靴と歪み

 

起きた瞬間から瞼が落ちそうで、のろのろ動き休憩、そろそろ昼かなと思ったら夕方。まだ描き始めてもいない。戦争の夢を見たのと(昨日だったか)、気圧のせいかもしれない。数日ずっとこんな調子だ。あまりにも冴えないので、ネットでなんとなく素敵な靴を探していたら、一見とても美しく素敵な靴だが形が完全に範馬勇次郎の靴‥を発見し、思いの外元気が出た。欲しいものができた。そんな感じで回復してきて、夜から描き始めると、案外進めた。

ミュージシャン二人の対談映像を見る。二人ともに全然興味がないので歌も聴いたことがない。けど、おすすめに流れてきたので、作業中に聞いてみる。全然噛み合ってない会話が漫才みたいで面白いなと思った。気まずさもたまらなく、しかしさすがにたまらなく、リタイヤしてしまった。コメントを眺めてみたら、神二人の対談だと言う。二人は神らしい。
天邪鬼である限り二人の音楽を聴くことはないだろうと思う。

神格化は、ようするに認知の歪みの一種なのだろうなと、自分を振り返ってみて思う。尊敬して、視界が狭まって、何にも見えなくなって、目の前で精一杯生きている人間を人間でないものとし、決して対等ではない存在とする。それのなにが尊いことなのか?魔法というか、呪いというか。とてもばかばかしいことのように思えた。私はそんなばかばかしいことを、はずかしげもなく何度もやっていた。今こうして反省できることに本当に安心する。

小さな私

 

真っ白な空。
先日の雲を思い出しながら。
 
髪をほどくと胸くらいまでの長さになった。去年の春から切っていないので、まあ伸びた。鏡を見るとたまに誰だか分からなくなる。離人感みたいな現象が昔よくあって、そんな感じになることもある。当時は不安で、調べて調べて病院まで行ったことがあった。でも今はなぜか大丈夫だ。自分の体は自分じゃないような気もするし、全部自分なような気もするしで、魂抜けても、なんだかんだ大丈夫だろうと思う。私の想像することなどだいたい外れるからな。目的地の真逆の道を自信満々で歩き出すような人間。だからというわけでもないが、私は体のほうを信頼する。
 
絵は体で描いている。
想像力も技術もない私には、正直であることくらいにしか、絵を誰かに見せる理由を見出せなかった。そのためには頭は閉じて/体で描くという姿勢が有効で、それに気づいてからずっとそうしてきた。頭で描くと(これが未熟さなのだろうとも思うが)なにを描いても嘘や気遣いや見栄が混じる。体で描くと、思いのほか純粋でびっくりする。まあ、純粋に見えるだけなのだろうし、実際、完全に消えることなんてないのだけど。絵の中にひそんでいた小さな私に数年後に気づいた時はばったり過去の私と出会ったようで、そのばったりがおもしろいからずっと未熟でいいかなあ。
 
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相棒が不在でもたくましい子ペンギン
背景:意図せず、瓶に入った男 
 
『グラップラー刃牙』42巻読破・『バキ』に突入
✩花山薫が出てくるとつい笑顔になる
範馬勇次郎の言葉が刺さる
✩ずっと刃牙のこと考えてる

たのしいおしらせ / upendo 小さなスケッチ編

 

今日は気圧のせいか頭が痛くて割れそうになっておりましたが、皆様お元気でしょうか。
先日、長崎は大村にあります「upendo」というお店に、小さなスケッチを6点お送りしました。夏至から冬至のあたりまで、のんびり長く預かっていただきます🧳
 
飾ったり、仕舞ったり、自由に使っていただいて大丈夫です、とお伝えしているので、どんな展示になるのか、私もドキドキしています。お越しの際は、見ていただけたら嬉しいです。まだ未定ですが、夏のあいだはupendoさんがお休みになるかもしれないため、その期間は、絵がどこか散歩に出かけるかもしれません..🚃
 
飾っている絵は売っています。
通販希望のかたは、upendoさんにお問い合わせください。
 
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upendo
長崎県大村市田下町406
*upendoさんは不定休です。
 営業日・営業時間はSNSをチェックしてください

企画:熊谷麻那さん

つまらない勝利、すばらしい敗北

 

青森にて。
衝撃的に楽しい瞬間があった。そのたまらなさに、くらっとなった。あまりにも楽しいと、その瞬間には、笑みも出ない。倒れそうになるのだなと知った。
 
刃牙を読んでいると、弱いまま強く、とかじゃなく、普通に純粋に強くなりたいと思わされる。いい勝負をして、すばらしい敗北で終わりたいものだ。
どんな切り口でもいいから、まずは切ること。そして、掘り進める。つまらなかったことが、掘っていけばおもしろかったりする。我に帰るスキマなど、気がついたら消えている。それくらいにならなければ。と、いつもそんなふうに思ってきていたが、青森で、実感があったような気がする。たとえば、東京で感じていた小さな虚無感は、新幹線を降りて、外の空気を吸った瞬間に消失したようだった。まだ小さな虚無だったからかもしれないが。想像できたつもりになっていた知らない場所での誰かの暮らしは、ほんの1mmも当たっていなかったかもしれない、ということで、塞がっていた窓から、またすっと風が吹いていくようだった。自分の小ささを思い知ることは、本当に幸福なことだと思う。

一人行動の時間では、温泉に行こうと思って、ホテルから三十分くらいバスに乗って向かった。バスから降りて歩いている時、人っこ一人いない道と、どんどん暗くなる空に気づき、怖くなった。あと5分くらいの地点だったのに、温泉とは真逆に歩き出し、Uターン、帰宅。光の速さであきらめた。道中あった神社で一応拝み、遠くの岩木山を眺めて、じゅうぶんだったと言い聞かした。私のあきらめと同じくらいのスピードで暗くなっていく夕暮れ、バスを待っている時、うすむらさきの岩木山はやさしい輪郭をしていて、本当にじゅうぶんだったような気持ちになった。私はぬるい。すごくぬるい。今のところ、勝利も敗北もない。楽しかった。

お仕事 / duftさんの包装紙

 
 

大きすぎてうまく撮影できません。
duftさんの包装紙に絵を使っていただいています。おそらく第4弾の今回はこの絵でした。けっこう前からかと思うのですが、お知らせができていませんでした。
綺麗にほどくと大きなポスターのようになります。写真だと伝わらなそうですが、ラフな質感もお気に入りです。お花を買うと包んでもらえますので、気になる方はぜひduftさんでお花を買ってみてください。

duftさんでは、夏に花の絵を飾らせていただくと思います。
また花と一緒に花の絵を並べられるのが嬉しいです。おしらせします🏃‍♂️🏃‍♂️🏃‍♂️ 

デザイン:浦川彰太さん
お店:duft 
(東京都世田谷区梅丘1丁目33-9 2F)

月と石と光

 
 
熱の中で描いていた絵は歪んでいた。今日は熱が下がったので、冷静に直せた。おかしくなっていたんだな。三時間感覚で力尽きるが、時間の速度はとても早かった。夕方、誰かの淹れたコーヒーが飲みたくなって久しぶりに外に出た。うすむらさきの空に小さく白い月が浮かんでいて、さっきの絵の、花瓶にさした光に似ていた。
 
チュルリョーニス (何回書いても名前を覚えられない)の展覧会の記憶は、日に日に忘れていった。きっと故郷が大好きだったんだろうなという感想と、綺麗だと思った絵たちの断片と、会場で流れていたピアノの音の耳ざわりが残っている。絵そのもののことも音楽のメロディもほとんど覚えてない。霧のように散って幸せな景色の余韻となった。
石が大好きな友達と石を拾いに行った時のこと思い出す。ちょうど一年くらい経ったらしい。私はそんなに石を愛でられないし、さんざん描いている花のことだって全然。愛するってすごいことだと思う。すごい幸せなことだと思う。それ以外何もいらないんじゃないかと思う。
本当にずっとそう思っている。 
 
宇宙に巨大な石拾いがあらわれたら月は石のように拾われるのかもしれない。小さな私には花瓶の光にしか見えなかった。

消えたともだち

 

少し前、雲が見事だった日に、描きながら横目で窓を見ていた。ほんの一瞬。大きな雲から「おっすー」という感じで、何者かが顔を出す。なんとなく他人とは思えぬフォルムに感動したが、その後すぐに消えてしまった。

今日は朝、喉のざらざらで息ができなくなって起きる。風邪を引いた。お昼あたりからノロノロと花を描き出したら、意外と健康なときよりも集中、というか、没頭してしまった。息継ぎなく泳いでいるみたいで苦しい。こんなもんかと切り上げるタイミングがわからなくなっていて、気づいたら夜中だった。風邪を引くと普段の不安がいっそう強くなる感じがする。後悔が怖くて、やめどきがわからない。あきらめにはパワーがいるんだろうか。いるんだろうなあ。
 
昨晩いただいた花はその人がそのまま花になったようだった。包まれたときにはきれいとしか思っていなかったのが、家に飾ってみると異質が際立ってドキドキする。自分がよく描く花と同じ花とは思えない。全然違う。魔法みたいで不思議。というか、魔法なのかも。今日は風邪っぴきの夢の中みたいな状態で、いただいた花束からひとつだけ描いてみたくなって(風邪だからか珍しく)苦戦してた花を描き終わって剥がしてから、チャレンジしてみた。魔法にかけられてる花、魔法が解ける前に描きたいと思って急いだ。そのせいなのか、色々あいまってなのか、記憶があんまりない。どんな絵になってるのか思い出せない。明日起きたらスケッチブックが全部真っ白だったらどうしよう。しょうがないか。しょうがないなあ。
 

ラッキースター、ラッキーダイヤ。神出鬼没のともだち共。

故郷 / 三角


 

数日前、久しぶりに美術館へ。いただいた招待券があったから。
美術館は毎回憤慨してしまうのでいつからか苦手になってしまった。今回もまた憤慨したが、チュルリョーニス展には感動した。音楽の人の絵だった。美しかった。とても真似できない。絵の中にリズムがあり、一筆が軽い。足をとめて人混みの中長く眺めた絵をおぼえておきたいと思い、図録を欲しくなった。図録というのはとてもありがたく、しかし、原画とは全くと言っていいほど別物だった。なぜかほっとする。写真は一枚も撮っていないので、忘れてしまうだろう。
絵をもっと描こうと思った。下手でもいいから。描きたいもの、描かなければとおもうものがある限り、描いたらいいんだと思った。チュルリョーニスはきっと故郷が大好きだったんだろう。心の風景を愛してたんだろう。真意はわからないけど、なぜそう思うのかもわからないけど、そういう心はいちばん嬉しい。彼の中の美しい世界は現実にたしかにあったのだし、あるのだ。描くことで、少しは安心して手放せたんじゃないか。
 
今日。朝起きてまず漢方ぶちまける。気を取り直して味噌汁を作り始めたら間違えて夜ご飯を作り始める。「何してんだ?」と困惑して落花生の薄皮向きを横着することを決意すると二倍の時間かかっていることに気づき絶望。自業自得なんだけど、今日は大凶なんじゃないかと落ち込んできて、数日前の感動はどこへ、すべてのやる気が一瞬で消失。振り絞って散歩。帰りがけ家の前にカメムシがいらっしゃり、目を合わせないように情けなく震えながらなんとか乗り越え家のドアを開ける。そんな感じだったので絵は描けず、掃除したりキャロットケーキを作ったりしてあっというまに日が暮れた。ちいさな三角と夕暮れ空で少し回復。
 

 
とってつけたようなミントはすぐとりました

鯉を見る鷺と人

 

 
川の横を歩いていたら、バッシャバッシャと音がした。何事かと覗いたら、大きな鯉が溺れていた。水位が低いから苦しそうだった。(大丈夫かいな?)と眺めていたら、川辺にいた鷺も(大丈夫かいな?)と鯉を凝視していた。あの瞬間、私と鷺は同じ表情をしてたと思う。
 
とくべつ面白いわけでもとくべつ悲しいわけでもないが、妙に心がざわついている。6月になったからかもしれない。年々冷静になってきてはいるが、今年もやはり来ている感じがする。毎年梅雨に聴いている歌をそろそろ聴かないといけないのか。大好きな曲なのになぜか少し気が滅入る。雨は好きだけど辛くなる。でも今日は、絵はよく集中できて、とくに葉をうまく描けた。拍子抜けするほどあっさり描けちゃったので、多分花に苦戦して落ち込むだろう。蕾がしれっと咲いていた。見ながら描きたかったのに間に合わなかった。しょうがない。無。ひと段落するたびに台所に立って何かしらをして、また絵に戻って、この行き来があるから我に返らない、を保てている。スキマはある。危険。今まで乗り越えてきた6月を想う。
 
昔激怒したことをもう一回思い出してみると同じくらい激怒できる。自分でも少し引いているしびっくりするが、ふと、傷跡なぞるように生活おくると、気持ちはほぐれていくのかもしれないと思った。激怒は結果だった。結果についてをいくら考えても、治癒のために必要なものなど何も出てこない。火は燃え続け、傷を深くし、自傷のループができあがる。でも、ループはいつか点滅する。結果の前や背景にある、無関係で無数の営みの瞬間のひとつと、今この瞬間とが重なる部分を、気づいてみる、見つめてみる。思い出してみる。それで、私はやっと少し反省することができた。きっとそういうことでないと、私は治らない。この愚かさは、冷蔵庫の野菜たちを腐らせるのと似ている。
 
 ♦ ♦ ♦
 


 
勉強のため読もうと思って買った本は眠くなって全然進まない、レシピを参考にしようと思って買った料理本は毎晩熟読している。料理とは到達するものなんかじゃなくて、食べたいときに食べるために作るものということがもう深く分かった。あったりめえの話である。なるべく憧れないように読んでいる。闘いや、抗いのための料理はもうしないと思う。今日はズッキーニを焼いてお昼に食べた。Kさんからいただいた熊本のレモンを漬けたシロップも出来上がったので味見、味音痴なのでよくわからないけど甘酸っぱくておいしかった感じがしました

川がある




室内でも元気に育ってくれている植物 / Kさんからもらった巻物
 
今朝は用事で早くに起き、起きたら用事が消滅していたので、朝ごはんらしい朝ごはんを食べ、家を掃除し、洗濯をし、散歩に出た。
歩いて隣町まで向かう。川の岩に見たことのない大きさの亀がいて、3度見る。川辺には、ぼんやりしている鴨がいる。鴨はあの巨大亀のことを知っているのだろうか。どうしてそんなに呑気でいられるんだろうと本気で思ったが、ふりかえると不慣れの早起きで、眠くて見間違えただけかもしれない。
 
豆腐屋で、前のお客さんを少し待って、絹ごし豆腐を買ったとき。 「少しお待たせしちゃったから」と、油揚げをおまけしてくれた。私はその間、亀や鴨のことを思い出すのに忙しかったので、そんなそんな、と思ったけれど、嬉しくいただいた。
そこから花屋までの道中にある、不穏な張り紙と共に長期休業していたお惣菜屋さんが開いてた。閉店してなかったんだと嬉しくなって、はじめて入る。コロッケをひとつ買う。
 
それから花屋で。 もう何回花を買っているんだかわからないのに、今日も今日とて緊張して、花を選べない。落ち着いて考えさせてもらっているあいだ、店員さんはこちらを見ずに、しずかに待っていてくれた。そのおかげで決められた。欲しかったのは紫のぼんぼんした花だったが、描かなければと思ったのは背が高くてなめらかな葉の「トルコキキョウ」だと分かった。そろそろちゃんと葉を描かなきゃと思っていた。描くための花だけを買う。財布にお釣りをしまったり、お花を受け取って体勢を安定させるのもゆっくりのまなざしで待ってくれて、しまいにはお店のドアまで開けてくださり(この間、終始、目すら合わせられていない、無礼な客である)、またしても私は、待つことと、そのまなざしに助けられた、ように思う。
 
帰りがけ、やさしさの正体について考えていた。猫が亡くなったとき、ずっと考えていたこと「やさしさとはなにか」が分かった気がしたのだが、それを解剖することはできずにいた。野暮だとも思って。そりゃ自分もやさしくありたいが、結局どんな姿勢がやさしいのかわからなかった。おかげで真逆のことばかりしてきたようにも思う。それが近頃、暮らしの中で自然に気付かされることがある。今日は、自分の活動をやめなければ/あきらめなければ、いつかはそうあれるんでないかという結論が出た。「いつか絵を買いたいです」と言ってくれる人がいたら「そのいつかまで描いていますね」とまっすぐ言いたいし、だから、選べなくてもいいし買わなくてもいいと本当に思う、思っていたい。きれいなものだと思わなくていいし、なんなら貶してもいいくらい、ずっと流れてる川のように、自分というものが在れたら、なにかがようやく始まる気がする。書くまでもないが、その姿勢は強要するようなものではなく、流れている川にふと救われてしまったようなものであって、実際には川以外にもそんな存在は無数にある。そうありたいと願うのは、ひとつの結論であり、欲であり、それ自体はきっとただの現象である。その無意識の循環を健全と思う。
そんなこと考えてたら真逆を歩いていて迷子になった。

花 ✤ ありがとうございました @えほんやるすばんばんするかいしゃ

 

 ✤
 
えほんやるすばんばんするかいしゃさんでの個展「花」は、延長を経て、昨日で終了しました。 お越しいただいたみなさま、協力していただいたみなさま、本当にありがとうございました。静かな最終日には、自分も何回か展示を周り、見納めることができました。 
長い時間をかけて絵を眺めてくれる方がいたり、何度も訪れては見てくれる方がいたり、在廊中はその背中をふしぎな気持ちで見つめました。
 
新聞折込のチラシや、ほとりさんのジャムのこと。マルサさんの額のこと。 るすばんさんのこと、熊谷さんとの活動のこと。ここにもっと感想をかきたい気持ちもありますが、余白が足りないので、後日、心の中でゆっくりと振り返ろうと思います。こぼれ落ちるものあれば、またここに書きます。

展覧会は終わりますが、今日の20時からウェブショップがスタートします。こちらは、展覧会を作ってくださった熊谷さん/絵のしごと が担当してくれています。
あまり数は多くないですが『あしたのジャム』も販売させていただけることになっています。ほんとうにおいしいのと、すごくきれいに仕上げてくださいましたので、ご縁あればぜひ。あたらしいポスターやポストカードもあります。

花を描き切った気持ちにはまだぜんぜんなっていないので、これからも描くでしょう。
どこかで出会ったときには、よろしくおねがいいたします。
 
市村柚芽 
 
✸ 後日「展覧会の記録」もUPする予定です

メロン / 余地 / 会話

 

少し前、メロン。
近所の八百屋さんにはお店の入り口付近に安いようまいよコールを中くらいの声でしているおじちゃんが立っていて、その日は眺めていたメロン(380円)を手渡され、買った。その前の週もそんなふうにして買った。甘くて、ごちそうで、こんなにたべてもいいくだものだったっけ、と訳が分からなくなる。
 
昨日。デパートに入っている好きだった服屋が閉店するしらせを見て愕然として、意を決して大都会へ向かった。迷った挙句、持っていない、鮮やかな青い色の服を買った。ちゃんと着るし、大事にしようと思った。画材屋さんにも寄って、数種類の青い絵の具と、新しい筆を一本買う。絵の具のメーカーは冒険しないことに決めている。ありふれたメーカーだから、だいたい、どこでも買える。黒やその他の色の絵の具は固定化されてきたが、青だけは変動する。揃えていればどんな気持ちの時にも安心。この小さな自由に助けられているように思う。
帰りの電車、窓から空を見たらきれいな水色。反対側は桃色。電車の左右の窓で、こんなに違う景色になるのがふしぎだった。歩いていたらあっというまに日が暮れて、水色も桃色も集結されて真っ黒に。空にはまるまるした月がうろこ雲の向こうに見えた。
 
最近、会話の本を読んでいる。けれど、相変わらずうまく喋れやしない。言いすぎたり、言わなすぎたり、気になったり、後悔したりと、会話が苦手だ。会いたい人にせっかく会えても、話したかったのことのほとんどを思い出せなくなる。脳が遮断されたように何も出てこなくなることがよくある。存在の迫力にいつも敗北しているのだと思う。でもここ数日は、じつに身勝手だが、なんも喋れていないとしても、喋りすぎていたとしても、ただ嬉しい日々だった。会いたい人に会えたことを素直によろこべるのはうれしい。
関わらせていただいたお仕事では、全員の視線の先にあるのが人やその他でなくそのもの・その周りに漂うもの、であろうこともうれしかった。そこに会話は必要だが、大事なことはその先にあった。そのもののことを大事にしていれば、きっと満たされる。 

片付け

 
(2026-2-14)

(2026-3-10)

(2026-5-2)

(2026-5-8)

(2026-5-21)
 
引っ越してから絵が変わった。光がよく入って、風通りのいい部屋。広いから、今まで使ってきたスケッチブックが小さく見える。そんな絵になってきたし、そんな心になってきた。新しい部屋でも変わらず、絵を描くための固定の場所や机は設けていない。絵の具や紙や水バケツは都度片付けて、まっさらな机に戻す。アトリエに憧れていたが、私には要らないようだった。使い慣れた台所と、まっさらな机と、余白があれば、それでいい(それがいい)。

お仕事 /『感傷は僕の背骨』

 
 
 



フォークシンガー・世田谷ピンポンズ(現・品品)さんの随筆集第2弾『感傷は僕の背骨』という書籍に、絵で関わらせていただいています。
やわらかい紙の手触りと色調が美しいです。世田谷ピンポンズさんの素直な眼差しを通して身近な町を思うと、新鮮な気持ちになります。嬉しいご縁をありがとうございました。

5月の下旬に2冊同時発売だそうです。
見かけた際は、ぜひ手に取ってみてください。
 
 🏓
 
『感傷は僕の背骨』
著者:世田谷ピンポンズ
編集:杉江由次
イラスト:市村柚芽
装丁:松本孝一
発行人:浜本茂
発行所:株式会社本の雑誌社
印刷所:モリモト印刷株式会社 

お仕事 / syn magazine 第2号


 
 
 
 
ものすごく遅れたおしらせです。 
京都・龍谷大学の政策学部同窓会チームが出版する雑誌「syn magazine」2号に、描き途中の絵などを使っていただいておりました。今号のテーマは「続けるという営みについて」。

2018年の1年間、『描く日々』という名前の講座につられて、美学校という場所に通っていました。講師は佐藤直樹さん。描く日々を送ったというよりは、描いたり描かなかったりの日々とか、寒い冬にみんなで鍋を食べた記憶の方が濃く残っています。
1週間に1回、夜の授業が1年間。振り返ると、それよりもっと長い時間を一緒に美学校ですごしたような気がします。各々の「続ける」が交錯して落ち合ったあの場で流れる時間はとてもゆっくりだったのかもしれません。贅沢な時間でした。
今号では、今もなお描き続けている佐藤さんのインタビューも掲載されています。興味深すぎて読みたくない的な謎の気持ちが渦巻いて、わたしはいまだに通して読むことができずにいます。ちなみに、デザイナー・浦川さんともこちらの講座で知り合いました。嬉しいです。

素敵なご縁をいただき、ありがとうございました。
どこかで見かけることがもしもあれば、ぜひ手に取ってみてください。 
 
デザイン:浦川彰太

花火 / 祈りがささくれないように

 
 
描きはじめはほとんど青だけ、時々きいろを混ぜ、青とみどりで埋める。何層も青を重ねて、そのあとは思い切って黒をさす。はじめの黒はいつも緊張する。青を壊すことの後ろめたさも。気にしていたらいつまでも絵が進まないから一々止まらないけれど。
いつか止まるときがくるのかな。青い花火はきれいだった。
 
ふとしたとき、無性にかなしくなることがある。今がそう。わざわざ誰かに話すようなことではないが、すでに傷ついた部分をもう一回針で刺すような、たしかな痛み。その痛みは自分の意思ではどうしようもないもの。うれしいこと、やさしいこと、好きなものを思い出す。
 
コンビニで、郵便局で、書類のことをわたわたとしていた時、店員さんは「ゆっくりで大丈夫ですよ」と、ゆっくりと言ってくれた。コンビニでも、郵便局でも、それぞれの担当の方が。それはわたしがよっぽどパニックになっていたからかもしれないが、その一言で目のぐるぐるは半分くらい解け、安心した。平常心で作業をすれば、わたしにだってできることがたくさんある。できないことばっかりのわたしにも。こういうまなざしのことをやさしさって呼んだらいいのかなあ、なんて、帰り道に考えた。少し泣きそうになった。
 
このあたりの夕暮れどきは、以前よりもずっと好きな景色を見せてくれる。空が広くて、静かで、誰の目線もない、この時間は宝物だ。暮れかけた、影まで青にのまれた時間。 
  
新しい家の近所のスーパーには、知らなかった野菜がたくさん並んでいて、最近、浮かれているのか、よく手にとる。なかでも「サラダセロリ」はすごくおいしかった。家の雰囲気に乗っかって蒸篭も新調したから、最近は何を蒸そうか、どの食材を使ってみようか、何をつくろうかと、ごはんのことばかり考えている。本屋で右往左往して選べなかった料理本も、最近コツを掴み、買えるようになった。家で読んで身の丈に合ってないと思っても別に落ち込まなくなった。(身の丈、なんてないのだろうし、なりたいようになればよいのだろうし、)だれかひとりを、どれか一冊を、芯から信じようとするから絶望するのだ。わたしは多分、「信じる」という行為が、からだに合っていない。信じるのではなくて、色んなものや人や風景のすてきなところを勝手に吸収して、勝手に楽しく生きていくのが、きっとよい。きっと当たり前の話だが、わたしはようやくわかったのだった。

内緒話

 

窓辺で内緒話
新しいちいさなともだちと 

サザンクロス

 

少し前、真夜中なのに部屋が明るい。窓をのぞくと、光りすぎていた月。
 
今日もまた花を描いている。前の家では場所がなくてしまっていたスツールを、引っ越してから設置できたので、スツールも見て描けるようになった。木目や花瓶の反射を伴ってちゃんとそこにある。ずっと空想を描いていたのでその現象がおもしろく、最近は花よりスツールばかり追っている。描いているあいだは花をあまり見なくなった。多分、意識的に見ないようにしている。

頭で処理した花の輪郭をそのまま紙に写しとることは果たして観察なんだろうかと疑問に思う。細い茎を描くためにわざわざ鉛筆を尖らせて2本の線を引くことは、なんための作業なのか。他でもない、色を塗る時の自分の保険でしかない。私は生活でも絵でも保険ばかり張っている。そしてそれをよく観察だと勘違いしている。嘘なく記録することをなんとなく誠実なような気がしている。多分、実際は、誠実とは遠いもの。手放しても大丈夫なものを不安で手放させずにいるだけ。
 
先日、好きな絵描きのNさんの展示に伺った時、『ゆめちゃんの展示にも伺いますよ』と言われて、弱気になった。きっと興味もないだろうし、まあ、冗談だろう、と思って油断していたら、本当に来てくださった。なにがあったわけでもないが、私は緊張で心臓が止まるかと思った。きっと約束を果たすためだけに来てくれたのだから、申し訳なくもなる。けれど少し嬉しかった。誠実も執着も観察も正解も最近の私はよくわからない、でもこういう小さな約束を大切にする心が私にはまぶしく見えた。

小さな窓

 
 

昨年から展示を一緒に作ってくれている熊谷さんが、この活動についての文章を書いてくれました。興味あれば、ぜひ読んでみてください。
✈️ (クリックでとびます)



花を繰り返して描いてしまうのは、花を描けた気がしないからだと思う。その時見ていた花の像を、そのとおりに捉えられた日はない。いつも少しあきらめている。自分の目は頼りなく、ちゃんと描くことなどもしかしたら不可能なのかもしれない。
いつからか、高望みすることはやめ、自分にできることをできるだけやれたらいいと思うようになり、伝わることより続けていきたいと願って描くようになった。

花というモチーフは、自分の内側の、唯一の窓のような存在だ。だから、と言い切っていいのかは分からないが、この窓を塞いでしまったら、自分は人間じゃなくなるんじゃないかと思っている。
そんなことを時々想像しつつ(ほとんどは呑気にだが)、繰り返して描き、見る人をもしかしたらおいてけぼりにしながら、絵を展示させていただりしている。

熊谷さんとは、2021年に大阪で花の絵を見てくださり、メールを送ってくれたのがきっかけで知り合った。メールをいただいた後、都会の真っ黒な湖の前で初めて会って、凍えながらも長い時間話をした。
彼女が赤い服を着ているとき、自分は青い服を着ている、なんてことが多かったり、食べ物や歌の趣味も全然違ったりだが、気がつけば5年に近い付き合いとなっていた。
長い関わりの中で、私の窓が塞ぎかかったとき、熊谷さんが上記の活動について提案してくれたのだった。

晴れの日も雨の日も強風の日も窓を開け、風を通す。汚れた窓を拭くための雑巾を渡してくれたのは熊谷さんだった。
むずかしいことや大変なことは解決されていないし、わからないも増幅している気がするが、それでも陽気でいられるのは、自分にとって奇跡のような成果だ。

絵というものが、社会や人や動物や時間などの、無数の波が渦となって出現するものなのだとしたら、私はそれを、やれるだけ、できるだけ、ちゃんと写しとっていきたい。
 

『あしたのジャム』のこと

 
 

うれしいおしらせです。
『あしたのジャム』という商品が完成しました。
突然の宣伝となってしまいましたが、あしたから展示会場のるすばんさんに並ぶ予定です。

ジャムは、長崎県大村市にあるお菓子とパンの店「ほとり」さんが、展示にあわせて製造してくださいました。
本商品には、宝石のように美しい二種類のジャム(いちご・はるか・キルシュ / せとか・ゴールドキウイ・レモン・ローズマリー)がひとつずつ入っています。
また、ジャムとともに、小さな花の絵のカードが同封されています。裏面には、ほとりさんのことばが書いてあります。

箱やいろいろなものの設計、デザインは浦川彰太さん。
とにかくみんなでいろんなことを相談させていただいたのがるすばん荒木さん。
長崎まで出向いてくれたり、みんなを繋いでくれたのが熊谷麻那さん。
ほかにも書きたい名前がちらちらと浮かびますが、とりあえずここまでといたします。
すばらしいものができて、本当にうれしいです。

たのしい夜でも、もやもやな夜でも、きっとあしたの朝が楽しみになるジャムです。
数量限定ですが、会期中に追加納品もしていただく予定です。
ご縁あれば、贈り物にも、ごほうびにも、ぜひ。

以下は、ほとりさんより、ジャムの味についての説明です。



❉いちご・はるか・キルシュ❉

画集『花』の表紙をひらいたところにある、やわらかな赤をおもって作りました
いちごの甘さに、ごく穏やかな風味の柑橘「はるか」を優しく重ね、最後にさくらんぼのお酒をふんわりふくませています


❉せとか・ゴールドキウイ・レモン・ローズマリー❉


みずみずしく甘い柑橘「せとか」、華やかなゴールドキウイ、まんまるな酸味のレモン、春風のようなローズマリー
すべてがやわらかくとけあうようだけれど確かにすべてそこにある、香りよいジャムを目指しました

 


『あしたのジャム』

ジャム・言葉|ほとり
絵|市村柚芽 
企画|熊谷麻那
デザイン|浦川彰太
協力|えほんやるすばんばんするかいしゃ

🏠展示についてはこちら→