曖昧なまま


今年は日々が過ぎ去るのがほんとうに早かった。
しかし振り返ると、とてもとても長い。
去年がずっと遠くにある。
昨日、急に思い出して少し涙が出た。

台所にある枯れかかった花は、花瓶にさしたまま飾ってある。
冬は腐敗が遅いのか、ずっとそのままの姿でいる。
水も透き通っていて、時がとまったみたいに見える。
なんとなく区切りをつけたくて、中途半端なものを捨てたりしていたが、
この花はこのままでいいような気がして、飾っておくことにした。

私の心も同じように、年を越す。
もうちょっとだけ撫でたかった気持ちを、そのまま引きずってこのままずっと生きていく。



いつも見守ってくださってありがとうございます。
来年もよろしくお願いいたします。

市村柚芽 / 2023-12-31

あきらめ

 

来年2月に出したい本のことを、今日は一日考えていた。
 
家にある紙見本をあつめてさわってめくってみて、コレだ!という良い紙は高かったり、生産中止になってたりする。なぜなのか。
 
考えうる全てのパターンで自分なりに見積もりを出してみる。
そうすると、金銭面の不安で頭がいっぱいになる。印刷費を紙代をちゃんと払えるのだろうか。そのように考えていると、ああやっぱり高い紙は諦めて、安い紙にしようかと思い始める。
その瞬間、私は私を捻り潰したくなる。
「おいお前!今、妥協したよな?妥協するくらいだったらやめちまえ!」と天使(或いは悪魔)が言う。
「やめない!お金のことはどうにかする!しかし、これは妥協ではない(嘘)!原価のことを考えてのことだ、これは健全なことだ(言い訳)!」と悪魔(或いは天使)が言う。
私の頭の中で、ほんとに言う。 
騒がしい。悪魔(或いは天使)の醜い言い訳には自分でも嫌気がさす。
 
「なんでここまでして本を作りたいんだっけ」と天使でも悪魔でもない私が私に聞いてくる。 お金のためだろうか、絵をみてほしいからだろうか、本を作るのが楽しいからだろうか。
 
どれもそうではあるけれど、どれも違うような気もして、言葉に詰まる。言葉にしなくていいような気もするけれど、これは諦め?

なんにもだめな一日でもグラタンを作る、今日の晩は。

『花』 / 卸販売のおしらせ


今日はだいぶ冷えますね。
皆さまお元気でしょうか、
卸販売についてのお知らせです。

 
 
すこし前に刊行した「花」(果林社)の卸販売を私個人でも始めます。
既にたくさんのお店に置いていただき、ほんとうにうれしいです。
陳列してある様子をながめては、実感がないけれどうれしいようなくすぐったいような…不思議な気もちになります、
ありがとうございます。


卸販売についてのページを更新しましたので、ご一読の上、ご検討ください
書籍の内容や仕様についても、別の記事に投稿してあります
下記のリンクから飛んでみてください
 
「卸販売について」のページ→
「書籍・花について」のページ→
 
【条件】
①販売価格(上代):税込3,520円
②卸値(下代):税込2,464円(7掛け)
③お支払い方法:後払い/お振込
④送料:ご連絡いたします / 下代二万円以上のご注文で送料無料とさせていただきます

ご連絡はこちらまでおねがいいたします
mebachiponponmaru@yahoo.co.jp

※ 卸販売の窓口は ほかにもあります
 発刊元である「えほんやるすばんばんするかいしゃ」とのお取引のほか
 トランスビュー経由でも仕入れが可能です
 条件等がすこし違うため、都合のよい窓口からお取り引きください
 
「えほんやるすばんばんするかいしゃ卸販売条件」のページ→


 
刊行してからしばらく経ちました
最近は<花>をテーマに絵を描けずにいます
今はそれを描く必要がないのだと思います
 
描かなくても、家に花を飾ってみたりはしています  
花を見ると心が安らぎます
昔よりは花を好きになったのだと思いました
それにしても、冬の花は強くてすごいです
もう一ヶ月は咲いたままのカーネーションが台所に飾ってあります
 
描こうと思っていなくても、描いている絵のなかで いつかの花があらわれたりしました
いつのまにか風景の一部として描けるようになっていたことに
驚きと安心とちょっとの虚無を感じました
 
次<花>を描くときは どんなときなのだろう
不安が大きいですが とにかく生きていこうと思います

市村柚芽
 

no title

 

(2023-12-12)
伝書鳩の訓練をしばらく見ていたら、オーストラリア人の男性がワオ!ウツクシイ!と話しかけてくれた
 

 (2023-12-15)
シトロンケーキを焼いた
レモンと粉糖だけ買ってきて作り始めると、バターも蜂蜜も足りなかった
いろいろ足りない分、いつもよりずっと温度を気にして作ったらとてもおいしくできた
温度計が欲しくなった



(2023-12-10)
かわいい背中
 
.

与えられた時間は有限だということを
失ったそのときに気付くような人であったなら
自分はぜんぜん違うだろうと想像する
忘れっぽいのに それだけは反復して毎日のように思い出す
痛いぐらい分かっていても結局何もできないのだ
ばかだなと思う

変化の観測

 


数ヶ月ぶりに実家に帰って、母と妹に誕生日プレゼントを渡してきた。
 
気配はあるもののやっぱりねこはいなかった。
…というか、もはや当たり前に不在だけど、気配は常にあった。
今の私には後者の言い方のほうがしっくりくる。
私は、ずいぶん変わった。
あまりさみしくない。いつでも会いたいけれど。
 
最近かばんに黄色い猫のストラップをつけた。
文房具屋さんのおばあさんががんばってつくったの、と言っていたのですぐに買ったもの。
黄色い猫にはいい音の鳴る鈴がついていて、それは生前のねこを思い出させるような音色。
実家にも、そのかばんで向かった。
しゃんしゃん鳴らしながら歩くと、実家にいる妹ねこ(血は繋がっていないけれど、姉妹のようだったから)が変な顔して寄ってきて、すぐ逃げた。
なにかを探している様子。はっとする。
死んだねこが帰ってきたと勘違いしたみたいだった。

共有できるおもいでに包まれていること、それは頑丈な安心だ。
けれどこれがなくなっても、悪いことはなんにもないような気もしている。
安心とは、めくらましのようなものなんじゃないか。
それはとても好きだけれど、なくてもだいじょうぶなもの。
 
別れの日から、自分の内側の時間の流れと感情の変化を、道からすこし外れた場所からみつめる。
上がって下がって、ぐるぐる回って、ようやくその幅がちいさくなってきたような。
最近、描けるものが増えてきた。
枯れ始めた花を描けたのも、はじめてのこと。

最近のこと


最近のこと。

最近は、最低限の家事が一通り済んでから、A4の紙にその日やることを書いては実行する、という日々を送っている。
昨日は<①洗濯②プレゼント包装③まんがのことをやる③台所の掃除をすすめる>という予定だったけど、②のプレゼント包装に3時間くらいかかり…気付いたら日が暮れていた。
包みながらつくりたいごはんが思い浮かび、突如買い出しに向かったりなんかしてしまって(財布がすっからかんになった)料理をしていたら結局そのまま夜が来た。
その日の献立は、ピラフのホワイトソースがけ/肉団子の甘酢あん(バルサミコ酢)/ポトフ。ピラフのホワイトソースがけっていう料理は、ずっと前に給食で食べておいしかったってことを思い出して作りたくなったのだった。

忘れていたことを思い出すのが最近多い。思ってるよりもずっと忘れっぽいらしく、怖くなる。けれど、忘れられるってのはすごく健康なんじゃないかとも思ったりする。

豊かさとはどういうことか、よく頭に過る。そんなんを言葉であれこれ考えるのは違うと思い、もんもんとわいてくる形にしたい欲を振り払う。やさしさとはなにか?という問いに対しての答えが絶対ひとつではないように、多分大概のことはそんな感じなんだろうと…最近は思う。とにかくもっと、ぼやけたほうがいいはず。
 
思い返したら、昨日はすごく豊かな1日だった。やることぜんぜんおわらなくて、おわらない!って嘆いた。
なんか私は、ずっとそんなふうに暮らしたい…かもしれない。
 
頭に常にある、遠くの国のこと。それについてはなそうとすると泣きそうになって喉がつまって、全然できない。私はみてみぬふりを続けている。無駄に背負った「無駄」が重くて重くて死にたくなる。

自分の薄情さに嫌気がさす。
それにはげましも怒りもほんとにいらない、受け付けない。しかしどう生きたらいいんだろうと考えては、生活が続く限りはこのまま生きるだけだろうとも思ったりする。
このからだは矛盾ばかりでできている。

no title





ちょっとだけ時間があるってときに、なんとなくブログのHTMLと向き合ったりしてみたらやっぱりぜんぜん分からなくて設定もごちゃごちゃしてきてよくわからなくなってきています。携帯からだとずいぶんちいさく表示されてしまい、読みづらかったらすみませんです。
 
写真みかえしてたら太陽みたいないい笑顔がふたつみつかって、わたしも笑顔になってみっつになった。
↑「ずん喫茶」は毎週たのしみな番組です。
写真とらせてもらえてうれしかったな