2021年 暮れ

 



もうすぐ2021年が終わりますね。
見てくれている人、ありがとう。
来年も、どうぞよろしくおねがいします。
コロナが流行ってから、何年だっけ?
頭の中は、今年も、こっちにいったりあっちにいったりで、ふりこみたいでした。結局正しいことは分からず、ただ自分にできることを淡々とこなすのみです。
考え事をしすぎて、自分の言葉を信用できなくなってきました。だから、言葉にする前の段階であたためておいてみる事の大切さと、多分なんでも言葉に当てはめなくてよいっていう自分なりの新しい思想を、いつでもポッケにしのばせながら、生活したいと思ってます。
2022年は「ゆっくり」の年にしていきたいです。

こないだは風呂の水が凍っていて、シャワーが使えず困りました。
でも先日から給湯器が使えるようになり、洗い物が本当に楽になって幸せなので、あのときの絶望はわすれました。

よいお年を。

メリークリスマス

 
 
迫ってくるメリークリスマス集団 なかにはチョコ多めなクッキー
お手紙も靴下も用意してないのに今年はプレゼントをたくさんいただいた
起きたらドアノブに袋がひっかかっていて中にはお菓子がたくさん入っていたり
ゆうパックで特大の芋けんぴとはらまき(二枚)がとどいたり
吉祥寺にある「トミーズピザ」ではおかあさんが「メリークリスマス」とラムレーズンのアイスクリームをおまけしてくれたり(ハートの飴も)
ほしかった絵をいただいたり、もっとほしかった絵もいただいたり
春みたいにさわやかであったかいお手紙をもらったり
どれもクリスマスの出来事です。
みんな元気で、みんな楽しそうで、それがなによりもうれしいプレゼントだから、べつにわざわざ物として受け取らなくたってもう、この年になるといいんじゃないかって思ってたんだけども、やっぱり嬉しかった。
みんなありがとうございます。生まれられて良かったですー。
最近七時になると、かならずベルをならして歩く白いひげの男性がいる。クリスマスおわった今でも鳴らしてるのかな。みんながサンタさんになっているので私もサンタさんになろうとクッキーを急いで焼いたりしました。
25日は祖父の命日でもあり、小さい頃からじいじはサンタさんになったと話してた。
いまこんなにプレゼントをもらえるのは、じいじがなんとかやってくれたからだったりするだろうか。最近何かに守られている気がするときがあります
 
 
ふと窓辺に目をやると人形たち集って中よさげ
抱かれてるサンタさんも抱いてるうさぎももらったんだった
すっかり打ち解けてるらしい

最近の夢の記録

一昨日は来客があるからケーキを選びにケーキ屋さんに行った。お客さんが帰った後、また、誰かが来ることになり、また、ケーキ屋さんに行った。花屋で働いてそうなてきぱきした美しいお姉さんがまるで八百屋のようにらっしゃいらっしゃいとケーキを売りさばいてるのでそのケーキ屋が好きだ。
昨日はオレンジ色のフワフワした蝶に傘をプレゼントしたらやたら嬉しそうにしてるのを眺めた。窓からは家がいっぱいみえる。
今日は、自分の子供が何度も何度も死んでしまった。死ぬ瞬間には、頬から白い花が生えるのがわかった。生き延びさせようと思って何度もやり直すが、長くて高校生までだった。悪夢だったんで、早起きができた。

おはようございますー

微熱

 


コロナウイルスのワクチンをアルバイトが偶然休みで次は夕方からの勤務だった日にぬるっと受けてみて、そうしたら申し訳程度に副反応が出た。ここちよい微熱だった。そのなかで描く絵も最高だった。さすがに疲れて、休憩としてほったらかしにしてたホームページの更新でもするかと思い進めていると、ヒートアップしてしまい気づけば何時間もパソコンの前に座っていた。完全に改装してしまった。えらい疲れた。ワクチン打った箇所の痛みも、アルバイト後に発生する異様な右肩の痛みと比べるとぜんぜんだった。

チョコレートようかん

よく訪れる街のなかの知らない地区を歩いていた。
知らないコンビニに入った。「チョコレートようかん」を買った。ようかん食べながら歩いてたら後ろから人が走って来て、ナンパされた。彼は震える手でボールペンを取り出し tamura time とメモ帳に書き、差し出した。
ようかんは苦手だし、ナンパだってされないし。知ってるはずなのに知らない街みたいな路地だったし。タムラタイムってなんだよ。
夢じゃないと言う方が無理があるような出来事。

右肩かじるおばけ


最近アルバイトに働きにいくと、右肩だけが異常に痛くなる。私からすると気が狂いそうなほど長い4連勤の3日目の今日は重い痛みとともに噛みつかれているようなビリビリした痛みまででてきた。なぜなのか。アルバイトが休みだとそんな偏った部位の痛みはない。お化けが辞めた方がいいよって教えてくれてるのかね。
最近絵がうまく描けないでいて、一昨日辺りからようやく描けるようになってきて、久しぶりにイーゼルに紙用意して描いたら楽しくて楽しくて絶対に死にたくないと思ってきて涙まで流れてきて自分はちょっとおかしいんじゃないかしらと思った。
一月半ばで主で働いてるアルバイトを辞めることにした。辞めた後、ひょっとすると餓死するかもしれないけど今はただ、ただ絵を描ける時間が増えるのがたのしみでいる。

シェルター






腐ったニュースを読んで泣いてる人がいた。私は、うーん うーん そうだね だけどさあ だけどね って言ってしまう。
だれもわるくない、わるいことがわるいんだ、と言える世界がよい。とにかく冷静にならなきゃいけない。こういうとき、感情が邪魔だ。みんなにシェルターが必要だし、私も作れる気がした。


コーヒーと時間の話


アルバイトの日は朝起きて気づくと夜になっている。そして一瞬で朝になっている。
最近の休みの日は、起きてすぐに誰かの心配をして、心配だなともやもやしてるうちに夕方になっている。
日が出てるうちでないと描けない絵が、今日も描けなくて、花がかれていって、リンゴが腐っていて、気づくと床が汚くて、落ち込む。
ああ、時間を節約しなければ。しかし、大切な人の心配も削れないし、労働を減らすことによってお金がすくなくなれば暮らせない。じゃあ生活捨てて、絵を描くか、なんて思って、一時はひどい生活送っていた。だけど実際はうまくいかなくて、そういうなかで描く絵はからっぽで、失敗におわる。それでもっと、焦る。
この悪循環に陥ってることだって理解しているのに抜け出せない。圧倒的に時間が足りてなくて、泣いた。
モモでよんだやつだ。確実に時間泥棒に時間盗まれてるわ。と気づく。あがけばあがくほど、節約すればするほど失われていく時間。 
そんなある日、遅刻だと思い込んで大急ぎでアルバイトにむかった。
時計を見たら出勤のぴったり一時間前だった。
絶望と共に、近所のファーストフード店でコーヒーのみながら漫画を描いて時間をつぶした。コーヒー200円分と、貴重な睡眠時間が失われ、損をしたと落ち込んだ。
しかし、その時間は、いままでの生活のなかでいちばんゆっくりながれてくれて、ひさしぶりに、さっぱりした。
今自分に必要なのは、安いコーヒーだった。
その日から、アルバイトの前には一時間ほど早く準備を終わらせるようにして、紙と鉛筆だけで描く絵をぼんやり描きながら 
西友のパックのアイスコーヒーを飲んでる。本当はその時間にも、絵なんて描かなくて良いのかもしれないけど。
西友のコーヒーとファースフード店のコーヒーはちょうどいい。ちょうどよく、こころを休ませてくれる。
最近はほんとうに、コーヒーに救われてる。今朝も、西友のコーヒー飲んでるときに、このコーヒーなかったらいまごろ泣いてるんだろうなと思った。

早すぎる時間の流れのなかで確実に溺れている日々。コーヒーのみながらぬけみちを探すことにした。焦らずにね。もう、早く脱出することは、あきらめた。
何事もそうだ。
抜け道が見つかったら報告します。
皆様もどうか、ゆっくりとね。

くつした


最近100均にいくたびにくつした買ってしまう。
足全体がモグラの顔になってるくつしたや、ふわふわなコアラ縫われたくつしたや、知らない生物がまばらに浮いてるカラフルなくつしたなど。

黒いコートを着て、なんとなく自分はかっこいいんじゃないかと思って歩いてるときなんかに、今自分がこんなにかわいいくつしたはいてるなんて、通りすぎてく人々は知らないんだろうなと思うのが なんか好き

秋晴れ

 



絵がうまくいかなくて荒れた日々を送っていた。絵が生まれやすい環境をどれだけととのえてもうまくいかないので非常に参っていた。
今日は休みだったので、用事を済ませた帰りにあんみつを食べた。ひとりであんみつを食べたのははじめてだった。
ひざしが強かったので、もう勘弁してくれと思うほど暑いものだろうと思って外に出ると案外すずしくて、さっぱりさわやかとした気候だった。
これは昔に家族で群馬のお墓参りに行った時の気候だった。思い出される。私は遠出は嫌いだけど、駅から墓地までの道のりにある栗の木の下で栗を拾うのが好きだった。
去年とか、一昨年のことのようなのにずいぶん経ってたのかと思いながら家に向かって、思い出して家の近くに咲いてるコスモスを見に行ったらコスモスと同じ色した蝶が蜜を吸っていてきれいだった。なんかちょっと、美しくて感動した。
家についたときふと、すごく愛しいにおいがした気がして、あっと思った。
そのにおいは赤ちゃんだったころの妹のにおいか、大好きな家のねこのにおいか、わからないけど一瞬だけ漂って来て、それを抱きしめたくなった。この気持ちはどこにおさめたらいいかわからない。うずうずするので文章を書いてみた。
 絵が描けそうな気がしてきた。

 
  
引っ越してから二枚目にできた絵。
花ばかり描いていたので、次に描きたくなるのはきっと自分の記憶の絵だろうと思っていたが、気づけば花よりもっと自分の内側からかけはなれたモチーフを選んで描いていた。
最近は自分からかけはなれた絵が描けることによろこびを感じる。
どうしたって自分が出てしまうようなモチーフを、いかに自分が出ないようにして描くことができるか。
自分を抑えて抑えて、抑えた先に表れたもの、はみでてしまうものを、見たい。

数ミリのはなし


朝、バス停につくと、おじさんがいた。
おじさんに、話しかけられる。

「そのキュロットはUNIQLOですか、西友ですか?」
(キュロットってなんだっけ?このズボンってキュロットって名前なんだっけ?)
「インターネットで買ったから、ブランドをしらないです」
「わからないんですかお姉さん?」
「はい」
「わからないって言ってくださいお姉さん」
「わかりません」
「参りましたかお姉さん」
「参りました」

こういうときに限ってバスはなかなかこない。
おじさんは、通りすぎる車の説明をしてくれる。

「どうですか?すごいですか?感心しましたかお姉さん」

女子大が近くにあるので、女子大生がたくさんいる。
「右からもお姉さん、左からもお姉さん、真ん中にもお姉さん」
「あなたもお姉さん」

バスに乗ってからも会話が続く。
駐車場をみておじさんが
「いち、に、さん、しー、ご、ろく、なな、はち、八台。
八台ありますねお姉さん。どうですか、感心しましたかお姉さん」
「チハルさんちは日経新聞だって、お姉さん、どうですか、感心しましたかお姉さん 参りましたか」

私は目的地についたので「さようなら」と声をかけたけど、返事がなかった。
バス停から職場まで二分くらいある。その二分間で、人間について思案する。 
あのおじさんと、私には、どこに違いがあるのかね。
(わからない)


夕暮れ、その帰り道。

画材屋寄って、楽しくなっていろいろ買ったらまさか、まさかのデビットカード残金が足りなくて、若干落ち込んでいるところ、瞼に小さな衝撃走る。
てんとう虫がピンポイントでぶつかってきた。そしてそのまま巾着に入ってた水筒の蓋に着地した。
人混みのまちのなか、一人「えっ」
とびっくりする。
多分てんとう虫もかなりびっくりしていた。
あと数ミリずれてたら、私たち重症だったと思うね。


夜の今。

今日の帰り道は、私の町が、とくに私の町という顔をしていない。
私のたましいは多分まだ、あの団地の11階で家族とまだ暮らしてる。
わりと距離がある。



今日という日を、ふとんの上で思い出すと
やっぱりちょっと変だった。

サイドテーブルの夢




一人で暮らしはじめてから、自分が案外ちゃんと生活が出来る人間だった事を知る。部屋はいまだに旅館のようで、気持ちが良い。生活感はなるべく押し入れに収納してる。絵を描き、休む家にしたい。
今日はバス停を探して夜のまちをさまよった。そのときずっとサイドテーブルの事を考えていた。「サイドテーブルに石置いて描いたらさぞたのしいだろうな。」と前からぼんやり思っていた。最近その欲望がどんどん膨張している。とりあえず無印良品に行って、テーブルを凝視して店を出た。バスのなかで、カップルを見つつサイドテーブルを考えた。家についてからケータイを見て、サイドテーブルを調べた。今、Amazonのカゴにサイドテーブルが入っている。早まるな、と正常な私が遠くで叫んでいる。正常な私がどんどん遠退いていく。この作文を書いて、サイドテーブル中毒になってる私を誤魔化しつつ自分を客観視させようと思った。ほんとはサイドテーブルよりも、圧倒的に筆が必要だった。持ってる筆の筆先は全部、4つくらいに割れているので、描いてるときメチャクチャ腹が立つ。(自業自得) 
それでも、サイドテーブルは、ほしいわ。イラストレーションに載ってた、nakabanのアトリエにずーっと憧れる。あんな長い作業机を置くスペースはないから、小さなサイドテーブルでいい。だからサイドテーブルがほしい。
私は、高山なおみさんの海の見える窓があるような家で、nakabanのアトリエみたいな部屋に住んで、のっぽさんみたいな格好で、毎日ちゃんとおいしいもの食べながら、花も愛でられるような、絵を描くじいさんになりたい。老後ね。
でも、そんな理想的な環境で過ごすことになったら、心底クソみたいな絵しか生まれなさそう。それで、結局逃亡しそう。なぜか。なんでだろう。
ひねくれてるからか。

家/映画のひと/穴のあいた石

 
この物件をメールで教えてもらって、内見にいって、すごい早さで契約した。その二週間後を入居日にしたら、あっという間に、そこは家になっていた。
身体はこの家に適合しすぎている。心の三割くらいはまだ前の家にいる。
私は二階のひとへやに住んでいる。
天井の一部分が開くようになってて、天窓がある。その窓が、いつも朝を教えてくれる。それがとっても綺麗だったから、この部屋にしようと決めた。
今日ガスがやっと開通された。
そろそろ、絵を描きたい。
 

このクッキーは、国立にある「コレノナ」店主のありさんからいただいた。
彼女は映画の中の人みたい。
「人生は、まさかばっかりですよー」
と言ってた。
最近身の回りで起こっていることは、まさか、ばかりだった。 だから、まだ、まさか、が起こるのかと、途方もない気持ちになったけれど、ありさんは素敵に明るかったので、良いことにした。抗わずに波に乗っていくほかない。
 
穴ボコがあいた石っていうのは、流される中で波に洗われて土とか石が抜けてこういう状態になるらしい。漂着した穴だらけの石は、質量が失われたというより、むしろ生まれたままの姿のようで、本当に「洗われた」みたいで良い。
そんなこと考えてたら、いろいろ大丈夫な気がしてきた。

ネガ

引っ越し作業のため、いろんなものを捨てまくっている。そのなかで、写真もたくさん捨てた。・・・が、ネガは全部のこした。ネガのほかに、データ化してもらったCDもちゃんと全部、整理してファイルにしまって、のこした。好きとか嫌いとか、まったく関係なしで、ただすべての思い出が手放せられない。実家には、幼稚園のころに母と描いた絵とかも捨てられずにいっぱいしまわれてる。しらないうちに捨てて欲しい。そうでもしないと捨てられない。本当は全部おぼえてるんだから、形がなくても大丈夫なのに。だめな人間です。

最初のころにカメラで撮った写真のほとんどは、撮りたいものにピントがまったくあっていなかった。あとは、だいたいつぶれているか。でもそういう写真の方が、その時の温度やにおいがものすごくリアルに思い出される。逆に最近、ちょっとだけうまくなってピントがちゃんとあった鮮明な写真のほうが、嘘みたいに思える。なんでだろう、不思議。

たまに、いつ撮ったんだろう?なんていう日付のない写真がでてくる。それがあんまり良い写真で、あー。となった。それは名残惜しい気持ちとかではなくて、あのときはまぎれもない「今」だったのが、本当にいつのまにやらすぎさった「思い出」になっていたことへの、さみしさ。これはちょっと病的かもしれない。ちゃんと処理、というか供養みたいなことが、できてないのかもしれない。私は絵を描かないと、だめだな。などと思う。写真家は、すごい。写真って、せまって来すぎて痛い。

 



この家では、永遠みたいに長かった年月を、永遠が一瞬と思えるほど短かった年月をすごした。さようなら。さよーならー。

うそのまちで生きてたあの子


今日見た夢は、恋の夢だった。
新しい家に引っ越して、その隣にすんでいた女の子が私を好きになった。
その子は病気で、もうすぐ死ぬかもしれないらしかった。
毎日私に「告白」をしてくれた。
私は人を好きになる感覚がいまだによくわからないので困ってしまった。
ただその子と一緒に歩いた線路沿いの夕焼けの風景が、自分は大好きだったのはわかった。
起きてからもはっきりと記憶されていて、思い出して胸がじんじんする。

夢を見てから何時間たったかしら。
あの子はもう死んだ気がする。
最初からいない人が死んだときどこで埋葬したらいいんだろうと考える。
とてもかわいい人だった。 
嘘の夕暮れの町だったけど、その中であの子は確かに、1日、1日と、ちゃんと生きていたし、ほんとはないといけないものを、彼女はちゃんと全部持ってた。

石ころぼうし


 
 
私の好きな、「絵を描く人」は、いつだって、くりぬかれた空白の部分を描くために、何千本もの線を使って描写した。空白をえがくには、何千本もの線が必要だった。
自分にとっては引っかかって仕方のないことが、 多くの誰かにとっては心底どうでもよいことだったとしても、ちゃんと回収しないといけないと決まっていた。
それは、仕事だからだ。生きる為にする仕事。
 
本当に、どうしようもないねえ。でも、そういう人がいないと、多分世の中はどんどん腐る。空白を埋め合わせてくれる係が不在の世界は、きっとすぐに、空っぽになる。誰もそれに気づけないまま、みんな死んだように生きる事になる。
どうしようもない人たちが、どうしようもない事を嘆いて、どうしようもない芸術を作ってしまって、どうしようもないまんま、生きててくれてありがとうと思う。 
なのでどうしようもない人を見ているとき、嬉しくて笑ってしまう。
 

 
 
絵って、完成した!と思って、人に見せた瞬間に、変わる(変わってしまう)。それには木綿のハンカチーフのような愛しさと淋しさが含まれてる。
ボロボロになったり、うさんくさくなったり、ちょっと立派になったり、ブランド物でかためられた人になったり、神様みたいになったりする。本当は、大事な大好きなあなたの絵は、ずっと家のひきだしにしまっておくか、燃やしてしまうのが良いのだ。誰にも見せる必要なんかない。
絵を発表してる人たちは、多分みんなちょっと不健全。絵と一緒にあなたも回復できないほど怪我を負うくせに、見せたいと思う。よっぽど社会に優しくて、人を信じていて、大好きだからしょうがない。 
・・
話がそれるけれども、絵の学校にたいして感じていた違和感の一部分にこれがあった。学校は社会の中にいることをいつも前提とされてて、でも絵に関してはべつに社会の中にいなくたって良いものなのに、社会の中にある絵を描かないと意味がないという空気が漂っていて、それが変だと思っていた。(私が勝手に思っていただけかもしれないけど)
絵を描く悦びは守らないといけないはず。
 



 
(作文については、宇宙船に乗って、宇宙に手紙をビュン!と飛ばしてる気持ちでここに投稿する。ときどきは、見えないあの子に届きますようにって祈りながら。)
 

(今日の絵は、だいぶ前に描いた石と、だいぶ前に描いた人でした)

あ、先日、「いま、どこにいる?」というリレーエッセイに参加させていただきました。面白いエッセイがリレーになってます 私のも含めてよかったらよんでみてください。


個展 花の記録




先日個展に来てくださって、久しぶりにお会いした人を見た時何故かドキッとした。それはなんの気持ちだ?とずっと考えていた。ろくに話した事もないし、これから先も話すような事はないだろうという人だったし。
しばらく考えて生活を送り、昨日の昼になってようやく、あー、夢の中で秘密の話をした人かもしれんと気付く。そういうことか。
日常が夢に引っ張られている。

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実際の会場での個展が終わってからというもの、時間が過ぎるのが本当に早く、それについていけない。
この速度にのまれないように、もがくように絵を梱包しダッシュで郵便局に預けた。
今まさにウェブ上で展覧会をしているので、ちょっとだけ実際の会場での感想を書く。
 
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今回の個展はひたすら楽しかった。何から何までが自然に発生したような、何も無理がないような感じなので、呼吸がしやすかった。「絵を売る事」だって昔はずっと頭をひねっていたのに、今回の展示ではそれも自然なながれのように捉える事ができた。(何度か緊張で吐きそうにはなったけど)うまく言葉にできないけれど、はじめてお金がきれいに思えた。
私は社会のことが、好きらしい。<社会と絵>という関係も好きらしい。これからはよっぽど健全に、絵を描いて売って、が出来るようになるのかな。
じゃあでも、本当にみずみずしい潔白な絵を描けるのって、死ぬ間際とかになるのかもしれないな。それは嘆いても仕方の無いことだけど。
 
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会期中は雨がふったり晴れになったり風が背中を押して来たり夏なのになぜか涼しかったり、地球がいろんな表情をしていた。それと同じように個展の会期中、私を取り巻く環境も毎日パタン、パタンと変わった。昨日まで敵だった人と一緒にごはん食べてるみたいな、そういう内容のもの。(それが人であったり心の中の人であったり感情であったり)あれなんだったんだろう。多分いい方に変わったんだけど。不思議な一週間だった。
 
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花の絵をえらぶ人を見るのがすごくよかった。その人が選ぶ花は、なんとなくその人に似てる事が多かった。買ってくれた人にたいしては、届くべき人のところに届いた感じがした。それが心底嬉しくて、ためいきが何度も何度も出た。(ありがとう)実は手放したくないと思っていた一番お気に入りの花は、この人に持っていてほしいという人が突如あらわれて、本当にその人が買ってくださった。そのやりとりをしてるときに、こういう感覚って人生であと何回くらい味わえるのかなと考えた。はー、ほんとに嬉しかった、楽しかった。
 
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嬉しかった、楽しかった、ありがとうしかでてこない展覧会にできた事は、これから先のわたしの人生をてらしてくれる灯りになると思う。こんなに希望を教えてもらったから、多分大丈夫な気がする。ほんとにありがとうございました。
 あ、ウェブ版のほう、よかったら見てくださいー。
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インターネット版個展開催のおしらせ


先日まで高円寺pockeにて開催していた展覧会を、インターネット上でも開催することにしました。やはり現物をみていただきたいという気持ちが強かったので悩みましたが、これは自分に唯一できるコロナ対策だと思い、開催を決めました。
pockeでの展示は設営からわたしひとりで行いましたが、ウェブ上での展示も同様に、すべて私が制作しました。(写真(旧・荒川さん)や、DMはがきのデザイン(浦川彰太さん)のご協力をのぞいて。ありがとうございました!)
実際の展示に限りなくちかい空気感をただよわせる事ができたような気がします。
ここなら、発熱があっても、心配事があっても、遠方でも、お越し頂けます。
よろしければご来場ください。
 
↓こちらにリンクを貼ってあります
 

遠いともだちへ


今日も昼寝をしてしまって 起きるといつも変な心臓の高鳴りがある
でも今日は何か違う、胸騒ぎがする
急に、もう今となってははるか遠いような昔のともだちに会いたくなった
いつかきっと仲良くしようと、あんまりにも上から目線で無責任だけども、ここに、書きたくなった
どうか、あなたも、あなたの大切な人たちもみんな無事で、健康で、幸せに暮らせますように
全部の悩みが解放されて、ただ目の前にある悲しみと嬉しいことだけをばくばくたべて、鮮やかに生きていけますように


なんでも大丈夫だと思っていても、ほんの些細な出来事で、せっかく巻いた糸落としてまた巻き直さないといけないみたいな状態になったりする。確かなことなど、一個もなくなる。そんな時に感じた答えのないもやもやしたものの記録。

 
何かに対する激しい批判と、更にそれについての批判を目にするとくたびれる(それが自分の思想と同じものであっても。)選挙には行くけど、自分の意志を外に出すのはしなくなった。そういうのを言葉にするのは、今はとっても難しいというのもあるけど。

絵と社会に対して思ってることが、ある。が、まだ上手く言葉にできない。絵に対する、断片的な悲しみ、虚しさを、どこでもよく見つける。自分も、無意識のうちにやってしまってる事だとも分かる。
私はまだ芸術に憧れているし夢見ている。だから悲しいだけ、個人的な悲しみである。
でも、どんなにどんなに汚い背景があっても美しいものは美しいのに、とは、声に出して言いたい。悪いことが悪いだけ、作品そのものに罪はない。
こっちは小さい声でしか言えないけども、それは、人間に於いてもそうだと思ってる。(信じている。)

町、人通りのあるところにひょっと顔を出すと、水族館のマグロのように、人々が止まらずに動き続けていた。うしろ振り返る隙もないみたいな、もっとゆっくり歩こうとも言えないような忙しい雰囲気が大嫌いだ。
今の自分の心情はその風景そのままみたい。どうにかしてそこから出れないものか。

…謝罪、罪、感謝、建前、本当にいいこと、本当はわるいこと。溢れかえっている。
何もかも早すぎる、情報が多すぎる、目が回る。みんなよくがんばってる、みんなやさしい。みんな悪いしみんな悪くない、本当に。
具体的な不安事がないときにまで、ただ生きることが窮屈に、ふとしたとき恐ろしく思える。胸がきゅうっと痛む。

地球のあんまり人がいないところで、内緒でこっそり住むための穴を掘って暮らしたらいいかもしれない。眠れない人はみんなその穴に入って、安心で眠ろう。
ほんとにそんな穴、作れたらいいが。
 
今はなーんにも解決できないけど、こういうもやもやは、覚えておくのが大切だと、尊敬する人に教わった。 だから、書いてみた。