断片(2023-10-24~10-27)



 
 
 


(2023-10-24~10-27)
とってもにっこりのおばけカカシがかわいくて
いじけたみたいなムーミンが自分に似てるなと思った

天井/りんご

 

たいせつな人たち
じゃあねと別れて
それから二度と会えないんじゃないかと
そんなこと考えてさみしくなって
布団に入ってもう2時間ほど寝付けない
黒い天井があまりにも「死」だし
私も私でそれに作用されすぎている

裏返しのさみしさが
だんだん予感みたいになって
頭がそれに支配されてきたから起きた

みんな元気ですこやかに
そこそこ幸せに暮らしていてほしい
おのおのの大切な人もそう
思い出も一緒に歳を重ねて
その目でみてきたことただそのままで
歪ませないで
その角度でいい
わからないことはわからないままわすれよう
生きても死んでもない風景としてときどき思い出そう

世の中のすべては絶対的なものだとおもってたい
終わりがあるから美しいんじゃなくて
寂しさは結局寂しさでしかないみたいに
何にも喩えないほうがいいことだってある
時には必要だったけど

だめだろうか
暗いだろうか
これでいさせてほしい
許してほしい

つかれた
つかれたな

私のごみくずみたいな愛情と優しさ
まるめて捨てて忘れられますように
書いてたら鼻水止まったからよかった
朝が来たら傷んできたりんごを煮よう

また日が昇るのを信じて待つ

 

いっこしかりんごを買わなければ、りんごはどこまでもりんごでしかないような
…というか、りんごであるように描かれたであろうのに
いくつものりんごを描こうとすると、境界線がよくわからなくなって
曖昧になって ただ甘いにおいのする もの でしかなくなる

日が暮れて、電気をつけると、描けなくなる 形がわからなくなる
錯覚や感性にばかり頼って(依存して)ものを見ている のを 分かる
ぜんぜんしゃべれなくなったり 饒舌になったりするのと
似ているなと思った

ホックニー展を見てむかついた
むかつけたのは とっても広かったから?
 
安心ばかりがそこにあったよ
 
そっか絵って静物なのか
ぜったい生きてないのか
忘れてた
って思い出した

アンデルセンと原民喜

少し前の無花果のスケッチ、ウォーミングアップがてら。
観察して描くって、人と会って話すより親密なコミュニケーションだなぁ。
対人でもこんな感じで語り合えたら良いのに。
 
しばらくあけていた家を掃除したら、キッチンペーパーと小麦粉が棚奥から笑えるくらいたくさんでてきた。どちらも切れたら不安な物たちだった。買った時のことは全然覚えてない。検索したら認知症とかでてくるもんだから、夜にまたそんなこと考えて寝付き悪くなる。多分ただの心配性の一環…と思うことにする。
アンデルセンは重度の心配性だったことと、原民喜の書く作品が「不安文学」と呼ばれていることを、それぞれ別の人から教わった。アンデルセンの生前の行動を読んで、ガハハと一瞬笑うも、棚の上にあげた自分を思い出して笑えなくなる。
絵の世界を絶対的なものにしたいと考えていて、反復して同じ(似たような)情景を描くことでそれが夢や空想ではなく、もっとリアルになるんじゃないかとひらめいたことがあった。
それも遡れば不安から来ているような気もしなくもない。うーん良いんだろうか。不安を個性と認めてしまっても。
私の絵もいつか「不安絵画」とか呼ばれるんだろうか。

no title

 

 

煮物、揚げ浸し、洋梨のジャム、実家の猫。

 

 
最近のスケッチ、ジャムになる前の洋梨。次はイチジクを買ったけれど描けるかな。 
もうずいぶん冷えてきた。
ニュース番組をつけたら ジャニーズと戦争との報道が交互にやっていた