2024-06-26

鏡のように

 
 
ここ最近は何を描いてもぼんやりしていて、覇気がない。感動もそんなにない。
去年・一昨年描いた花の絵を見返すとその生命力におどろく。
当時の絵は、ちょっと怖いくらい強い。今は、いいように言えば穏やか。
これからどうなるんだろう?

2024-06-23

泥蛙


5年前に描いた絵。
黒すぎてわかりにくいが、母のうしろに乗ってふりかえる子供。
絵はほとんど手元にないので、こうして画像データだけ見るが、どんな絵だったかあまり思い出せない。大きさとか、質感とか、色味とか、忘れたなあ。 

それでも、好きな絵を描く人の影響をおおいに受けながら、どうしても忘れたくなかったことを必死に描いていたあのときの自分の心のうちは、ぼんやりとおぼえている。ここに記録していたからかもしれない。今とはぜんぜん違った。

振り返った先にはなにもなく、からっぽの絵だけ残る。
そんなものに、もう意味とか価値なんていらない。ただの不安障害であると言い切りたい。そう思うと過去の絵は、なんて気持ちがいいんだろう。きょう描いた絵も、いずれそうなってくれる?

2024-06-17

黒丸

 

最近、黒い丸をカリカリ描く仕事(?)をもらった。この黒丸7つぶんで、宮城に連れていってくれるらしい。うれしい。この黒丸は、在廊が苦手でいたたまれないときに描いた丸。そのときはずいぶん助けられた。
そのあとも引き続き黒丸を描いた。が、ずっと無。描いてるときも描き終わったときもなにも感じない。ペンのインクはどんどん減って、右手が少し痛くなる。描き終わるころには数時間経っているから、時間を凝縮したらこんな色になるのかと思う。
すこしまえに話題になっていた「頂き女子りりちゃん」のことを、ときどき考える。すこしまえに見た映画のことを振り返るのと同じように考える。黒い丸をカリカリしながら、彼女が喋っている映像を見る。気を抜くと同情してしまう。彼女やそれに巻き込まれた人を批判する声が、わたしにも刺さって痛む。でも、ほんとうに平気でうそをついたりひどいことをする人が居ることも知っている。だから、だまされているかもしれない。
映画『悪は存在しない』はよくわからなかったし好きな映画でなかったけれど、そのタイトルは日常でよくこだましていて、彼女のことを考えているときもそうだった。
小学生のときも中学生のときも、同じクラスの中にひとりは浮いている子がいた気がする。いじめがあったのかは知らない。でもたしかそのときも痛かった。わたしはそういう子に対し、積極的に話しかけていたように記憶している(そもそもあまり人としゃべれないので、自分にとっては、だけど)それは関わったその子への興味や関心またはくだらない善意からではなく、都合のいい人間関係を構築してうまくいっている(ように見えた)他のクラスメートに腹が立ってのことだったのでないかなあ、と今はおもう。別に自分の周りの人間関係がうまくいっていなかったわけでもないが、なんらかの劣等感はずっと抱えていて、多分、それ。わたしの個人的で身勝手なやりきれなさを、話しかけたり一緒に帰ったり遠足の班になったりする、という一見なんでもない方法で、ある意味暴力的にぶつけていたかもしれない。
誰が何が悪かったのか、そう結論づけたい気持ちはいつだってあった。でも最近、もう良いも悪いもなんだっていい、というような気分にばかりなってしまう。自分の個人的な悩みについても動揺に。ただつらいかなしいという感情があって、それだけじゃだめなのかと思う。…が、それは逆も然りであるということで、つまり、冷静にならないといけない。
たしかに悪は存在しないかもしれない。でも、じゃあ、手を下したその人だけに背負わされる罪ってなんなのだろう。わたしは暇だから、そういうこともたまには考えたらいいのだ。少し考えればすぐにわかる、わたしは自分に非があってのことであっても怪我を負わされたら相手が悪いような気がする人間なんだった。変わらなければいけない。

2024-06-14

暇沼

 



 
なんとなく見返したくなった画像を探すため、前使っていた携帯のsdカードを開いてみる。たかだか3年そこら前の写真。先日、2年前の出来事をずっとむかしかのように話す人に、ぜんぜん最近ですよ、と言ったというのに、あまりにも懐かしい。
このクッキーは、必死にはたらいて、だめになったとき、せめてもと思ってそこで働くみんなに焼いたクッキーだ、とか(振り返ると、なんて図々しいやつなんだとおもいます)、ふつうに生きてたから、ふつうの携帯のカメラで撮った、ほんとになんでもない表情の猫とか、夜に散歩でみかけた小さいばらとか。そのときは忘れたくないと思って撮ったのに、結局それが見たくて見返すことはなく、今の今まで忘れていたことたち。猫はわたしのなかで、居たときよりも大きくなっている。亡くなってからどれくらい経ったかもうわからない。実家に帰って撫でられていた日が、ほんとうにずっと昔のことのような気がしていたのに、全然最近までそこに居たのだった。生前、わたしは今のような事態になるのをとても恐れていて、そうなったときわたしは狂うか死ぬとおもっていた。今日ものうのうと生きている。ぜんぜん違うことで気が狂うんじゃないかとおもったりして、うまく寝れなくなったり心臓が痛くなったりしている。
結局探していた画像はみつけられず、記憶の断片がまた呼び起こされ、気づけば見事に沼に嵌っていた。わたしがもっているひまは、沼に嵌るためのものじゃない。もっとちゃんとした立派なひまがいいのだ。沼に嵌るときは、やることリストに「・沼」を入れなければいけない。今日やること、あと10個。そうじき、梱包、黒丸、お返事etc..。

2024-06-07

たのもしい感情


残金がゼロに近づいていく日々。
お金がだいぶないとき、今の自分はなにか欠けているんでないかと取り憑かれたみたいにずっと考える。ここ数日もそう。「なにか」って、「お金」でしかないのに。なんなら生活できているなら「お金」だって大丈夫なのに、...。
自分の存在が不潔で不穏なような気がして、とにかく身を清めたくなる。こころの汚さが表面に出てるんではないかと怖くなる。とりあえず髪の毛とか切りたくなる。服もかばんもイヤリングも、みんな汚してしまったような気がして、新しいものが欲しくなる。しかし、そんな余裕はない。だからもやもやだけ残る。
でも、わかっている。いつも、金欠が終わると同時に何もほしくなくなるから。毎回、超足りていることを思い出している。
こころが汚かったら死ななければいけないのか。そんなこと思っていない、はず、というかそう思っていないとやってられないはず、なのに、その結果が物欲として目の前にあらわれ、はずかしい。
カバンのポケットからちいさな人形や小銭や飴がぽろぽろでてくるみたいに..、最近はよく、理屈ではわかっているのに太刀打ちできないことが、自分の身体から無限にでてくる。いくつかはあきらめられた。自分にとっての誠実さをもって、これからの選択を考えようと思った。自分にできることは、それしかない。
 
映画『悪は存在しない』 を観てから、どんな階段でも自信を持ってゆっくり降りることができるようになった。これまで、年に一回くらいは階段で転んで怪我をしてきたから。すごく混んでいる電車のホームでも、足元から目を離さないで、慎重に下る。今日新宿駅でそうっと降りているとき、目が回ってぐるぐるしていた視界が、一瞬だけクリアになった。


デヴィット・ボウイの歌声は、人身事故が起きた駅を通りすぎるときでも、うつうつとして寝付けない夜でも、自分の欠陥を責めているときでも、いつもきらきらとしていた。不意に「愛してるぞー!!」と叫びたくなる。デヴィット・ボウイはスターとしてそこにいて、だから安心してそう思える。めずらしくたのもしい感情を持つ。それはとても幸せなことだと気づいた。ミーハーに無責任に、叫びたい!自分に対するいろいろな感情も、むしろたのもしく育ってくれたらいいのかもしれない。それでやっと闘えるかも。