2024-08-30

名前

 

 

今月に描いた3つの絵。
スケッチのように描いていたけれど、スケッチと呼ぶのがしっくりこなくなってきた。
とりあえず、絵、と呼ぶことにする。描いたこれらの絵を眺めていたら、名前をつけてみたいと思った。
 
泣いているひとをみて泣けるか、という話を友人としていたとき、友人は「絶対に泣かない」 と言った。「ゆめさんはたぶん泣いちゃう」とも言われた。わたしはたしかに、泣いているひとをみて涙が出てきてしまう。身勝手だと感じるから、それについて後ろめたさがある。実際の日常生活では人の気持ちがわからないということで、他者を苦しめたり自分も苦しんだりしている。日ごろこんなにわからないひとが、なぜそんな急に相手の気持ちをわかったようになれるのか。願望の裏返しか。感情の共感性とはどういう経路で発生するものなのだろう。
友人は、(友人自身が)泣いているひとをみて泣くことについて「嘘でしょそんなの」と思うから、絶対に泣かないという。泣いても泣かなくても、どちらがよい作用を及ぼすかは人によるものだが、そのような場面に出くわしたとき、人によった行為をできないから、嫌だなと思う、という。彼女の、「絶対に泣かない」ところに、わたしはとても助けられている。いやだなと思わなくていいのにとわたしは思うけれど、彼女はそうなのだなあ。

瓶は、実体がないわけでない。透明だけれど、質量がある。そこにちゃんと在ることは、おちる影や、周囲の色の反射や、ふれることで、すぐに分かる。
同じ要因から、瓶は環境によって特に印象が変わる。表情が変わったみたいにも見える。身勝手な意識から、それが生きているように思えてくる。ふしぎで、怪奇な現象だ。
わたしがわたしから出ることは、できないのに。

花の本をまた開いてみるコーナー⑤

 


 
今日もだいぶ眠いですが開いてみます。
 
今日は文字も読めました。
言葉はミスリードのように思えました。
絵は言葉よりはホントな感じがします。

画像はべつの日に、同じ種の花を描いた絵です。(時系列順です)
これらはたぶん、デルフィニウムという名前をもつ花です。何度も描いているのでおぼえられました。こうして並べると、同じ種と思えないくらい花の形や葉の付き方とかにばらつきがあります。日記を読むとそのときの自分なりに観察していたようだけど、いったい何を見ていたんでしょうか。 
 
「観察は大事」と、絵を教えてくれる人たちにはよく指導されていた記憶があります。
(たしかに観察がすごい絵に感動することは多いけれど、それはその絵の内側に感動しているんであって、観察がすごいから感動しているわけでない。じゃあ自分が観察を強要されねばいけない理由はなんなのか)…とクソガキは疑問を持ちながら絵を描いていましたが、こうして繰り返し花を描いて(このコーナーの③で述べましたが、)はじめて観察ということの大事さに気づきました。
うまくできていなくても、結局なんとなく固執してしまう<観察する>という行為の底には、誰かからの指導が敷かれているのかもしれません。というか、自分で敷いていたのですね。観察したからといって許されることなどなんにもないのに、安心の材料としてそれを駆使しているんだとも思えてきました。

つきたくてついたウソは悪だけど、そんなつもりじゃないウソは悪ではない、と無自覚に分類している自分の頭にも興味があります。鈍いだけかもしれないですが。
こうして絵を並べてみると全部ウソみたいに思えるのが、本当に滑稽というか、愛らしいです。まだまだずっと花を描きたいです。

2024-08-28

花の本をまた開いてみるコーナー④

 


夏バテなのか台風のせいなのか、いつもの五倍くらいぼんやりしています。
今日は本当の本当にぼんやりで、まったく読む気になりません。
無でめくっていきます。第3弾はこちら。

このコーナーの前回や前々回なんかは描いたときのことを思い出したりしていましたが、超のつくぼんやりのときは何か思い出そうと思っても思い出せないものですね。
日記は目がしぱしぱするから飛ばします。描かれた花々は自分とはまったく関係ない気がしてきます。

この本の絵は、紙の特性上、原画よりもグレイッシュに出力されました。印刷の立ち会いに伺ったとき、印刷したてはすごく発色がよくて感激したのに、持ち帰って改めて見たら沈んでたということがありました。
人間が遠のき、発色とともに鮮度も洗い流されたんですね。
当時は若干気がかりだったのですが、今はこの色調の大切さを知っています。

がんばらないと読めない日記や散文は、がんばれないので読まなくていいやと読み飛ばします。そもそも読ませる気がないような文字です。今更、こんなタイミングで、デザイナーさんのすごみを感じました。読まなくていいんだこれ!
淡々とめくっていたら最後のページまで到達しました。心が全然動かなくて、すごく嬉しいです(変な感性でしょうか)。
古いアニメーションみたいにおもしろいです。
もしこの本を持っている方はぜひ、ぼんやりの日にも開いてみてください。

2024-08-24

花の本をまた開いてみるコーナー③

 

今日も本の続きを読んでいきます。第2弾はこちら。

このページの絵は、とても苦労しました。
観察を怠ってもフィーリングや色彩やタッチでごまかせば勝手に「絵」になってくれるから、それに甘んじて / また、枯れたら描けなくなる、という不安感から、すごいペースで絵を描いていました。が、この花を以前と同じ心情で仕上げようとすると、自惚れで甘ったれでも、さすがに見て見ぬ振りはできないほどに紙上にウソがあふれます。観察が必要でした。

観察。
これを描いているとき、目的は絵を描きあげることじゃないのかもしれないと気づいたんでした。そして、枯れるのを恐れることをやめたいと願いました。誰のため?と聞かれたら、花のため!..とか当時は思っていた記憶があります。

これまでの絵は花に理想を投影してそれを描いていただけだったんじゃないかと、観察した絵を描き終えると、改めて過去の自分への怒りとか虚無感とかがわいてきました。今、絵を見返しても全然そんな感情は沸きません。
怒濤の感情、怒濤の花たち、月日という波にずいぶん洗い流されて、もうだいぶ残ってないです。清々しさに涙が出そうになります。

2024-08-22

花の本をまた開いてみるコーナー②


 
今日も読みつづけてみます。第一弾はこちら。

ページをめくると、少し景色が変わった実家の周りを歩いているときみたいな、望郷がありました。完成された絵というより、その筆跡をたどるように見てしまいます。前回ご紹介した①のページと同様、すごく厚塗りですが、何枚か花を描いて調子が乗ってきて、わりかし塗り直さずに描けるようになってきた段階だった気がします。
私は恋とか胸キュンとかよくわからないまま生きていたのですが(欠けた感性に対して少しのコンプレックス的なものも抱えつつ)、花を見てどきっとする感覚があり、これはもしかしたら恋なんではないか?と妄想したりもしていました。
頻繁に花屋に通い、絵は花が枯れる前に描き終えます。とにかくたくさん描きたくて。描きおわった花は大きい花瓶に乱雑に放り込み、茶色く乾涸びたら捨てました。こんな感じだったので、「花を愛でる」なんて言葉からはほど遠い扱いをしてきたというのに、当時の自分は世間で言う「花好き」みたいな人になれたんでないかと勘違いもしていました。恐怖です。
思い出されることは恥ずかしいことばかりです。絵の中の花はぴかぴかしていて、眩しいです。

2024-08-21

花の本をまた開いてみるコーナー①


 

イトマイさんで花の絵の展示がはじまりました。
花の本は、これまで描いた花の絵を時系列にならべ、合間合間に日記や空想のお話を織り交ぜた本です。
刊行から約1年経ちました。なんとなく記念して、会期中、自分も久しぶりに花の本を開いてみようという企画を、ゆるくやってみます。今回は第1回。

絵自体はネットにアップしたりするためによく見返していましたが、日記まで読み返すのはとても久しぶりです。
どうやらこの黒いチューリップは、2020年11月21日の真夜中に、白いチューリップを描いたものらしい。今こんなふうに大胆に黒をつかうのは、なかなかできないと思います。黒という沼に落ちてやる、話はそれからだ!という心持ちをまずつくらないと、黒が暴走して、どんどん増えて、真っ黒い絵になるか、ずーんとしたぼんやり薄暗い絵になって、失敗してしまうからです。黒を舐めて使ったとき、何度も痛い目をみました。
たった4年前のことですが、この潔さに、若さなのか、強さなのか?パワーを感じます。花に全然興味なさそうなのも笑えます。
はっきりと距離があって、おもしろいなと思いました。

2024-08-13

うれしいおしらせ / 尾形亀之助さんのポストカード

 
 
おしらせつづきです。
なんと、尾形亀之助さんの詩に、わたしが描いたばらの絵が添えてあるポストカードができています。すてきな紙に、活版で印刷されたもの。
宮城県にある、毛萱街道活版印刷製本所の小熊さんが発行してくださいました。
先月まで仙台/曲線さんで小熊さんがひらいていた展示「タイポグラフィカルをがたかめのすけ 〜金属活字による尾形亀之助『障子のある家』再現展〜」に伴い制作されました。私が描いたばらの絵を見て、それに合う詩を小熊さんが探してくださったそうです。 
私がばらを描いたのは、小熊さんの工房のまわりに咲く小さなばらのことを思い出してのことでした。
 


先月仙台へ赴きましたが、その目的はこの展示の搬入のおてつだいの為でした。案外搬入作業に時間が掛かってしまい、展示をゆっくり鑑賞することは叶いませんでしたが、その他の物販(この展示の図録、復刻版『障子のある家』などなど)をプレゼントしてくださり、図録からですがその展示を味わうことができました。先日ようやく読みましたが、胸がグッとなりました。
小熊さんが復刻した『障子のある家』*についてのいろいろのことを、わたしはうまく言葉にできません。ただただ、その姿勢やまなざしに、安心させられています。
*底本は昭和23年に草野心平が再販本として発行したもの。初版を忠実に再現されたといわれいるそうです
 
図録の中で、小熊さんへ向けて寄稿された、友人でもある熊谷麻那さんの文章『物理的な言葉』が、活版印刷や小熊さんについてのことを伝えるすばらしい文章だったので、一部引用して、ここに載せます。

 以前、自身も開発に関わった機械を、6億キロ先の宇宙まで飛ばし、地球への帰還までを見守りつづけた研究者の話をきく機会があった。6億キロというと、わたしの想像をはるかに絶する。そのひとはなぜ、その道程を進みきることができたのか。話を伺っていくうちに感じられたのは、「そのひとは、そのひとなりの(想像ではなく)実感を、6億キロぶん積み上げたのだ」ということだった。6億キロの道程に、説明できない一歩はないように見えた。
 小熊さんの所作のひとつひとつは、その研究者と同じように、自身にとっての実感を積み上げる必要な過程なのだろうと思う。しかも小熊さんの道には、たとえ6億キロ先まで進んでも、ゴールと言える何かがあるかはわからない。反対に、ふいに明日、ここが到達地点だと思えてしまうこともあるかもしれない。そんな気まぐれな道で、小熊さんは毎日「ま、こんなもんか」と諦めにも聞こえる実感を、静かに、確かに積み上げている。そこに含まれる滋味を、わたしは見ている。

この文章が載った図録や、小熊さんが復刻された『障子のある家』、詩とばらの絵のポストカードは、以下のネットショップから購入できます。よかったらのぞいてみてください。
ちなみに、上の文章を綴った熊谷さんがこの展示に併せて小熊さん宛(正確には、毛萱街道活版印刷製本所 宛)に制作したよみもの『歩 6/100号』も購入できるようです。こちらは、私も黒い丸として参加させていただいています。
(私もなぜか在庫を持っていますので、そのうち販売するかもしれません)

小熊さんのオンラインショップ…☆(クリックでとびます)

たのしいおしらせ / スタンプカード

 

たのしいおしらせです。スタンプカードをつくりました!
各種SNSではなんとなく告知していましたが、ホームページかブログしかみていない方へむけて、こちらでもおしらせさせてください。

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【ルール】
◉市村柚芽の絵がかざってある展示1回ご来場につき1回スタンプがおせます 
(スタンプカードをお店の方に渡しておしてもらってください)
◉スタンプが10個たまったら、ささやかな記念品をさしあげます
◉スタンプは展示ごとに変わる予定です
同じ展示でも、別日にご来場した場合はスタンプがおせます
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最近展示をさせていただく機会が増え、これを利用してなにかたのしいことができないかなとおもい、つくってみました。記念品は何にしようか考え中です。考えているこっちもとてもたのしいので、うれしいです。
来週くらいから始まる東京でのちいさな展示(イトマイさん)からこの取り組みをスタートする予定です。みかけたらぜひ、スタンプをおしてもらってください。
絵そっちのけでスタンプ目当てで展示にきてくれる人がいたりしたらおもしろいですね。各地で展示ができたら、スタンプついでに観光して、はからずもその土地やお店をたのしんでいただけるんではないでしょうか。☆三
 



スタンプかわいい!!!

2024-08-10

レモンと瓶

 
 
きのうのスケッチ、レモンと瓶
 
わたしはレモンを描くとき、『レモンイエロー』はつかいたくなくて、『ネーブルスイエロー』がいつもしっくりくる。これに、更に少しの肌色や、ピンクも加えたい。軽い茶色も混ぜたり。朱は調子に乗るとやりすぎになるので、加えるとしたらほんとうにすこしだけ。また、きいろのことをするとき、自然光でやらないと、だいたい失敗する。
レモンのにおいはさわやかさとあたたかみ(やさしい感じ)があって、たぶんわたしはレモンの果肉のすっぱい部分より、ぶあつく不透明な皮に惹かれる。
昔、美術予備校でモチーフ用のたくさんのレモンがぎゅうぎゅうにつまった箱を見た。レモンとレモンが重なったかげが桃色に反射していて、体温があるように思った。


はらはらと砂のように手放したかけらを
波が運んで春になる

(この絵を描いていたとき聴いてたうたの、きれいなことば)

2024-08-03

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(2024-7-30)

最近の絵ふたつ

 

 
最近描いた静物2点。
色付いている。夏が来た!
最近は、青果コーナーから目が離せない。