4年前に描いたちいさな絵「水鳥」は、8枚あったのが、残り1枚になった。当時、たぶん煮詰まっていて、気軽なことをやりたかったのと、金欠の作戦として描いてみたのだった。気軽といえば気軽だったけれど、こんな動機で8枚も絵ができてしまったことに少し落ち込んだ。金欠作戦としてもべつにうまくはいかなかったし。失敗だと思ったりもした。何回展示をやっていても、絵を売るというのが少し恐ろしくて、それなのに「一生貧乏なんだ」と想像すると辛くて耐え難くて、だからお金が欲しいと思った。働くことがむずかしいから、自分にできることでお金を得られたらと願った。矛盾している、だけど自然な感情だ。そりゃそうなる。描いているとき、完成するであろう絵のその先にお金や見返りなんかはまったく存在していないのだから、値段をつけるときによくわからない気持ちになるのは当然で仕方がないこと。生活にはあきらめではなく折り合いをつけることが必要なのだと思う。最近、自分の先を歩くかたの近況を聞かせていただいたときに、やっぱりそうなのかもと思った。私には眩しく映った。
私はいつもあきらめるような気持ちで、捨てるような気持ちで選択してきた。だから後ろめたさがずるずると残る。後悔しないなんて無理だが、後悔する方向に歩み出すのは間違えている。どこかでひとつ道を違えている。生きることそのものが折り合いの連続なら、ゆっくりの足取りでまた歩き直せばいいのかも。いつかみんなにやさしい光が降りそそぎますようにと祈りながら。
絵は、がたがたと売ったり、急に勝手に押し付けたりとかで、速度もそれぞれに飛び立った。7羽の水鳥すべてがうれしいご縁だった。飛び立つたびに、それがどんな経緯でもよろこびがかえってきた。それぞれのよろこびが。「こうだからこうなる」みたいに、予測できた感覚ではなかった。だから、なんであれ、描いてよかったと思った。幸せの記憶は長続きしないけれど、しばらくぶんの、あるいはいつか訪れる暗やみの中で、生きるために十分なあたたかさや光がある。