たのしいおしらせ / upendo 1月号

 
 
長崎は大村にあります「upendo」というお店に、花の絵を1枚かざっていただいています。
前回から2ヶ月だったので、あたらしい絵をお送りしました。
今年1枚目は、蝶のようなくらげのような花です🪼
upendoさんにお越しの際は、ゆったりしつつふと見ていただけたら嬉しいです。

ちなみに絵は通販も可能です。
upendoさんにご連絡ください。

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upendo
長崎県大村市田下町406
*営業日・営業時間はSNSをチェックしてください

企画:熊谷麻那さん

まぼろしの解体



数日の時差で、ようやくわたしも(精神的に)年を越せ、正月休みまで終えたようなのだが、頭も体もはたらかない。そろそろ描き始めたいところだが、花を買いに出る勇気がない。ここ数日は壊れたパソコンみたいな動きをしている。昨日は中くらいの西瓜半玉を一人で食べ切った。 
 
今日もぼんやりのなか、ほしいものについて考えていたらなんにも出てこなく、ある日急に異常な物欲がわくことはよくあるのになんでだろうと考えていて、それは多分、ほしいものがほしいというわけでなく、足りない気がしてほしくてたまらなくなっているだけの、ある種のまぼろしなんだろうなと思った、ところで、年末にこっそり注文していた料理のレシピ本が届く。一ページごとに大事にめくってみたら、久しぶりに文字が読めた。食べるように読めるのは料理家の言葉だからか。
 
去年の暮れに、何度も本屋の料理本コーナーに立っては絶望して何も買えず帰っていた時があった。ぺらっと開いたページに載っていたレシピは、丁寧さもラフさも、その人の日常そのものに見えた。いつでも脱したい自分の生活を思い出すと、誰かの生活は眩しく、自分の生活が心底嫌になる。気持はちゃんとホンモノだが、この眩しさについては、同じ種類のまぼろしである、と思う。レシピ本をみるたび消耗していたのは、ひとつひとつのレシピを、矯正的に捉えていたからだ。これを作りたいなと思ったら作ったらいいだけなのに、自分はそれを作れるような心持ちの人間ではないというところに着地していた。そこで、足りないという気持ちを心に足して、眩しいまぼろしを見る。実際に足りないのはレシピに載っている材料や道具だけで、心持ちとか土壌とかはあまり重要でなくて、多分もうすこし、軽率でいい。ということ。
 
本の中の一ページで、しばらく分のまぼろしを解体できた。よかった。
 
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料理って、そういうものだと思います。
床に新聞紙をしいて絹さやの筋を取っていたり、カレーを作ろうと大量の玉ねぎの皮をむいていたり、にんじんの皮を、できるだけ薄くむこうとしていたり。明日のために豆を水に浸けていたり、だめになる前に、 きゅうりを漬物にしようとしていたり。
それをしている自分のことを想像してみて、もしも嫌いだなと思ったら、そういう時はべつに料理なんかすることはありません。 
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(『新装 高山なおみの料理』引用 ) 



大晦日に地下鉄に乗った。みんな厚着をしていて、肩がふれる。身体がこわばる。音楽が耳に届かなくなって目をとじる。思い出すとまだ喉の奥がぎゅっとする記憶が、はらはら雪のようになって訪れる。
 
あの日、電車に乗る前に、駅の花屋で白い花を買った。耳たぶのやわらかさを思い出して。いそいだところであまり変わらないのに焦っていた。電車は遅く、遠く、辿りつかない。目に力を込めないと涙が溢れそうで、ぎゅっと目を瞑っていた。目の奥に涙がいっぱいになってしまって、開いたら結局溢れた。その後のことがもうよく思い出せない。バスで家まで向かったんだか、歩いたんだか走ったんだか、記憶から抜けている。亡骸の硬さと耳のももいろ、毛並みの感触、は覚えている。でも、もう断片的にしか。
 
寂しさはずっと変わらないかたちで心に刻まれていて、会えると言われたらすぐに走って行ってしまいたい気持ちだ。でも振り返らない。前を見る、何回でも思い出す。
忘れてしまうだろうか。正しいだろうか。わからない。わからないが、歩かなきゃ、どうしようもない。