雲とか花に感動し出して、そのほかのいろんなことがほんとうにくだらなく思え、どうでもよく思え、なんというか、自分はそんなにきれいな人間じゃなかったはずだろうという違和感が生じた。そんな変な感じが数日続いて、困惑している。すぐにおさまるものだと思っていた。怖いものだらけだったのが、そんなに怖いとも思わなくなった。焦る。興味のあることや、やらなければと思っていたことにも、力が入らない。興味とか、生きようというフックはあるのだが、それを釣る体力が、ずっと少ないという感じ。防衛本能のようなものなのか、それともほんとうに変化してしまったのか。老いのひとつなのか。若くありたいとか、本気で思ってしまった。しがみつくように、少しでも心動くものに執着する。怖い怖い(怖い?)。何十時間眠れば、満足に眠れたような気持ちですっきりと起きれるんだろう。恋煩いのような動悸はいつになったら止むんだろう(もしかして本当に恋?(何に?))。なんだか、途方もなく淋しくて、亡くなった猫に会いたくなる。いつでも会いたいが、とくに最近は。現世が、どうでもいいことばかりで。悲しいとすら思えなくなったら、私はどうなるのだろう。百億光年の孤独のこと考えて、私は、あくびが出る。
手のひらのともだち
ためいきみたいにあらわれる、「手のひらのともだち」のグッズをいくつか作ってました。昨今の夏は厳しすぎますから、なにかたのしいことを…と思って、うつろなまなざしで描いたキャラクターたちです。苦笑… 刷り上がったものを見たら、自分のうつろなまなざしとはかけはなれたポップさでなんとも嬉しくなりました。ありがたいです。
ほんとうはもっとお祭りの屋台みたいに販売できたら楽しそうなのですが、通販だとそうもできないので、同じ柄のシールこんなにいらないんじゃない?とも思いつつ、4枚入りです…。私の中では定番の…世間からはただの謎キャラクターですが、興味をもってくださる方がおられましたら、ぜひのぞいてみてくださいー。
お店はこちら→ ✩
退屈、異界
病院のために外に出たら、空は晴れてるのに雨がぼたぼた降っていた。急に眠くなって昼寝をしたのはこの雨のせいだったらしいと納得した。思ったより涼しかったので、ASKAの『Kicks』を聴くために、花屋まで歩くことにする。心がふやけている。そういえば二週間くらい前にも、同じように晴れの雨降りのなか、チャゲアス聴いて花屋に向かったんだった。
退屈というのか、虚無感なのか、自律神経のいかれなのか、失踪欲なのか、わからないけど、雲とか瓶とか水とかカーテンとか皺とかに、飽きてきている。なんとはなしに、たぶん描くだろうな、という気持ちで選んだ花が(またトルコキキョウを選んでしまった)、ひとつの希望みたいに思えていることに驚いた。花を選んだ帰り道、そんな気持ちになるのなんていつぶりだろう。というか、今まであったのだろうか。
子どものころ、異界へのあこがれのようなものがあって、異界を想像すると、よい胸騒ぎがするのだった。子どもながらに「この感性はきっと忘れてしまうものだから大切にしよう」と何回も思ったものだが、成人したあたりから、異界を想像しても、あのころのような胸騒ぎまでは起きなくなってしまった。感性というのは、意思でどうこうできるものではないのかもしれない。いつからか、異界へ行くよりも、なつかしい声をまた聞きたいとか、会いたいとかのほうが、願うようになった。仕方ないとはいえ、つまらない人間になったなあと思う。死って、こういうところにも作用するのか。
夕暮れの空は、ワケがわからないくらい美しく、今日も今日とて見事だった。
今日のような夏の雲をじっくり見ていると、しかし、あのころと同じ胸騒ぎが起こった。それは、その雲そのものへの胸騒ぎではなくて、雲の凄さに圧倒されて、気が遠のいて、自分のことを忘れてしまうような感覚だった。飽き飽きした「日常」そのものへの胸騒ぎだったのだと思う。だから一瞬でおさまった。すぐに退屈と陰鬱の自分にもどった。たしかに、自分の生活というのは、異界そのものなのだ。なのに、その中にいるときには退屈すら感じる。摩訶不思議。花が希望かあと、少し恥ずかしくなる。どんなに筆が重くても描けるうちは描くよと思う。花で気をまぎらわすくらいの精神状態でも、情けなくとも、まぎらわしながらでもやるよと思う。
ほんとうに夏は疲れる。
まるいこころ
おやき。具材を包んで、まあるくしていったとき、漠然と、腑に落ちたことがあった。歪な丸は、こう在りたいと思う心のかたちに似ている。自分の中にあるとんがりは、やはり、できるだけ排除していこうと思った。鋭利になると、視界が狭まって、かつて見たかったものまでを見落とす。懐かしい絵を見たとき、感情が激しく揺れ動くのは、その絵が「よい」からではなかった。私が見えないつむじのあたりを、不意につついてきて、思わず涙が出そうになるのだ。通りすぎたもの、あきらめたこと。悔しいか、淋しいか。それでいいじゃないか。そのままを抱きしめたらいいじゃないか。撫でてみたりしたらいいじゃないか。まるいこころ。いつまでも持ち続けていれたらいい。
内省ラッシュ
もう一週間も絵を描いていない。スケッチブックを開く気にすらなれない。今日は描こうと思っていたのに、遅くに起きてからずっと内省していた。おおくの人が帰省ラッシュにのぞんでいるらしい。そういう時期なのかもしれない。
猛烈にノートを書いていて、内省っていいのかもしれん、と呑気に思った。少し前までは内省ではなく、懺悔や、反省だった。そのときの自分はというと、絶望ばかりだったから。今の自分は、少なくとも、歪みまくった認知を、「歪んでいる」と、少しずつでも認識できるようになった。歪んだ視界であっても、なるべくまっすぐに受け取るべく、そのための方法を考えられるようになったし、そこを努力できるようになってきた。その変化だけは、成長であるとして、嬉しく受け取っている。
内省。
喋りすぎた、と後悔したとき。そもそも、主張したくなるとはどういうことなんだろうと考える。このブログで書いていることも例外なく主張ではある。そう思って書いてきている。けれど、これがじっさいの会話や、なにかにめがけての主張であるならば、そこにはもっと明確なものが含まれている気がした。だから、ここで考えているのは、おもに、会話における主張についてのことである。だれかとの会話において、自分はなぜ主張したくなるのだろう、と考えるに、私の場合は、その多くが、矯正欲を孕んでいるように感じる。または、承認欲求。それに付随する、反応欲のようなもの。それらも、よく生じる。自分の悲しみや淋しさをもちだして、共感を強いることの傲慢さ、そして無意味さ。(悲しみも淋しさも、誰かに共感してもらわずとも、自分の心の内側に、絶対的なものとして存在しているはずなのだから)ここに挙げたもののどれひとつにも、自分は気づくことができないでいた。こうして書き連ねると、なんて情けないのだろう、なんて未熟なのだろうと思う。泣きたくなる。しかし、自覚できただけ、まだマシであると思いたい。
とはいえ、それらの欲求を抱くことも、主張することそのものも、もちろん、悪いわけではないのだと思う。そうしてでも伝えなければいけないことは、たくさんある。ただ、それが無自覚におこなわれることは、とても危険なことなのだ。そのことを、よく自覚しておかなければならない、と、強く思ったのだった。
自戒をもちながら、ここにひとつ、主張を書いてみる。
私は、「〇〇だから〇〇の資格はない」 という論法について、とにかく慎重にならねばならないと思っている。問題の本質がすり替わることがあるように思うからだ。そもそも、資格というものを持ち出すとき、人はどんな裁量をもってはかっているのだろう。ここが曖昧である限り、なんの秩序もない、まったく意味のない言葉となるのではないか。だれにでも等しく人権はあり、それを踏み躙るようなことは、決してあってはならないと、ずっと思っている。私は時々、自分とは無関係のひとたちのあいだで起こったことに関して、勝手に傷つくことがある。その多くは、人権の意識の低さに由来していたように思う。とても淋しく、強い憤りを感じるのだ。
人権が守られていないということは、他者の命が簡単に奪われてしまうことと、決して無関係ではない。それは本当におそろしく、絶対にあってはならない。人権意識の低下は、そのような世界と、地続きであるとしか思えない。だからこそ、そのような論法には、もっと慎重であるべきなのではないか。
⋯主張のつもりで書いてきたけれど、読み直すと、これは問いかけなのかもしれない。私は、主張したいことなど、本当はないのかもしれない。
影を産み出すから光は優しい
漠然とらくがきの漫画を描き始めて、続いてしまって完結できなくて結局数日費やして、(そもそもが汚すぎるので無茶なのだが)できるだけ見やすくしようと明け方まで編集作業(足掻き)。絵も描かず、外にも出ず、なにをしているんだろうと思ったりするが、らくがきだってなんだって、やるときは手を抜かず真剣にやるんだと決めたので、仕方がない。本意が伝わらなかったとして、とくに悪いように伝わってしまったとして、それを相手に押し付けるのは、傲慢だと思うようになった。自分の落ち度をしっかり認識するようになった。描くならば、描き切らなきゃ意味がないんだと思う。へたくそな漫画を本気で必死で描いては、刃牙を読み、面白さに動悸がしてきて、桃を食べ…いつかの夏休みのような日々を過ごす。今日はノートを広げて、宮本武蔵と範馬勇次郎の関係性、また、なんで刃牙に宮本武蔵がでたんだろうということを、ひたすら考えた一日になった。本当に小学生のようでびっくりする。
『グラップラー刃牙』、『バキ』、(あいだで『疵面』、『創面』)『範馬刃牙』を読破して、『刃牙道』に突入し、読み終わってしまった。あまりに『範馬刃牙』のラストシーンが美しかったために、先に進むのを躊躇していたが、親子喧嘩後の世界を見ることができて本当によかったと、今では心の底から思っている。本人が認めぬ客観的なものであれ、事実上の勝利によって、打ち砕かれないとおもっていた強く大きな世界観を粉砕された。それが、清々しかった。強者が強者でいられなくなるのではないかと、少しでも不安がよぎった自分がバカだった。そんなにヤワじゃないんだわと突っぱねられた気持ちになって、嬉しさが込み上げる。なのに、愚かにも、私は今、『バキ道』に進むのが怖くてたまらない。
宮本武蔵はほんとうに好きだった。本部も、烈も、というか、気付いたら、みんな大好きだった。それでも憧れるのはやっぱり花山薫だ。キャラクターの死や成長ではなく、ただかっこいいというだけで号泣したのを、はじめて経験した。花山は初登場のときからなんにも変わってなかったから、ただ自分が花山を近くに感じただけなんだろうと思う。『刃牙道』になってからページをめくる手がずっと重くなった。
武蔵が花山に見た「光」とは、花山のもつ「義」なんではないか。臆することなく、振り返ることなく、ブレることなく、真っ直ぐに、捨て身で振るう渾身の一撃。その姿は、それ自体はまちがいなく狂気である。それでもその美学に心打たれる。同じように武蔵も打たれたんじゃないか。少したすかったんじゃないか。
花山が殴ったところで、相手が死んだところで、戻ってきてほしいものは戻ってはこない。失ったものは失ったままだ。だから花山のパンチは、単純な報復や報いというより、それぞれが抱える恨みや憎しみへの弔いなのではないか。そしてそれは、相手を含め、生きているものへの救済でもあるんじゃないか。
(日記が少しずつ刃牙に侵食されてきて、しらない方には申し訳ない思いでいます。スミマセン。気になる方はぜひ読んでみてくださいね。他人事とは思えない漫画です)
らくがき漫画 / 真夏の夜のダイヤ
らくがき漫画(2026-8-8)
真夏の夜のダイヤ
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頭が考えごとで煮詰まると漫画を描きたくなることがある。そんな時はいつも、手のひらのともだち・ダイヤ兄弟たちが体を張ってあらわれてくれる。彼らはいつもバカで真面目で真剣だ。笑われようとも、ばかばかしくとも、恥ずかしくても、ずっと彼らが大好きだ。
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おまけ
遠く
花だけがうまく描けず、完成できないまま数日経った。先日買ったトルコキキョウは一夜でうなだれてしまったから、うなだれた花を見ながら描いている。描けるわけがない、と思いそうになるが、想像力が足りないというか、活力がないだけなんだろう。描けるはず。明日はがんばりたい。今日が日曜日だということを歯医者に電話が繋がらなくて思い出す。夜に盆踊りの音が聞こえた。私は階段に蝉や蜻蛉がいたらどうしようという恐怖で家から一歩も出られていない。力がでない。いろんなものが遠くに感じる。
今日もチャゲアスが沁みる。もしかしたらチャゲアスのアルバムだと『NO DOUBT』がいちばん好きなのかもしれない。今だけかな。「ここを 角を曲がろう」ってフレーズが耳に残る。どうしたらこんな歌詞を、曲を作れるのか、まったく検討もつかない。
(そろそろB'zを聞かなければー)
SAY YES / 皺、自負心
昨日。
チャゲアスを聴きながら花屋に向かう。ASKAの声が沁みるのは、いつも少し心が脆いときだ。花屋に着いて、耳栓代わりのイヤホンを外す。なぜか、チャゲアスが鳴り止まない。あれ?と不思議に思ったら、店内でもチャゲアスが流れていた。
曲は、「SAY YES (STAMP Version)」。有名な「SAY YES」を、2002年にセルフカバーしたもの。流れていたのがオリジナル版だったなら、大ヒット曲ということもあり、「お。ラッキー!」程度で済んだのだが、STAMP版ということで、「なぜ?」と、なんだかそわそわしてしまう。外で聴いたことはなかったから。暑さでついに幻聴が聞こえ始めたかとも不安にもなる。
しかし、もしもこの曲を選んで流しているのだとしたら、私が好きなこの花屋も、私が好きなチャゲアス好きということになるのではないかと(冷静に振り返ると、チャゲアス好きなんてありふれている)気になって仕方がなくなる。それで、会計のときに、ついに「チャゲアスがお好きなんですか…」と店員さんに聞いてしまった。
絵を展示させていただくようになり、居心地がよいと感じていたお店が、単なる客と店員という関係ではなく、顔見知りとなることも増えてきた。それはそれでありがたくうれしいものだが、引っ越してきて新しい町では、なんとなく通行人でいたかった。なのに、自我がはみ出て、防ぎきれず、聞いてしまったのだ、不覚にも。
が、盛り上がることもなく、「ただ流れてきただけなので…」と返事をいただく。ホッとすると同時に、ほんとうに恥ずかしくなる。そして、有線が流す曲の幅広さをはじめて知って、驚く。「SAY YES (STAMP Version)」の途中で入店して、終わらぬうちに退店。こんな速度で花を選べたのははじめてかもしれない。ピンときたものがすぐにあったから、恥ずかしさ由来というわけでもないのだが。
恥ずかしさには目を瞑って⋯、ともあれ、好きなアーティストの曲を外で、しかも不意討ちで聴けるのは嬉しいものだと、しみじみ思う。私は、「SAY YES」はオリジナル版で満足してきたので、わざわざSTAMP版を聴いてこなかった。が、改めて聴いたら感動してしまった。サブスクでなんでも聴けてしまうことにも驚きだ。これまで聴いたとき、なぜしっくりこなかったんだろうと考えると、サブスクで気軽に聴いてしまっていたからかもしれない、とも思う。音楽との出会いは変な場所で、サプライズ的に発生したりもする。その現場は意外にも、情報溢れるネットよりも現実のほうが多かったように思う。この事実に、明るい気持ちにさせられる。
ASKAのことはよく考える。「SAY YES」をうたったときの心と、カバーしたときの心は、きっとかなりズレがあるのだろうと勝手に感じて聴いているが(「群れ」でうたっているように)、過去と今がズレていても、ズレながらでも歌うことは、意味があるのだろう。こうして感動させられたのだから。音楽というものは、人間よりも人間であって、どこでも、何度でも、出会えるものなのかもしれない。
今日。
一日カーテンの皺を描いていた。描いては覆い、描いては覆いの繰り返しで、皺は私に不毛な思い出や不安を想起させる。皺ばかり描いていれば、まあ暗くなるだろう。そんな思考の横に、毎晩読んでいる刃牙の登場人物たちが、毅然たる態度で佇んでいる。相変わらず、私は圧倒的に花山薫に憧れている。花山のように強くありたいと思っている。しかし、「強くありたい」と望んでいる時点で、「鍛えるのは女々しい」と謳うほど最初から強者としてうまれたらしい花山には絶対になれないであろうことも分かる。だから、私は、花山のことを慕う柴千春こそを、もっと自分ごととして見なければいけない。無限に繰り返される波のような皺に、何度でも挑み、何度でも苦しみ、絶対に敗北を認めないという精神を作らねば。
🐻 🐻 🐻
熊本の地震の義援金の情報が出ていました。
役に立つかはわかりませんが、貼っておきます。
わからない
わからないってすごいことなのか。
最近、作業中には、穂村弘さんの出演したラジオや番組を探して、片っ端から流している。短歌もエッセイも読んだことがないのに、一回声を聞いたらまた聞きたくなったので、ずっと聞いている。それで、べつにそんな内容の話をしていたわけでないのに、そんなことを思った。今、自分の視界にひろがる景色と、穂村さんの言葉が、そのように接続された。
「わからない」。それは、真っ暗な部屋で、手探りで、「わたし」と「外」との境界線を見つけるような発見。深いはずなのに、分厚く覆われているはずなのに、境界が急にみえてくる。
笑えないお笑いはすごい。のれない音楽はすごい。ついていけない会話はすごい。わからない、は、本当にどこまでもわからない。わからないから描こうとする。わからないから嫌悪する。わからないから恐怖する。わからないから愚かになる。しかし、それでも、わからない、は、正しいと思う。
花 ✤ 展覧会の記録 @えほんやるすばんばんするかいしゃ
photo by Yume Ichimura,Ehonya Rusuban Bansuru Kaisha
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✶ special thanks ✶


























