花の本をまた開いてみるコーナー⑤

 


 
今日もだいぶ眠いですが開いてみます。
 
今日は文字も読めました。
言葉はミスリードのように思えました。
絵は言葉よりはホントな感じがします。

画像はべつの日に、同じ種の花を描いた絵です。(時系列順です)
これらはたぶん、デルフィニウムという名前をもつ花です。何度も描いているのでおぼえられました。こうして並べると、同じ種と思えないくらい花の形や葉の付き方とかにばらつきがあります。日記を読むとそのときの自分なりに観察していたようだけど、いったい何を見ていたんでしょうか。 
 
「観察は大事」と、絵を教えてくれる人たちにはよく指導されていた記憶があります。
(たしかに観察がすごい絵に感動することは多いけれど、それはその絵の内側に感動しているんであって、観察がすごいから感動しているわけでない。じゃあ自分が観察を強要されねばいけない理由はなんなのか)…とクソガキは疑問を持ちながら絵を描いていましたが、こうして繰り返し花を描いて(このコーナーの③で述べましたが、)はじめて観察ということの大事さに気づきました。
うまくできていなくても、結局なんとなく固執してしまう<観察する>という行為の底には、誰かからの指導が敷かれているのかもしれません。というか、自分で敷いていたのですね。観察したからといって許されることなどなんにもないのに、安心の材料としてそれを駆使しているんだとも思えてきました。

つきたくてついたウソは悪だけど、そんなつもりじゃないウソは悪ではない、と無自覚に分類している自分の頭にも興味があります。鈍いだけかもしれないですが。
こうして絵を並べてみると全部ウソみたいに思えるのが、本当に滑稽というか、愛らしいです。まだまだずっと花を描きたいです。