私の目がカメラのレンズだとしたら、輪郭線が過剰に強調された、しかも間違った線を拾われた、心霊写真のような、奇妙な写真ばかり出力されるだろう。
今、左腕に蕁麻疹ができている。昨日薬を飲まなかったからだ。理由が明白だから、心配することはない。しばらく続いている、胃の鈍い痛みの原因は、わからない。なにかに疲れているが、なにに疲れているかもわからない。予想はできるが、確定するだけの材料が足りない。わからないことは不安だし、足りないことはもどかしい。病気不安の根源を考えると、あいまいなものに耐えられないからだろうと結論が出る。自分会議において、そのすべてに結論を見出そうとするのも、結局は、私の性質なのだと思う。私はいつも自分に囚われている。
なにかを描こうとするとき、輪郭線を使わないと、形を捉えられない。それは学生時代に教わった日本画的な物の捉え方が根付いているということなのかと思っていたが、これももしかしたら、私の根源にある性質、安心の姿が由来なのかもしれない。風景が描けないのは、ひとつのこらず捉えなければいけない、と硬い頭で考えてしまっているからだ。
知らないものを描けるわけがないから、知ろうとするところから始まる。それで、知ろうとしても、決して踏み込めない領域があることに気づく。だから、わからないことを色や技術でカバーしようとしたり、知ったかぶりをしようとする。それほどの技術も意志も想像力も持たない私に、嘘は難しい。早々に限界が来て、やっとあきらめる。私の絵はいつもそんな手順をもって描かれる。いや、むしろ、あきらめたところからはじまる。絵を描くことは、私にとっては、あきらめることに近いと思う。折り合いを付けるとも言えるのかもしれないが、今の私にとってはまだ、「あきらめ」という言葉のほうが正直である。視界に入った隅から隅までをちゃんとあきらめなければならないと思うと、広ければ広いほど苦しい。だからやはり静物が優しい。実際、静物を観察すれば、その奥深くに、見たかった遠景が見えてくることもある。だからやはり、見える範囲のものを、徹底的に描写するというのは、少なからず、私のような性質を持った人には適しているのではないかと思う。描けない悔しさは、悔しさとして、持っていたらいいとも思う。行きたかった場所に続く地図になるから。
家の窓から見る空と、外で見上げる空とは、まったく違う景色に見える。雲の柔らかさとか流動性に驚かされる。私が室内で首を曲げて腰を痛めて追ってきた雲の形は、何一つ残っていない。室内で感じる虚しさなど、一歩外に出れば、すぐに打ち砕かれてしまう。
