しっくりこないこと・嫌悪すること、についてもやもや考える。
先日お断りしたお仕事のこと。しっくりこない、ということを理由に、お断りさせていただいた。どうして自分は「直感のワクワク感」や「ありがたさ」で承れないのか。それは別に悪いことじゃない。こういう出来事があるとき、自分が大切にしていることがなんなのかよくわからなくなる感じがある。断ったとき、なんか拭いきれてない。なんなのか。
嫌悪について。あー、いやだなと感じるとき、対象を自分の鏡として見ている気がする。相手を概念的/観念的にしか捉えていないような。鏡なので、自分が変われば相手もまったくちがうように見える。笑えなかったお笑いが、笑えるようになったりする(逆も然り)。これはいいことなのか悪いことなのか、そして当たり前のことなのかよくわからない。こんなんでいいのか?と今は思う。そんなふうに人を見ちゃって大丈夫なんだろうか。
今描いている花の絵がうまくいかない。うまくいかないと、自分への信頼が、ぴしゃりと割れる。薄いガラスのように張り詰めていて脆い。まあ、絵についての信頼など、そんなものでいいんだろう。というかいつまでもその程度のものにしかならないだろう、わたしの場合は。
筆跡がとてもいやらしく媚びてくるとき、おしまいが近づいているように思う。気を着けないといけない。もしくは決意しないといけない。描き直して塗り直して。絵の具を塗り重ねすぎて全然乾かなくて暇になる。暇になるとすぐ、こうやっていろんなことを考えてしまう。気付くと水バケツは真っ黒で、それは自分の腹の底の感情があらわれたみたい。
きれいな花を描けばきれいだと喜んでくれる人は一定数いてくれて(それはありがたいことである)、だからこんな葛藤は自分以外には重要なものでもないんだろう。まあ当たり前か。でも時々ばかばかしくて笑えてくる。ほんとうにのんきだと。でもわたしはばかばかしさとややこしさを優先したい。多分そっちが本体(正体)だから。しっくりこないことはこれと隔たりがあるということかもしれない。
愚直ダッシュ!いにしえの大好きな言葉。わたしは多分、いろんなことを愚直ダッシュで切り抜けたらいいんだと思う。大事なものを大事にするには。もうすいませんって言うなと怒られながらすいませんと言いながら愚直ダッシュで去って行くのが多分身の丈にもあってる。そのラインだ。その意気だ!ある種わたしの人生は難解マゾゲーかもしれない。