あかんべえが聞こえない

さっき久しぶりにある人のブログを開いたら、ぽろぽろと更新されていた。その人のブログは、生活そのものという感じがする。生々しさと、私のおもう美しい生活の上澄みがある。人の日記に、そこまで興味はないし、そこまでおもしろいとも正直思わない。でもその人の日記(言葉)は、ぱくぱく食べるように読めるから楽しい。そこにたまにえぐみがあって、だからか最近は時々にしか読めない。
その人の日記を読んでいたら私も書きたくなったので、ここに記してみる。


今日は九時頃起きた。
昨日は花粉のせいか呼吸が苦しく全然寝付けなかった。起きてすぐ花粉を感じたので、ゴミをまとめ(枯れた花を4輪捨てた)洗い物だけすませ、自転車で皮膚科に直行した。
寒いくせに春の嵐のような強風で、危険を感じるほど大きな風が、大量の花粉とちっさいゴミと共に私に吹き付けてくる。両目にゴミというゴミ、全てが入ってくる。これの対策がずっと分からないでいる。瞬きをしまくるとか、目を極限まで細めるとかをやってみてもだめだった。まつげを増やしたりしたら改善されるのだろうか、つけまとか?

皮膚科にて、診察時間3分程度で簡単にアレルギーの薬を増やしてもらう。あまり信用していないので(失礼)こんなにアレルギー剤って併用していいのか、など薬局で詳しく聞く。自己判断で飲もうと決めて注文した漢方の飲み合わせも聞く。(大丈夫だった。一安心!)

帰宅してすぐ、処方してもらった薬を飲み、目薬をさす。
漢方も届いていたので、飲む。
一回一錠だと思っていたら一回四錠で驚いた。こんなに飲まなくてはならないなら、粉状の方が飲みやすそうだと思った。薬を飲むのが下手で、喉を傷つけそうな気がする。

日が落っこちて部屋が暗くなるまで、途中の絵を進める。
昨日買ったラナンキュラスを見ながら描く。花を描くというつもりじゃなく、さりげなく描きたい気持ちがあるのに、ラナンキュラスが美しすぎて、とにかくひっぱられる。茎のうねりと花のうす桃色が本当に美しく、心から美しいと思ってしまうこの身体に若干腹が立つ、くやしくなる。それでも本当に綺麗だった。もう負けたよと言いたくなるくらい。

窓から、大きな風の音が聞こえる。室内はあたたかく風も吹かない。
本当に安心する。絵はずっと不穏に、暗くなる。
 
おやつに、一昨日炊いたこしあんであんバタートーストを食べる。
本当に美味しい、感動する。
あんこを炊くのははじめてだったが、本当に意味不明な行程ばかりがあった。結局五時間もかかってしまったけれど、あのわけのわからなさがすごくよかった。またやりたい。


日が暮れて、部屋が青暗くなっていた。
絵を片付けて、注文していただいた方への商品の梱包作業。とても苦手なので、一件一件進める。やたら疲れたと思ったら、夜が来ていた。

夕飯を作ろうと電子レンジをあけたら、緑の光と共にバチッと音がなったきり動かなくなってしまった。
昨日の残りのハンバーグが温められなくなったので、つめたいままワインやソースや玉葱と煮込んで、煮込みハンバーグにした。昨日のもやしのナムル、昨日の味噌汁、白米。ほとんど調理していないが、煮込まれてるハンバーグは完全にごちそうだった。やたら疲れていたので、昨日の自分に感謝。
TVerで「徹子の部屋」を見た。 
藤井聡太さんが出ている回で、徹子さんが将棋の駒を格好よく打ちたくて奮闘している姿がすごくよかった。「徹子の部屋」は、49年目らしい。徹子さんは、テレビのはじまりからおわる頃まで出続けるんじゃないか、と話した。マツコデラックスの出ている回で、時計とともに徹子さんがあらわれる時報を始めるのはどうかと仰っていて、それはとても見たい!と思った。

湯を張って、ゆっくりつかる。
今日の汚れを全部流したつもりになった。
宮城でいいお風呂に入ってから、よくお湯につかりたくなる。あのお宿は本当によかった、とまた、宮城のことを思い出す。

それから今、日記を書いている。
文章を書いていたら深夜1時になっていた。もう寝なければ。
この日記は今成哲夫さんの「あかんべえ」という曲を聴きながら、はじめは書いていた。が、言葉に集中できなくて、結局止めてしまった。
この歌は、最近なんでか好きだ。歌詞があまり聴き取れないのだが【あかんべえが聞こえなくて、あかんべえに聞こえなくて、あかんべえを返してくれと叫ばれている】という歌、だと思う。特に気にもせずたまに聴いていただけだったのに、どうしてか最近この曲を思い出して、それからよく聴いている。

とりとめもない水

夢を見た。
また、もう死んだ猫がまだ生きている夢だった。
こういうどうにもならない夢を見る度に、どうしても記録しておかなければと思ってしまう。
なんなのだろう、何に対しての執着なんだろう。

夢の中で猫は、生前よりまるっとして、毛がうすかった。
病気をして、もういつ亡くなるかわからないから、久しぶりに実家に帰ってきたという設定だった。
なんとなくそれが最期の夜のような気がして、私は猫を撫でて目をつむったとき(あとどれくらい一緒にいられるかな)と思った。

そう思ったとき、ひもがほどけたみたいに夢から醒めてしまった。
夢から醒めたその瞬間に、また会えない日々がはじまることへの悲しみよりも、緊張していた心が楽になったことを強く感じた。
一緒にいれるよろこびよりも失うことへの恐怖ばかりに引っ張られる自分が憎い。
そんなことを考える暇があるのなら、もっとよく見て撫でていればよかったんでないかと思う。どうしようもなく。

起きてしまった後に布団でぼんやりしていてもろくなことがないので、台所で水を飲んだ。
外はまだ真っ黒だった。それでも早朝の時刻であった。
祭壇の前で久しぶりに手を合わせてみたら、涙がぽろぽろ出た。
泣いていたってまたろくなことがないのも分かり切っているので、こうして文章を書くことで深呼吸をはかる。
書いている内に窓の外が青白くなった。

祭壇の前で流した涙は、会いたいなあと思ったらぽろぽろ湧いてきた。
さいしょの二、三滴くらいは、きっと純粋な。
昔より少しは変われたんだろうか。少しずつでも、変われているんだろうか。

(2024-2-22 早朝)

宮城の記録



夜、帰りの新幹線にて

宮城へ行ってきた。
新幹線がとても早くて距離感がわからなくなったり・暖冬で雪がなかったせいかもしれないけれど、東京から300キロ離れたそこは、肌なじみがよかった。
大きな山があった。ごつごつした川辺がたくさんあった。きれいな水があった。太陽がずっとまぶしく、空をあまり見られなかった。ひんやりした気温の中でいい風ばかり吹いた。
たった3日の滞在でその土地のことがわかった気になるのは安直すぎるのだろうが、思い出すと崖っぷちに立ったようにひやひやする。あの場所が失われたらとても悲しい。そんなふうに思うのにびっくりした。
友人にくっついて、活版印刷をしている工房へ伺った。そこでは文字に重量があった。文章を書くという行為があまりにも物理的で、それにすごく安心した。ずっと読めなかった活字が、久しぶりに読めた。
友人が生まれ育った故郷を歩いて、心がざわざわとした。彼女が持つ原風景のようなものと私のそれは、その距離通りの遠さなんだろう。どんなにたくさん喋っても、根はそれだけ遠い場所にあること。一緒にいて全然つかれないから、それが少し淋しいような気すらしてしまった。

会いたい人や行きたかったお店も行けて総じてとても楽しかったけれど、この淋しさはなんなんだろう。また訪れたらいいのだろうけど、そのたび増幅しそうで少し怖い。本当にきれいな景色を見た。私はああいう(風景画を描きたいという訳ではない)絵をいつか描きたい。

それにしても、新幹線は本当にすごい。一人で新幹線に乗るのが初めてで、とにかく緊張して余裕なく乗車したのだけど、座ってしまえば二時間くらいぼやっとしているだけで着く。最近はチケットも必要がないらしく、ICカードをピッとするだけで自分の最寄りから宮城に着く。実際、今住んでいる場所(都内)から渋谷へ行く方がずっと疲れるし遠い感じがする。距離を数字で見れば、300キロ。ずいぶんと遠いのに、近かった。
東京に着いて新幹線から降りたとき、その乗り物の宇宙人のような造形に驚いた。イルカとウルトラマンを混ぜて巨大化させたような姿。そりゃ新幹線はすごいわけだと何か腑に落ちた。

お仕事のおしらせ / duftさんの包装紙

 

 
花の絵が包装紙になっています(第二弾です)。
ひろげるとこんな感じで、巨大なポスターのようになります。
花屋duftさんにて、使っていただいています。うれしい!
花の絵で包まれた花を見ていただきたいですが、うまく撮れず。。
ぜひお店で巻いてもらってください。
デザインは浦川彰太さんです。ご縁をくださったのも浦川さん。
ありがとうございます。 

duftさんは松陰神社前から梅ヶ丘へ移転されました。
旦那様の営む古着屋fernwehさんも同じ店舗内にてオープンされました。
人も花も洋服も、あの空間にあるもの全てが魔法にかけられたようにぴかぴか光って見え、とてもふしぎな空間でした。
 
duftさんで買う花は、なぜか全然絵に描けません。
店主ちえみさんに 選んでいただくことが多いからでしょうか。描くこともしないでただこのまま鑑賞していたいような気持ちにさせられるのは、私にとっては新鮮な感情です。

<お店の場所>
duft (→) / fernweh (→)
1540022
東京都世田谷区梅丘1丁目33-9
モンド梅ヶ丘ビル2F


怖い夢の中で

わたしの不安と恐怖がつまったみたいな夢を見て明け方起きる。久々に悪夢を見た。
窓は彩度の低い青をしていて死を連想させた。幽霊が飛び回っていそうな空気でもあった。じゃあ会いたい幽霊飛んでないかなとか思ってみたりするも、すぐ悲しくなって楽観的になるやり方を全然思い出せない。
たくさん描いた絵が、全部妄想の中で描いた虚構のような気がしてくる、私は本当に現実を生きていたんだったか。生きているのか。心臓の鼓動の音は幻聴ではないのか。私が幽霊ではないか。などと、悲観(?)的になると目はどんどん冴える。
しばらく動けず、目を瞑ったまま見た夢を文章にする練習をした。文章にすると、ほんとうのこともまるで文章にしたいために作られた嘘のように感じられ、少し助かる。(発見だった)
た夢にひっぱられ、今度はその夢の分析をはじめる。だんだんその夢は何かが起こる前触れのような、運命的なものに思えてきてまた震える。
身体が不安でいっぱいになるのを感じた。金縛りにあったようにすっかり動けなくなる。
自分の心だけを見つめていると、怯えの中にちいさく灯るなんかほわほわしたのがあるのに気づく。さっきの夢の中で、その不穏な世界の中で、とてもかわいくてとてもやさしいものにふれたような気がしたことを、ようやく思い出す。姿も声もないし認知すらできなかったけれど。
穏やかになってくる。息ができる。
わたしがわたしでいる限り、あるいはわたしからわたしが去ったとしても、この悪夢より怖い現実が訪れたとしても、忘れたとしても、変わらない(変われない)ことがあるような気がして、それは、冷静な頭で考えても、きっと不安なことじゃないと思った。


冊子「ここにあるもの・室内」のこと




2023年9月から12月までの小さなスケッチを束ねた、本のようなスケッチブックのような日記帳のようなものを製作しました。
(えほんやるすばんばんするかいしゃさんでの展覧会に伴い発行しました)

今回はできるだけ言葉を削ぎ、自分にとって必要な情報だけ残してあとは流しました。
なので、無愛想かもしれません。
余計だと思いつつ言及しておくと、この本を作った動機は、私の執着心からです。
忘れることがこわくて、だれかに記憶してもらいたくて、強迫的に作ったかもしれません。それはあるいは今までの本づくりと同じだと思います。
(かもしれません、というのは、何かをつくるときのことなど、自覚しなくてもよいのではないかと思っているからでもあります)
これは動機ではないけれどひとつの目論みとして、さまざまなことに対しての、私なりの意思表示のつもりというのがあります。歪んで届いてもいいくらいの、ちっぽけないじわるです。
私は今、不安でいっぱいで、喪失感で満ちていて、それでも、しあわせで生きています。
以上、多分数年後の自分が見たら消えたくなるであろう余計な言葉のおまけでした。読んでいただきありがとうございます。


●タイトル:ここにあるもの・室内
●著者:市村柚芽
●サイズ:約185×152mm
●ページ数:本文32ページ
●仕様:20枚のスケッチを本体に手貼り
●製本:中綴じ(カバー付き)
●本体印刷:中野活版印刷店
●刊行:2024年2月1日


現在、展覧会会場であるえほんやるすばんばんするかいしゃさんと、私のウェブショップより購入可能です。
気になった方、よかったらのぞいてみてください。
(卸販売もはじめる予定です)