に出てきたザネリって子は、今の私のような、こんな心情だったんじゃないかなとか思う。私はジョバンニにはなれなかったのだ。伝えられなかった感謝は、伝えられていたら、良かったのだろうか。でも、私の感情を、歪まないでそのままの姿で伝えることなんか、できるのだろうか。認めたくなくても、そんなのはもう関係なく、ひたすらに無限に湧いてくるこの後悔は、先手を打って対処しておけば、良かったのだろうか。でも、今までだって、できることをできるだけやってきたのではなかったか。何も何もわからなかった。
 
栄えた駅に着くと、みんな一斉に降り出した。自分も群れに混じって下車できた。この土地のことをわかってるふうな、当たり前のような顔をして。擬態に成功した。こうやって少しずつ成功体験を積んでいけばいいのだ。失敗と成功が同じくらいになれば、きっといつか人並みになれるだろう。これくらい信じていないと生きていけないよ。本質的な成功じゃなくともいいのだ。
空を見ると雪は止んでいて、虹が架かっていた。青森では雪の後の晴れで虹が架かるのかあと、びっくりする。住宅街のひとつの家に、虹のはじまりが見えた。駅を降り、せっかくだから写真を撮ろうかと思う。リュックからカメラを探すが、見つからない。肝心な時に、いつもカメラは見つからない。後から写真を撮りにきた人の邪魔になったようで、「どいてくださーい!」と声をかけられる。意志の弱い自分は、撮ることよりも退散を優先した。歯食いしばって外に出る。また失敗体験が…と思いかけたとき、いやここからでも撮れるだろうとカメラを空に向けると、もう真っ暗だった。刺すような漆黒で我に返り、また現実の不安が戻ってくる。寒いし。雪で濡れた靴が冷たいし。突然遠くで花火が打ち上がった。それは目覚まし時計の音だった。
 
● ● ●
 
うたた寝の直前に、人の日記はいいものだと、思ったんだった。日記のよさって、よく分からなくなっていたけど。今はとてもいいと思った。多分、淋しいからだろう。日記は、読むならブログがいい。本物の日記帳とか、書籍化された日記というのは、自分は、あまり読めない。本物の日記帳は、踏み入ってはいけない領域という感じがして、みてはいけないものと思うから。本は、日記じたいというより、内容や構造からメッセージを探してしまったり、受け取ってしまったり、してしまうからだ。ブログも人の目を意識されているが、その細い糸のような意識…外部へのつながりが見えるから、だから読めるのだと思う。無関係な誰かの人生を覗き見て、「無関係だから」安心するんじゃなくて、開かれた小さな窓から、むしろ「関係し合ってしまうから」、安心するのだ。ひとりとひとりが横にいるから、眠れるのだ。言葉を発して、気持ちを抱いて、沈黙を貫いても、それがどこにも作用しないなんてありえないだろう。

何年続いてるんだというブログを見つけると嬉しくなる。あなたが重要に思ったことを、あなたにしか伝わらなそうな言い回しで書いてあるのを見つけるたびに、ありがとうって思う。なんでだろう。

傘

 

自分の目で見られる視界は限られていて、見たいと思っていてもあぶれる領域はある。良いも悪いもなく、ただそれだけということだ。見えているものを、信じたり執着するのではなく、ただ向き合うことだけだ。自分にできることは。失敗はするものだろう。淋しくなるだろう。それでも、全部をあきらめるには早すぎる。石にも花が咲くんだって。

雨。
今日は郵便ポストに手紙を投函するために外に出て、ザーザー降りの雨と外の涼しさにびっくりした。昨日の暑さが嘘のよう。昔描いて、ひとに見せられるもんじゃないと思っていた絵を久しぶりに見たら、絵の中の水はきらきら、花はたしかに咲いていた。私はあの時、どうしてそんなことを思ったのかわからなくなった。

B'z部屋雑記



B'z部屋雑記。「恋」を切り口に、よく聴く曲を順番に聴いてみたり。

◯ ◯ ◯ 

1992年『恋心(KOI-GOKORO)』では、「忘れない 恋心/いつまでも 恋心」から始まり、「どうしよう うまくいかない恋/こんなとき もっと大人になりたい」と語り「二度とは戻らない時間を/笑って 歌って ずっと/忘れない いつまでもあの恋/なくさない 胸をたたく痛みを/汗かき 息はずませ走る/日々はまだ 今も 続く」と続く。

1995年『LOVE PHANTOM』では、「欲しい気持ちが成長しすぎて/愛することを忘れて/万能の君の幻を/僕の中に作ってた」、「がまんできない/僕を全部あげよう」そして「幻をいつも愛してる/何もわからずに」になる。
 
2000年『今夜月の見える丘に』では「たとえば どうにかして 君の中 ああ 入っていって/その眼から僕をのぞいたら いろんなことちょっとはわかるかも」から始まる。 「痛いこと 気持ちいいこと それはみんな人それぞれで/ちょっとした違いにつまづいて またしても僕は派手にころんだ」「傷ついて やっとわかる それでもいい 遅くはない」最後に「いつでもそうやって笑ってないで/かけらでもいい/君の気持ち知るまで 今夜は一緒にいたいよ」で終わる。
 
2009年『イチブトゼンブ』では、「すべて掴んだつもりになれば/また傷つくだろう/ほんとに要るのは有無を言わせない/圧倒的な手ざわり/愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに」、「すべて何かのイチブってことに/僕らは気づかない/愛しい理由を見つけたのなら/もう失わないで/愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに/それだけでいいのに」となる。

2024年『イルミネーション』では、「君の1番好きな/歌を聴きながら進もう」から始まる。「曲がりくねった道をハモり/進む君と僕のハイビーム」…この曲の中で進むのは、<まっすぐな道>ではない。「ホントにあるよねウソじゃないよね/夢で見たイルミネーション/誰かが誰かのために灯す/愛まぶしたセレブレーション」はじめのサビでは不安が込められた疑問形として歌われる。その後は「ホントにあるんですウソじゃないんです」と断言するように2回歌われる。「ガッカリもションボリも丸めて/噛み締めて飲み込んで/ずっと諦めないでいられたら/クライマックスは続く」、「ホントにあるんですウソじゃないんです/ユメが萌えるイルミネーション/生まれたこと誇れるように/その心飾るでしょう」となる。

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作詞の稲葉は『恋心(KOI-GOKORO)』で、「忘れない 恋心/いつまでも 恋心」と歌ったが、「恋心」を、いつまでも忘れなかったからこそ歌えたのが『イチブトゼンブ』、「愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに」、なのだと思う。また、『LOVE PHANTOM』での「(そして私はつぶされる)」…派手にころんでも、『今夜月の見える丘に』で「傷ついて やっとわかる それでもいい 遅くはない」と歌う。そして、『恋心(KOI-GOKORO)』で「こんなとき もっと大人になりたい」と歌った、その「大人」の姿というのは、疑問形ではなく「ホントにあるんですウソじゃないんです」と断言できるようになった『イルミネーション』なのではないか。
 
彼の作詞はほんとうに見事で、改めて歌詞を読むたびに驚いている。詞の中では、むずかしい言葉を使っていないのに言語化できないような感情が綴られている。まず、詩ではない、そして、訴えでもない。受け取ったときの感触は、意外と丸みを帯びている。それがほんとうにすごいと思っている。上記で引用したラブソングっぽい曲たちの歌詞を追っていくと、一見、「誰か」と「誰か」とのあいだに生じた「恋」や「恋愛」のことをうたっているようにみえる。しかし、よく読んでいくと、「歌」と「あなた(私)」との対話のようにも受け取れる。それは、『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』(1993年)での「そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは/僕とずっといっしょにいる方が 気持ちよくなれるから」という一節を聴いたときに感じたことだった。詞の内側の人物への言葉ではなく、この歌を聴いている、私に向けての詞だと。本意は知らないが。また、「気持ちよく」という表現も重要で、「これは音楽である」ということを強調しているように見える。先にも述べたように、詩ではないし、文学や指南書でもない。ずっといっしょにいることで「正しい方向に導く」なんていわない、そうではなく、聴くことで「気持ちよくなれる」という。(耳に残るメロディがあり、歌声があり、最後に詞が届く。この過程を考えるに、気持ちよくなるのに詞はあまり重要ではない。だからいちいちこうして詞に感動するのは我ながら野暮であって、本質ではないのだろう。でも語りたいので、野暮を前提としながら進めてみる…)そして、稲葉の詞やB'zのことを「信じる」なんてしなくていい、ということを、『愛のままに〜』でのこの一節では明確に語っている。鋭利さが徹底的に研磨されている感じがある(そういう空気を作る松本の存在を勝手に憶測する)。メロディや歌声がパワフルで大きくてギュインギュインしているのにたいして、ものすごく繊細に作られている感じがある。こういう部分が私がB'zに感じる「丸み」なのだと思う。
 
ほとんどの楽曲の歌詞からは「生きていくこと」、「共に生きていくこと」を、絶対に諦めない姿勢を感じる(松本のギターのソロパートからも同じことを感じたりする)。詞については、バンド内で研磨しつくされた結果であるのだろうが、私にとってはその姿勢をもつことも、貫くことも、まったく容易なことではない。だから、このような心を持っている稲葉に対して尊敬したり、楽曲を崇高なものとして扱いたくなってしまうが、そのような消費の仕方というのは、惜しい気がする。これは稲葉独特の感情、あるいは、単なる <やさしさ> 、言い換えれば自己犠牲のような精神から生じたものなどではないのだろう、と感じるからだ。受け身の姿勢で聴いてしまう私は、こういう表層に見える稲葉のやさしさにどうしても「やさしいなあ」と感動してしまう。こういう捉え方になると、他人事のようになって、鑑賞者は楽になる。同時に、自己嫌悪の余地が生まれる。稲葉の語ることは、語りたいことは、きっとそんなものではない。魅力や、色気や、ズルさにもなるような「やさしさ」をやっているわけではないんだと感じる。稲葉の詞に感じるやさしさとは、B'zというバンドがもつ姿勢から生まれるのではないか。

稲葉の詞から感じるやさしさを考えると、数年前にアドラーのことを勉強していて知った「共同体感覚」という言葉が連想される。私たちが目指すところらしいが、私は全然理解できていない。それに、勉強したことは、残念ながらほとんど忘れてしまった…。だから、それが具体的になにかと問われても、本をそのまま引用したようなことしか言えないために、意味がないので、省略する。ともあれ、この言葉を思い浮かべると、私はいつも、窓から見える煙のようなものを空想する。ちょうど今描いている絵のような、いつも浮かんでいる、雲みたいなもの。それは、誰でもが見えるものである。稲葉が書こうとしていることの先には、そういうものがあるのではないか。ゆっくりでもいいから一緒に走って生きていこうと、そういう形での「共存」を提案されているような、健やかさがある。太陽のように眩しい。それはそのまま彼らの関係にも言えることではないのか。というか、B'zそのものではないか。彼らのあいだのこと、その内側のことを、全然知らないが、知ろうともしていないが、私にはそのように見える。だから私はB'zを聴きたいと思うのだし、だから好きだと言っていたいのではないかと、今日もチャゲアスばかり聴いていたが、聴いてしまっていたが…考えていた。のでした。 
 
※B'zのお二人には、敬意を込めて、あえて敬称を略させていただいております。無礼をお許しください。 

蜻蛉 / 不安、安心

 

自分の目が信用ならない。少し目を離したら、絵が全然違うように見えた。どれが正常な見え方なのかわからない。とっくに枯れたトルコキキョウのことを思い出しながら色を塗ったら、家の周りを飛ぶ黒い蜻蛉みたい。

ソファから起きあがろうとしたら腰が痛くて動けなくなる。右手と目さえあれば絵は描けるだろうと思っていたが、腰のことは盲点だった。不安が襲ってくる。しばらく安静にしていたらおさまってきて安心。しかし気を抜けばまた痛めそうな雰囲気がある。怖い。絵が描けなくなったらどうなるのだろう。ショックだったのか、治ってきていた動悸が復活する。
引っ越してきてはじめての歯医者に行く。なにをされているのだかよくわからないまま、気づいたら2時間が経っていた。時計を見て、今日も何もできずに終わるんだろうか…と半絶望したところで、レントゲンの上顎のあたりを指しながら、「ポリープがあるかもしれないので、次回CTを撮りましょう」と告げられる。親身に話してくださるお医者さんだった。話のなかで、言葉を多く使う方だった。それで、少し疲れてしまった。中で、「手術」というワードが出た。手術…。今の、すこしおかしい自分の頭、アッパラパーな私には、それら全ては不安というカテゴリに集結されるが、それ以上に、宣告は、特大の不安である、苦手だ。明日にでもCTをお願いしたいが、来月まで予約が埋まっているとのこと。先延ばしの不安ができた。動悸が続く。そろそろ過呼吸にでもなるんじゃないかと、不安が追い打ちしてくる。

歯医者から出たら、空は桃色になっていた。今日もなんにもできなかった。しかし、外は涼しかった。救いだった。いろいろあきらめてヤケクソで隣町まで散歩することにした。描かないが、描かなくても、花を買おうと思い、好きな花屋まで歩く。何回行ってもおぼえられない店までの道のりでは、今日もしっかり迷った。なんとか着いたが、もう真っ暗で、それは自分の心情のようだったが、こんな時間まで開けてくださっていることに心底救われる。ほんとうにありがとうと思う。花はきれいで、優しい店員さんは眩しく、大きな包みを抱いて、大事に歩く帰り道は、不安は変わりないが、ささやかな安心に包まれていた。

あくび



雲とか花に感動し出して、そのほかのいろんなことがほんとうにくだらなく思え、どうでもよく思え、なんというか、自分はそんなにきれいな人間じゃなかったはずだろうという違和感が生じた。そんな変な感じが数日続いて、困惑している。すぐにおさまるものだと思っていた。怖いものだらけだったのが、そんなに怖いとも思わなくなった。焦る。興味のあることや、やらなければと思っていたことにも、力が入らない。興味とか、生きようというフックはあるのだが、それを釣る体力が、ずっと少ないという感じ。防衛本能のようなものなのか、それともほんとうに変化してしまったのか。老いのひとつなのか。若くありたいとか、本気で思ってしまった。しがみつくように、少しでも心動くものに執着する。怖い怖い(怖い?)。何十時間眠れば、満足に眠れたような気持ちですっきりと起きれるんだろう。恋煩いのような動悸はいつになったら止むんだろう(もしかして本当に恋?(何に?))。なんだか、途方もなく淋しくて、亡くなった猫に会いたくなる。いつでも会いたいが、とくに最近は。現世が、どうでもいいことばかりで。悲しいとすら思えなくなったら、私はどうなるのだろう。百億光年の孤独のこと考えて、私は、あくびが出る。