描きはじめはほとんど青だけ、時々きいろを混ぜ、青とみどりで埋める。何層も青を重ねて、そのあとは思い切って黒をさす。はじめの黒はいつも緊張する。青を壊すことの後ろめたさも。気にしていたらいつまでも絵が進まないから一々止まらないけれど。
いつか止まるときがくるのかな。青い花火はきれいだった。
ふとしたとき、無性にかなしくなることがある。今がそう。わざわざ誰かに話すようなことではないが、すでに傷ついた部分をもう一回針で刺すような、たしかな痛み。その痛みは自分の意思ではどうしようもないもの。うれしいこと、やさしいこと、好きなものを思い出す。
コンビニで、郵便局で、書類のことをわたわたとしていた時、店員さんは「ゆっくりで大丈夫ですよ」と、ゆっくりと言ってくれた。コンビニでも、郵便局でも、それぞれの担当の方が。それはわたしがよっぽどパニックになっていたからかもしれないが、その一言で目のぐるぐるは半分くらい解け、安心した。平常心で作業をすれば、わたしにだってできることがたくさんある。できないことばっかりのわたしにも。こういうまなざしのことをやさしさって呼んだらいいのかなあ、なんて、帰り道に考えた。少し泣きそうになった。
このあたりの夕暮れどきは、以前よりもずっと好きな景色を見せてくれる。空が広くて、静かで、誰の目線もない、この時間は宝物だ。暮れかけた、影まで青にのまれた時間。
新しい家の近所のスーパーには、知らなかった野菜がたくさん並んでいて、最近、浮かれているのか、よく手にとる。なかでも「サラダセロリ」はすごくおいしかった。家の雰囲気に乗っかって蒸篭も新調したから、最近は何を蒸そうか、どの食材を使ってみようか、何をつくろうかと、ごはんのことばかり考えている。本屋で右往左往して選べなかった料理本も、最近コツを掴み、買えるようになった。家で読んで身の丈に合ってないと思っても別に落ち込まなくなった。(身の丈、なんてないのだろうし、なりたいようになればよいのだろうし、)だれかひとりを、どれか一冊を、芯から信じようとするから絶望するのだ。わたしは多分、「信じる」という行為が、からだに合っていない。信じるのではなくて、色んなものや人や風景のすてきなところを勝手に吸収して、勝手に楽しく生きていくのが、きっとよい。きっと当たり前の話だが、わたしはようやくわかったのだった。