暇沼

 



 
なんとなく見返したくなった画像を探すため、前使っていた携帯のsdカードを開いてみる。たかだか3年そこら前の写真。先日、2年前の出来事をずっとむかしかのように話す人に、ぜんぜん最近ですよ、と言ったというのに、あまりにも懐かしい。
このクッキーは、必死にはたらいて、だめになったとき、せめてもと思ってそこで働くみんなに焼いたクッキーだ、とか(振り返ると、なんて図々しいやつなんだとおもいます)、ふつうに生きてたから、ふつうの携帯のカメラで撮った、ほんとになんでもない表情の猫とか、夜に散歩でみかけた小さいばらとか。そのときは忘れたくないと思って撮ったのに、結局それが見たくて見返すことはなく、今の今まで忘れていたことたち。猫はわたしのなかで、居たときよりも大きくなっている。亡くなってからどれくらい経ったかもうわからない。実家に帰って撫でられていた日が、ほんとうにずっと昔のことのような気がしていたのに、全然最近までそこに居たのだった。生前、わたしは今のような事態になるのをとても恐れていて、そうなったときわたしは狂うか死ぬとおもっていた。今日ものうのうと生きている。ぜんぜん違うことで気が狂うんじゃないかとおもったりして、うまく寝れなくなったり心臓が痛くなったりしている。
結局探していた画像はみつけられず、記憶の断片がまた呼び起こされ、気づけば見事に沼に嵌っていた。わたしがもっているひまは、沼に嵌るためのものじゃない。もっとちゃんとした立派なひまがいいのだ。沼に嵌るときは、やることリストに「・沼」を入れなければいけない。今日やること、あと10個。そうじき、梱包、黒丸、お返事etc..。

たのもしい感情


残金がゼロに近づいていく日々。
お金がだいぶないとき、今の自分はなにか欠けているんでないかと取り憑かれたみたいにずっと考える。ここ数日もそう。「なにか」って、「お金」でしかないのに。なんなら生活できているなら「お金」だって大丈夫なのに、...。
自分の存在が不潔で不穏なような気がして、とにかく身を清めたくなる。こころの汚さが表面に出てるんではないかと怖くなる。とりあえず髪の毛とか切りたくなる。服もかばんもイヤリングも、みんな汚してしまったような気がして、新しいものが欲しくなる。しかし、そんな余裕はない。だからもやもやだけ残る。
でも、わかっている。いつも、金欠が終わると同時に何もほしくなくなるから。毎回、超足りていることを思い出している。
こころが汚かったら死ななければいけないのか。そんなこと思っていない、はず、というかそう思っていないとやってられないはず、なのに、その結果が物欲として目の前にあらわれ、はずかしい。
カバンのポケットからちいさな人形や小銭や飴がぽろぽろでてくるみたいに..、最近はよく、理屈ではわかっているのに太刀打ちできないことが、自分の身体から無限にでてくる。いくつかはあきらめられた。自分にとっての誠実さをもって、これからの選択を考えようと思った。自分にできることは、それしかない。
 
映画『悪は存在しない』 を観てから、どんな階段でも自信を持ってゆっくり降りることができるようになった。これまで、年に一回くらいは階段で転んで怪我をしてきたから。すごく混んでいる電車のホームでも、足元から目を離さないで、慎重に下る。今日新宿駅でそうっと降りているとき、目が回ってぐるぐるしていた視界が、一瞬だけクリアになった。


デヴィット・ボウイの歌声は、人身事故が起きた駅を通りすぎるときでも、うつうつとして寝付けない夜でも、自分の欠陥を責めているときでも、いつもきらきらとしていた。不意に「愛してるぞー!!」と叫びたくなる。デヴィット・ボウイはスターとしてそこにいて、だから安心してそう思える。めずらしくたのもしい感情を持つ。それはとても幸せなことだと気づいた。ミーハーに無責任に、叫びたい!自分に対するいろいろな感情も、むしろたのもしく育ってくれたらいいのかもしれない。それでやっと闘えるかも。

巨大ナメクジと花 / だいじょうぶな人

 



 
トイレスタンプというものをはじめて買って、トイレにスタンプしていた。
ジェルが消えた頃にはスタンプ方法を完全に忘れており、勘でやったら巨大ナメクジみたいにスタンプされてしまった。それに、3日で消滅した。どうやらスタンプの蓋の存在に気づかず、蓋をしたまま全力でスタンプを試みた結果、その隙間から巨大ナメクジの姿となってあらわれたようだった。
さっき落ちついて箱の裏を読みながらスタンプしたら、こんどはちゃんと、花が咲いた。モニュッ…と咲いた。



去年の冬、室内で育てていた多肉植物を植え替えたら枯れてしまった。そもそも光が足りなくて、軟弱に育ってしまっていたようだった。植え替え後は絶望的な姿(もうおわりだよ…)をしていて茎もわたしの心も折れたが、ヤフー知恵袋を信じ、春がくるまで室内のいちばん光のあたる場所に置いておいたら、気根(きこん)が伸びてきた。冬は水をやるとよくないとのことだったので、心を鬼にして放置。一筋の希望のようだった気根は、気持ち悪いよってくらい何本も伸びてきた。
春がきてからは屋外に出し、時々水をやって、基本放置。思い出さないと忘れるくらい、ふつうの存在になってくる。一ヶ月ほど経ったころ、完全復活をとげていた。
 
今日、洗濯物をしていて久々に多肉植物のことを思い出し、まじまじ見つめてみると前にも増してたくましい茎、気根もムキムキになっている。完全に終わったと思っていた鉢には新芽(?)まで。
直射日光は与えすぎてはいけないという文言をどこかで読んで、それに過剰反応してしまって大事に屋内で育ててきた去年とは比較にならぬほど、生き生きと育っている。土から生える植物は強い。図太い。安心する。

その姿は自分の心のようでもあった。(もうおわりだよ…)状態のとき、わたしは全然おわってなんかいなかった。立ち方をいつも忘れてしまうだけで。いつも、たしかに心から気根を伸ばしてまた立ち上がってきたではないか。

枯れるのを待つ花みたいに

 

昨晩はすごく楽しかったし疲れて眠いのに、布団に入ると不安が次から次へと浮かんでくる夜だった。相変わらず紛らすことしかできない。
 
最近なんでか耳に残って繰り返し聴くようになった曲を深夜にまた聴き返す。こういうとき、音楽を聴くのがよいとどこかで読んだ。
『Starman』
デヴィット・ボウイの声、瞳、表情、身体。怖い顔をしてる。不穏だった。でもなぜか何回も聴いてしまう。泣きそうになる。好きなのかもしれない。わからない言語、ききとれない言葉のまま、無垢で素直な心で聴いてたいとおもうほど大切だ。
彼が生でうたっているところをみてみたかったけれど、今生きていなくてよかったとも思う。生きていることは眩しすぎる。わたしは多分、死んでからやっと出会える景色がある。自分も誰かにとってはきっとそう。あなたに出会い直すために死ぬのを待っていると思えばそれは案外、もはや今より嬉しいことかもしれない。

窓辺の肖像 ◌ ありがとうございました

 

 
きのうで、個展「窓辺の肖像」がおわりました。
前の展覧会とはがらっと空気が変わり、初夏の澄んだ空気を連想させる空間になりました。
 
展示の記録はこちらにてご覧いただけます。