影を産み出すから光は優しい


 
 
漠然とらくがきの漫画を描き始めて、続いてしまって完結できなくて結局数日費やして、(そもそもが汚すぎるので無茶なのだが)できるだけ見やすくしようと明け方まで編集作業(足掻き)。絵も描かず、外にも出ず、なにをしているんだろうと思ったりするが、らくがきだってなんだって、やるときは手を抜かず真剣にやるんだと決めたので、仕方がない。本意が伝わらなかったとして、とくに悪いように伝わってしまったとして、それを相手に押し付けるのは、傲慢だと思うようになった。自分の落ち度をしっかり認識するようになった。描くならば、描き切らなきゃ意味がないんだと思う。へたくそな漫画を本気で必死で描いては、刃牙を読み、面白さに動悸がしてきて、桃を食べ…いつかの夏休みのような日々を過ごす。今日はノートを広げて、宮本武蔵と範馬勇次郎の関係性、また、なんで刃牙に宮本武蔵がでたんだろうということを、ひたすら考えた一日になった。本当に小学生のようでびっくりする。
 
『グラップラー刃牙』、『バキ』、(あいだで『疵面』、『創面』)『範馬刃牙』を読破して、『刃牙道』に突入し、読み終わってしまった。あまりに『範馬刃牙』のラストシーンが美しかったために、先に進むのを躊躇していたが、親子喧嘩後の世界を見ることができて本当によかったと、今では心の底から思っている。本人が認めぬ客観的なものであれ、事実上の勝利によって、打ち砕かれないとおもっていた強く大きな世界観を粉砕された。それが、清々しかった。強者が強者でいられなくなるのではないかと、少しでも不安がよぎった自分がバカだった。そんなにヤワじゃないんだわと突っぱねられた気持ちになって、嬉しさが込み上げる。なのに、愚かにも、私は今、『バキ道』に進むのが怖くてたまらない。

宮本武蔵はほんとうに好きだった。本部も、烈も、というか、気付いたら、みんな大好きだった。それでも憧れるのはやっぱり花山薫だ。キャラクターの死や成長ではなく、ただかっこいいというだけで号泣したのを、はじめて経験した。花山は初登場のときからなんにも変わってなかったから、ただ自分が花山を近くに感じただけなんだろうと思う。『刃牙道』になってからページをめくる手がずっと重くなった。
 
武蔵が花山に見た「光」とは、花山のもつ「義」なんではないか。臆することなく、振り返ることなく、ブレることなく、真っ直ぐに、捨て身で振るう渾身の一撃。その姿は、それ自体はまちがいなく狂気である。それでもその美学に心打たれる。同じように武蔵も打たれたんじゃないか。少したすかったんじゃないか。
花山が殴ったところで、相手が死んだところで、戻ってきてほしいものは戻ってはこない。失ったものは失ったままだ。だから花山のパンチは、単純な報復や報いというより、それぞれが抱える恨みや憎しみへの弔いなのではないか。そしてそれは、相手を含め、生きているものへの救済でもあるんじゃないか。
 
(日記が少しずつ刃牙に侵食されてきて、しらない方には申し訳ない思いでいます。スミマセン。気になる方はぜひ読んでみてくださいね。他人事とは思えない漫画です