私の好きな、「絵を描く人」は、いつだって、くりぬかれた空白の部分を描くために、何千本もの線を使って描写した。空白をえがくには、何千本もの線が必要だった。
自分にとっては引っかかって仕方のないことが、 多くの誰かにとっては心底どうでもよいことだったとしても、ちゃんと回収しないといけないと決まっていた。
それは、仕事だからだ。生きる為にする仕事。
本当に、どうしようもないねえ。でも、そういう人がいないと、多分世の中はどんどん腐る。空白を埋め合わせてくれる係が不在の世界は、きっとすぐに、空っぽになる。誰もそれに気づけないまま、みんな死んだように生きる事になる。
どうしようもない人たちが、どうしようもない事を嘆いて、どうしようもない芸術を作ってしまって、どうしようもないまんま、生きててくれてありがとうと思う。
なのでどうしようもない人を見ているとき、嬉しくて笑ってしまう。
絵って、完成した!と思って、人に見せた瞬間に、変わる(変わってしまう)。それには木綿のハンカチーフのような愛しさと淋しさが含まれてる。
ボロボロになったり、うさんくさくなったり、ちょっと立派になったり、ブランド物でかためられた人になったり、神様みたいになったりする。本当は、大事な大好きなあなたの絵は、ずっと家のひきだしにしまっておくか、燃やしてしまうのが良いのだ。誰にも見せる必要なんかない。
絵を発表してる人たちは、多分みんなちょっと不健全。絵と一緒にあなたも回復できないほど怪我を負うくせに、見せたいと思う。よっぽど社会に優しくて、人を信じていて、大好きだからしょうがない。
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話がそれるけれども、絵の学校にたいして感じていた違和感の一部分にこれがあった。学校は社会の中にいることをいつも前提とされてて、でも絵に関してはべつに社会の中にいなくたって良いものなのに、社会の中にある絵を描かないと意味がないという空気が漂っていて、それが変だと思っていた。(私が勝手に思っていただけかもしれないけど)
絵を描く悦びは守らないといけないはず。
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(作文については、宇宙船に乗って、宇宙に手紙をビュン!と飛ばしてる気持ちでここに投稿する。ときどきは、見えないあの子に届きますようにって祈りながら。)
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(今日の絵は、だいぶ前に描いた石と、だいぶ前に描いた人でした)
あ、先日、「いま、どこにいる?」というリレーエッセイに参加させていただきました。面白いエッセイがリレーになってます 私のも含めてよかったらよんでみてください。
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