白鷺・ザネリ


 

絵を描いていて、窓を見ると、いつのまにか白鷺が電信柱の上に立っていた。椅子から降りて立ったときに目線の高さが揃う。そんな高いところにいるんだね、とふしぎな気持ちになる。鷺も自分も。机のほうに目をやって、しばらく作業をしていると、音もなく、いなくなっていた。
 
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誰かの日記を読んでいたら眠くなった。うたた寝の夢。
 
二人で青森を訪れていた。打ち合わせが終わったのが昼頃だったので、山のほうへ向かって、いいお宿に泊まれるのではないかと、冒険心が湧いてくる。それを同行者に共有する前に、もうひとりの人物があらわれた。三人でしばらく喋っていると、乗らなければいけない電車が来てしまった。その電車は混んでいて、会話する余裕がない。ならばひとつ電車を見送って、目的地をはっきりさせてから乗車したほうがいいのではないかと思い、そのつもりで目配せした(つもりだった)。しかし同行者は、颯爽と電車に乗っていった。かたまっている自分と一瞬目があったが、この駅で別れる知人にむかって手をふるばかりだった。
 
呆然としながら、「とりあえず電車に乗ります」とだけ連絡をし、ひとり取り残されて次の電車を待った。ひとりになると、急に電車が怖くなる。乗車方法にしても、切符の入れ方にしても、どのあたりに立っていれば他のお客さんの邪魔にならないかとか、この土地のルールを何一つ知らず、準備できておらず、そうなったときに考えればいいとはいえ、不安は募った。また、たとえばこういう不安から過呼吸になりそうになったとき、それを伝える相手がいないと思うと、恐ろしくてたまらなくなるのだった。私はこれまで、どれだけ彼に、身近な人に、助けられてきただろうと思う。

動悸がひどくて仕方がないので窓を見る。さっきまで晴天だったのが、真っ白な空に、雪まで降っている。しかも大雪。真夏なのに、ギョッとする。外とは、知らないことばかりだった。こんな天候で山のほうまで行くと遭難するのではないかと思い、少し栄えた駅で降りた。携帯を見て、メールを確認するが、返事は来ていない。ああ、『銀河鉄道の夜』に出てきたザネリって子は、今の私のような、こんな心情だったんじゃないかなとか思う。私はジョバンニにはなれなかったのだ。伝えられなかった感謝は、伝えられていたら、良かったのだろうか。でも、私の感情を、歪まないでそのままの姿で伝えることなんか、できるのだろうか。認めたくなくても、そんなのはもう関係なく、ひたすらに無限に湧いてくるこの後悔は、先手を打って対処しておけば、良かったのだろうか。でも、今までだって、できることをできるだけやってきたのではなかったか。何も何もわからなかった。
 
栄えた駅に着くと、みんな一斉に降り出した。自分も群れに混じって下車できた。この土地のことをわかってるふうな、当たり前のような顔をして。擬態に成功した。こうやって少しずつ成功体験を積んでいけばいいのだ。失敗と成功が同じくらいになれば、きっといつか人並みになれるだろう。これくらい信じていないと生きていけないよ。本質的な成功じゃなくともいいのだ。
空を見ると雪は止んでいて、虹が架かっていた。青森では雪の後の晴れで虹が架かるのかあと、びっくりする。住宅街のひとつの家に、虹のはじまりが見えた。駅を降り、せっかくだから写真を撮ろうかと思う。リュックからカメラを探すが、見つからない。肝心な時に、いつもカメラは見つからない。後から写真を撮りにきた人の邪魔になったようで、「どいてくださーい!」と声をかけられる。意志の弱い自分は、撮ることよりも退散を優先した。歯食いしばって外に出る。また失敗体験が…と思いかけたとき、いやここからでも撮れるだろうとカメラを空に向けると、もう真っ暗だった。刺すような漆黒で我に返り、また現実の不安が戻ってくる。寒いし。雪で濡れた靴が冷たいし。突然遠くで花火が打ち上がった。それは目覚まし時計の音だった。
 
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うたた寝の直前に、人の日記はいいものだと、思ったんだった。日記のよさって、よく分からなくなっていたけど。今はとてもいいと思った。多分、淋しいからだろう。日記は、読むならブログがいい。本物の日記帳とか、書籍化された日記というのは、自分は、あまり読めない。本物の日記帳は、踏み入ってはいけない領域という感じがして、みてはいけないものと思うから。本は、日記じたいというより、内容や構造からメッセージを探してしまったり、受け取ってしまったり、してしまうからだ。ブログも人の目を意識されているが、その細い糸のような意識…外部へのつながりが見えるから、だから読めるのだと思う。無関係な誰かの人生を覗き見て、「無関係だから」安心するんじゃなくて、開かれた小さな窓から、むしろ「関係し合ってしまうから」、安心するのだ。ひとりとひとりが横にいるから、眠れるのだ。言葉を発して、気持ちを抱いて、沈黙を貫いても、それがどこにも作用しないなんてありえないだろう。

何年続いてるんだというブログを見つけると嬉しくなる。あなたが重要に思ったことを、あなたにしか伝わらなそうな言い回しで書いてあるのを見つけるたびに、ありがとうって思う。なんでだろう。

 

自分の目で見られる視界は限られていて、見たいと思っていてもあぶれる領域はある。良いも悪いもなく、ただそれだけということだ。見えているものを、信じたり執着するのではなく、ただ向き合うことだけだ。自分にできることは。失敗はするものだろう。淋しくなるだろう。それでも、全部をあきらめるには早すぎる。石にも花が咲くんだって。

雨。
今日は郵便ポストに手紙を投函するために外に出て、ザーザー降りの雨と外の涼しさにびっくりした。昨日の暑さが嘘のよう。昔描いて、ひとに見せられるもんじゃないと思っていた絵を久しぶりに見たら、絵の中の水はきらきら、花はたしかに咲いていた。私はあの時、どうしてそんなことを思ったのかわからなくなった。

B'z部屋雑記



B'z部屋雑記。「恋」を切り口に、よく聴く曲を順番に聴いてみたり。

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1992年『恋心(KOI-GOKORO)』では、「忘れない 恋心/いつまでも 恋心」から始まり、「どうしよう うまくいかない恋/こんなとき もっと大人になりたい」と語り「二度とは戻らない時間を/笑って 歌って ずっと/忘れない いつまでもあの恋/なくさない 胸をたたく痛みを/汗かき 息はずませ走る/日々はまだ 今も 続く」と続く。

1995年『LOVE PHANTOM』では「欲しい気持ちが成長しすぎて/愛することを忘れて/万能の君の幻を/僕の中に作ってた」「がまんできない/僕を全部あげよう」そして「幻をいつも愛してる/何もわからずに」になる。
 
2000年『今夜月の見える丘に』では「たとえば どうにかして 君の中 ああ 入っていって/その眼から僕をのぞいたら いろんなことちょっとはわかるかも」から始まる。 「痛いこと 気持ちいいこと それはみんな人それぞれで/ちょっとした違いにつまづいて またしても僕は派手にころんだ」「傷ついて やっとわかる それでもいい 遅くはない」最後に「いつでもそうやって笑ってないで/かけらでもいい/君の気持ち知るまで 今夜は一緒にいたいよで終わる。
 
2009年『イチブトゼンブ』では、「すべて掴んだつもりになれば/また傷つくだろう/ほんとに要るのは有無を言わせない/圧倒的な手ざわり/愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに」「すべて何かのイチブってことに/僕らは気づかない/愛しい理由を見つけたのなら/もう失わないで/愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに/それだけでいいのに」となる。

2024年『イルミネーション』では、「君の1番好きな/歌を聴きながら進もう」から始まる。「曲がりくねった道をハモり/進む君と僕のハイビーム」…この曲の中で進むのは、<まっすぐな道>ではない。「ホントにあるよねウソじゃないよね/夢で見たイルミネーション/誰かが誰かのために灯す/愛まぶしたセレブレーション」はじめのサビでは不安が込められた疑問形として歌われる。その後は「ホントにあるんですウソじゃないんです」と断言するように2回歌われる。「ガッカリもションボリも丸めて/噛み締めて飲み込んで/ずっと諦めないでいられたら/クライマックスは続く」「ホントにあるんですウソじゃないんです/ユメが萌えるイルミネーション/生まれたこと誇れるように/その心飾るでしょう」となる。

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作詞の稲葉は『恋心(KOI-GOKORO)』で、「忘れない 恋心/いつまでも 恋心」と歌ったが、「恋心」を、いつまでも忘れなかったからこそ歌えたのが『イチブトゼンブ』、「愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに」、なのだと思う。また、『LOVE PHANTOM』での「(そして私はつぶされる)」…派手にころんでも、『今夜月の見える丘に』で「傷ついて やっとわかる それでもいい 遅くはない」と歌う。そして、『恋心(KOI-GOKORO)』で「こんなとき もっと大人になりたい」と歌った、その「大人」の姿というのは、疑問形ではなく「ホントにあるんですウソじゃないんです」と断言できるようになった『イルミネーション』なのではないか
 
彼の作詞はほんとうに見事で、改めて歌詞を読むたびに驚いている。詞の中では、むずかしい言葉を使っていないのに言語化できないような感情が綴られている。まず、詩ではない、そして、訴えでもない。受け取ったときの感触は、意外と丸みを帯びている。それがほんとうにすごいと思っている。上記で引用したラブソングっぽい曲たちの歌詞を追っていくと、一見、「誰か」と「誰か」とのあいだに生じた「恋」や「恋愛」のことをうたっているようにみえる。しかし、よく読んでいくと、「歌」と「あなた(私)」との対話のようにも受け取れる。それは、『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』(1993年)での「そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは/僕とずっといっしょにいる方が 気持ちよくなれるから」という一節を聴いたときに感じたことだった。詞の内側の人物への言葉ではなく、この歌を聴いている、私に向けての詞だと。本意は知らないが。また、「気持ちよく」という表現も重要で、「これは音楽である」ということを強調しているように見える。先にも述べたように、詩ではないし、文学や指南書でもない。ずっといっしょにいることで「正しい方向に導く」なんていわない、そうではなく、聴くことで「気持ちよくなれる」という。(耳に残るメロディがあり、歌声があり、最後に詞が届く。この過程を考えるに、気持ちよくなるのに詞はあまり重要ではない。だからいちいちこうして詞に感動するのは我ながら野暮であって、本質ではないのだろう。でも語りたいので、野暮を前提としながら進めてみる…)そして、稲葉の詞やB'zのことを「信じる」なんてしなくていい、ということを、『愛のままに〜』でのこの一節では明確に語っている。鋭利さが徹底的に研磨されている感じがある(そういう空気を作る松本の存在を勝手に憶測する)。メロディや歌声がパワフルで大きくてギュインギュインしているのにたいして、ものすごく繊細に作られている感じがある。こういう部分が私がB'zに感じる「丸み」なのだと思う。
 
ほとんどの楽曲の歌詞からは「生きていくこと」、「共に生きていくこと」を、絶対に諦めない姿勢を感じる(松本のギターのソロパートからも同じことを感じたりする)。詞については、バンド内で研磨しつくされた結果であるのだろうが、私にとってはその姿勢をもつことも、貫くことも、まったく容易なことではない。だから、このような心を持っている稲葉に対して尊敬したり、楽曲を崇高なものとして扱いたくなってしまうが、そのような消費の仕方というのは、惜しい気がする。これは稲葉独特の感情、あるいは、単なる <やさしさ> 、言い換えれば自己犠牲のような精神から生じたものなどではないのだろう、と感じるからだ。受け身の姿勢で聴いてしまう私は、こういう表層に見える稲葉のやさしさにどうしても「やさしいなあ」と感動してしまう。こういう捉え方になると、他人事のようになって、鑑賞者は楽になる。同時に、自己嫌悪の余地が生まれる。稲葉の語ることは、語りたいことは、きっとそんなものではない。魅力や、色気や、ズルさにもなるような「やさしさ」をやっているわけではないんだと感じる。稲葉の詞に感じるやさしさとは、B'zというバンドがもつ姿勢から生まれるのではないか。

稲葉の詞から感じるやさしさを考えると、数年前にアドラーのことを勉強していて知った「共同体感覚」という言葉が連想される。私たちが目指すところらしいが、私は全然理解できていない。それに、勉強したことは、残念ながらほとんど忘れてしまった…。だから、それが具体的になにかと問われても、本をそのまま引用したようなことしか言えないために、意味がないので、省略する。ともあれ、この言葉を思い浮かべると、私はいつも、窓から見える煙のようなものを空想する。ちょうど今描いている絵のような、いつも浮かんでいる、雲みたいなもの。それは、誰でもが見えるものである。稲葉が書こうとしていることの先には、そういうものがあるのではないか。ゆっくりでもいいから一緒に走って生きていこうと、そういう形での「共存」を提案されているような、健やかさがある。太陽のように眩しい。それはそのまま彼らの関係にも言えることではないのか。というか、B'zそのものではないか。彼らのあいだのこと、その内側のことを、全然知らないが、知ろうともしていないが、私にはそのように見える。だから私はB'zを聴きたいと思うのだし、だから好きだと言っていたいのではないかと、今日もチャゲアスばかり聴いていたが、聴いてしまっていたが…考えていた。のでした。 
 
※B'zのお二人には、敬意を込めて、あえて敬称を略させていただいております。無礼をお許しください。 

蜻蛉 / 不安、安心

 

自分の目が信用ならない。少し目を離したら、絵が全然違うように見えた。どれが正常な見え方なのかわからない。とっくに枯れたトルコキキョウのことを思い出しながら色を塗ったら、家の周りを飛ぶ黒い蜻蛉みたい。

ソファから起きあがろうとしたら腰が痛くて動けなくなる。右手と目さえあれば絵は描けるだろうと思っていたが、腰のことは盲点だった。不安が襲ってくる。しばらく安静にしていたらおさまってきて安心。しかし気を抜けばまた痛めそうな雰囲気がある。怖い。絵が描けなくなったらどうなるのだろう。ショックだったのか、治ってきていた動悸が復活する。
引っ越してきてはじめての歯医者に行く。なにをされているのだかよくわからないまま、気づいたら2時間が経っていた。時計を見て、今日も何もできずに終わるんだろうか…と半絶望したところで、レントゲンの上顎のあたりを指しながら、「ポリープがあるかもしれないので、次回CTを撮りましょう」と告げられる。親身に話してくださるお医者さんだった。話のなかで、言葉を多く使う方だった。それで、少し疲れてしまった。中で、「手術」というワードが出た。手術…。今の、すこしおかしい自分の頭、アッパラパーな私には、それら全ては不安というカテゴリに集結されるが、それ以上に、宣告は、特大の不安である、苦手だ。明日にでもCTをお願いしたいが、来月まで予約が埋まっているとのこと。先延ばしの不安ができた。動悸が続く。そろそろ過呼吸にでもなるんじゃないかと、不安が追い打ちしてくる。

歯医者から出たら、空は桃色になっていた。今日もなんにもできなかった。しかし、外は涼しかった。救いだった。いろいろあきらめてヤケクソで隣町まで散歩することにした。描かないが、描かなくても、花を買おうと思い、好きな花屋まで歩く。何回行ってもおぼえられない店までの道のりでは、今日もしっかり迷った。なんとか着いたが、もう真っ暗で、それは自分の心情のようだったが、こんな時間まで開けてくださっていることに心底救われる。ほんとうにありがとうと思う。花はきれいで、優しい店員さんは眩しく、大きな包みを抱いて、大事に歩く帰り道は、不安は変わりないが、ささやかな安心に包まれていた。

あくび



雲とか花に感動し出して、そのほかのいろんなことがほんとうにくだらなく思え、どうでもよく思え、なんというか、自分はそんなにきれいな人間じゃなかったはずだろうという違和感が生じた。そんな変な感じが数日続いて、困惑している。すぐにおさまるものだと思っていた。怖いものだらけだったのが、そんなに怖いとも思わなくなった。焦る。興味のあることや、やらなければと思っていたことにも、力が入らない。興味とか、生きようというフックはあるのだが、それを釣る体力が、ずっと少ないという感じ。防衛本能のようなものなのか、それともほんとうに変化してしまったのか。老いのひとつなのか。若くありたいとか、本気で思ってしまった。しがみつくように、少しでも心動くものに執着する。怖い怖い(怖い?)。何十時間眠れば、満足に眠れたような気持ちですっきりと起きれるんだろう。恋煩いのような動悸はいつになったら止むんだろう(もしかして本当に恋?(何に?))。なんだか、途方もなく淋しくて、亡くなった猫に会いたくなる。いつでも会いたいが、とくに最近は。現世が、どうでもいいことばかりで。悲しいとすら思えなくなったら、私はどうなるのだろう。百億光年の孤独のこと考えて、私は、あくびが出る。

手のひらのともだち

 
 
ためいきみたいにあらわれる、「手のひらのともだち」のグッズをいくつか作ってました。昨今の夏は厳しすぎますから、なにかたのしいことを…と思って、うつろなまなざしで描いたキャラクターたちです。苦笑… 刷り上がったものを見たら、自分のうつろなまなざしとはかけはなれたポップさでなんとも嬉しくなりました。ありがたいです。
ほんとうはもっとお祭りの屋台みたいに販売できたら楽しそうなのですが、通販だとそうもできないので、同じ柄のシールこんなにいらないんじゃない?とも思いつつ、4枚入りです…。私の中では定番の…世間からはただの謎キャラクターですが、興味をもってくださる方がおられましたら、ぜひのぞいてみてくださいー。 
 
お店はこちら→ ✩   
 



退屈、異界

 
 
病院のために外に出たら、空は晴れてるのに雨がぼたぼた降っていた。急に眠くなって昼寝をしたのはこの雨のせいだったらしいと納得した。思ったより涼しかったので、ASKAの『Kicks』を聴くために、花屋まで歩くことにする。心がふやけている。そういえば二週間くらい前にも、同じように晴れの雨降りのなか、チャゲアス聴いて花屋に向かったんだった。

退屈というのか、虚無感なのか、自律神経のいかれなのか、失踪欲なのか、わからないけど、雲とか瓶とか水とかカーテンとか皺とかに、飽きてきている。なんとはなしに、たぶん描くだろうな、という気持ちで選んだ花が(またトルコキキョウを選んでしまった)、ひとつの希望みたいに思えていることに驚いた。花を選んだ帰り道、そんな気持ちになるのなんていつぶりだろう。というか、今まであったのだろうか。

子どものころ、異界へのあこがれのようなものがあって、異界を想像すると、よい胸騒ぎがするのだった。子どもながらに「この感性はきっと忘れてしまうものだから大切にしよう」と何回も思ったものだが、成人したあたりから、異界を想像しても、あのころのような胸騒ぎまでは起きなくなってしまった。感性というのは、意思でどうこうできるものではないのかもしれない。いつからか、異界へ行くよりも、なつかしい声をまた聞きたいとか、会いたいとかのほうが、願うようになった。仕方ないとはいえ、つまらない人間になったなあと思う。死って、こういうところにも作用するのか。

夕暮れの空は、ワケがわからないくらい美しく、今日も今日とて見事だった。 
今日のような夏の雲をじっくり見ていると、しかし、あのころと同じ胸騒ぎが起こった。それは、その雲そのものへの胸騒ぎではなくて、雲の凄さに圧倒されて、気が遠のいて、自分のことを忘れてしまうような感覚だった。飽き飽きした「日常」そのものへの胸騒ぎだったのだと思う。だから一瞬でおさまった。すぐに退屈と陰鬱の自分にもどった。たしかに、自分の生活というのは、異界そのものなのだ。なのに、その中にいるときには退屈すら感じる。摩訶不思議。花が希望かあと、少し恥ずかしくなる。どんなに筆が重くても描けるうちは描くよと思う。花で気をまぎらわすくらいの精神状態でも、情けなくとも、まぎらわしながらでもやるよと思う。
ほんとうに夏は疲れる。

まるいこころ

 

おやき。具材を包んで、まあるくしていったとき、漠然と、腑に落ちたことがあった。歪な丸は、こう在りたいと思う心のかたちに似ている。自分の中にあるとんがりは、やはり、できるだけ排除していこうと思った。鋭利になると、視界が狭まって、かつて見たかったものまでを見落とす。懐かしい絵を見たとき、感情が激しく揺れ動くのは、その絵が「よい」からではなかった。私が見えないつむじのあたりを、不意につついてきて、思わず涙が出そうになるのだ。通りすぎたもの、あきらめたこと。悔しいか、淋しいか。それでいいじゃないか。そのままを抱きしめたらいいじゃないか。撫でてみたりしたらいいじゃないか。まるいこころ。いつまでも持ち続けていれたらいい。

内省ラッシュ

 

もう一週間も絵を描いていない。スケッチブックを開く気にすらなれない。今日は描こうと思っていたのに、遅くに起きてからずっと内省していた。おおくの人が帰省ラッシュにのぞんでいるらしい。そういう時期なのかもしれない。

猛烈にノートを書いていて、内省っていいのかもしれん、と呑気に思った。少し前までは内省ではなく、懺悔や、反省だった。そのときの自分はというと、絶望ばかりだったから。今の自分は、少なくとも、歪みまくった認知を、「歪んでいる」と、少しずつでも認識できるようになった。歪んだ視界であっても、なるべくまっすぐに受け取るべく、そのための方法を考えられるようになったし、そこを努力できるようになってきた。その変化だけは、成長であるとして、嬉しく受け取っている。
 
内省。
喋りすぎた、と後悔したとき。そもそも、主張したくなるとはどういうことなんだろうと考える。このブログで書いていることも例外なく主張ではある。そう思って書いてきている。けれど、これがじっさいの会話や、なにかにめがけての主張であるならば、そこにはもっと明確なものが含まれている気がした。だから、ここで考えているのは、おもに、会話における主張についてのことである。だれかとの会話において、自分はなぜ主張したくなるのだろう、と考えるに、私の場合は、その多くが、矯正欲を孕んでいるように感じる。または、承認欲求。それに付随する、反応欲のようなもの。それらも、よく生じる。自分の悲しみや淋しさをもちだして、共感を強いることの傲慢さ、そして無意味さ。(悲しみも淋しさも、誰かに共感してもらわずとも、自分の心の内側に、絶対的なものとして存在しているはずなのだから)ここに挙げたもののどれひとつにも、自分は気づくことができないでいた。こうして書き連ねると、なんて情けないのだろう、なんて未熟なのだろうと思う。泣きたくなる。しかし、自覚できただけ、まだマシであると思いたい。 
 
とはいえ、それらの欲求を抱くことも、主張することそのものも、もちろん、悪いわけではないのだと思う。そうしてでも伝えなければいけないことは、たくさんある。ただ、それが無自覚におこなわれることは、とても危険なことなのだ。そのことを、よく自覚しておかなければならない、と、強く思ったのだった。
 
自戒をもちながら、ここにひとつ、主張を書いてみる。
私は、「〇〇だから〇〇の資格はない」 という論法について、とにかく慎重にならねばならないと思っている。問題の本質がすり替わることがあるように思うからだ。そもそも、資格というものを持ち出すとき、人はどんな裁量をもってはかっているのだろう。ここが曖昧である限り、なんの秩序もない、まったく意味のない言葉となるのではないか。だれにでも等しく人権はあり、それを踏み躙るようなことは、決してあってはならないと、ずっと思っている。私は時々、自分とは無関係のひとたちのあいだで起こったことに関して、勝手に傷つくことがある。その多くは、人権の意識の低さに由来していたように思う。とても淋しく、強い憤りを感じるのだ。
人権が守られていないということは、他者の命が簡単に奪われてしまうことと、決して無関係ではない。それは本当におそろしく、絶対にあってはならない。人権意識の低下は、そのような世界と、地続きであるとしか思えない。だからこそ、そのような論法には、もっと慎重であるべきなのではないか。

⋯主張のつもりで書いてきたけれど、読み直すと、これは問いかけなのかもしれない。私は、主張したいことなど、本当はないのかもしれない。

影を産み出すから光は優しい


 
 
漠然とらくがきの漫画を描き始めて、続いてしまって完結できなくて結局数日費やして、(そもそもが汚すぎるので無茶なのだが)できるだけ見やすくしようと明け方まで編集作業(足掻き)。絵も描かず、外にも出ず、なにをしているんだろうと思ったりするが、らくがきだってなんだって、やるときは手を抜かず真剣にやるんだと決めたので、仕方がない。本意が伝わらなかったとして、とくに悪いように伝わってしまったとして、それを相手に押し付けるのは、傲慢だと思うようになった。自分の落ち度をしっかり認識するようになった。描くならば、描き切らなきゃ意味がないんだと思う。へたくそな漫画を本気で必死で描いては、刃牙を読み、面白さに動悸がしてきて、桃を食べ…いつかの夏休みのような日々を過ごす。今日はノートを広げて、宮本武蔵と範馬勇次郎の関係性、また、なんで刃牙に宮本武蔵がでたんだろうということを、ひたすら考えた一日になった。本当に小学生のようでびっくりする。
 
『グラップラー刃牙』、『バキ』、(あいだで『疵面』、『創面』)『範馬刃牙』を読破して、『刃牙道』に突入し、読み終わってしまった。あまりに『範馬刃牙』のラストシーンが美しかったために、先に進むのを躊躇していたが、親子喧嘩後の世界を見ることができて本当によかったと、今では心の底から思っている。本人が認めぬ客観的なものであれ、事実上の勝利によって、打ち砕かれないとおもっていた強く大きな世界観を粉砕された。それが、清々しかった。強者が強者でいられなくなるのではないかと、少しでも不安がよぎった自分がバカだった。そんなにヤワじゃないんだわと突っぱねられた気持ちになって、嬉しさが込み上げる。なのに、愚かにも、私は今、『バキ道』に進むのが怖くてたまらない。

宮本武蔵はほんとうに好きだった。本部も、烈も、というか、気付いたら、みんな大好きだった。それでも憧れるのはやっぱり花山薫だ。キャラクターの死や成長ではなく、ただかっこいいというだけで号泣したのを、はじめて経験した。花山は初登場のときからなんにも変わってなかったから、ただ自分が花山を近くに感じただけなんだろうと思う。『刃牙道』になってからページをめくる手がずっと重くなった。
 
武蔵が花山に見た「光」とは、花山のもつ「義」なんではないか。臆することなく、振り返ることなく、ブレることなく、真っ直ぐに、捨て身で振るう渾身の一撃。その姿は、それ自体はまちがいなく狂気である。それでもその美学に心打たれる。同じように武蔵も打たれたんじゃないか。少したすかったんじゃないか。
花山が殴ったところで、相手が死んだところで、戻ってきてほしいものは戻ってはこない。失ったものは失ったままだ。だから花山のパンチは、単純な報復や報いというより、それぞれが抱える恨みや憎しみへの弔いなのではないか。そしてそれは、相手を含め、生きているものへの救済でもあるんじゃないか。
 
(日記が少しずつ刃牙に侵食されてきて、しらない方には申し訳ない思いでいます。スミマセン。気になる方はぜひ読んでみてくださいね。他人事とは思えない漫画です

らくがき漫画 / 真夏の夜のダイヤ









らくがき漫画(2026-8-8)
真夏の夜のダイヤ 
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頭が考えごとで煮詰まると漫画を描きたくなることがある。そんな時はいつも、手のひらのともだち・ダイヤ兄弟たちが体を張ってあらわれてくれる。彼らはいつもバカで真面目で真剣だ。笑われようとも、ばかばかしくとも、恥ずかしくても、ずっと彼らが大好きだ。 
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おまけ

連続

 
(2026-7-6)
 
(2026-7-11)

(2026-7-17)

(2026-7-30)
 
(2026-8-3)
 
(2026-7-20)
 
ひとつの脆弱なかたまりを、何度もハンマーで叩く。治る。叩く。治る。叩く。治る。叩く。治る。叩く、治る、

遠く

 
 
花だけがうまく描けず、完成できないまま数日経った。先日買ったトルコキキョウは一夜でうなだれてしまったから、うなだれた花を見ながら描いている。描けるわけがない、と思いそうになるが、想像力が足りないというか、活力がないだけなんだろう。描けるはず。明日はがんばりたい。今日が日曜日だということを歯医者に電話が繋がらなくて思い出す。夜に盆踊りの音が聞こえた。私は階段に蝉や蜻蛉がいたらどうしようという恐怖で家から一歩も出られていない。力がでない。いろんなものが遠くに感じる。
 
今日もチャゲアスが沁みる。もしかしたらチャゲアスのアルバムだと『NO DOUBT』がいちばん好きなのかもしれない。今だけかな。「ここを 角を曲がろう」ってフレーズが耳に残る。どうしたらこんな歌詞を、曲を作れるのか、まったく検討もつかない。
(そろそろB'zを聞かなければー)