一歩

 

青森で採らせていただいたりんご。
 
リュックに入った大量のりんごと、幸せとか喜びとか悔しさとか悲しさとかままならなさを、重すぎて肩と背中を痛めながら、抱えて帰った。青森では涙腺が壊れて、自分でもびっくりするくらい泣いた。なんでこんなに脆いんだろうと恥ずかしかった。そして申し訳なかった。思い返すと私の心は、いつもどこかしらに怪我を負っている。その治癒に追われている最中にまた怪我をして。私の日々は、そんなことの繰り返しだ。 

数日前。青森に発つ前の日のこと。
言いたかったけど、言えなかった言葉があった。「大丈夫」とは、自分にすら、とても言えなくて。そう思われているかは分からないが、彼女の先を行く人として、なんて頼りないのだろうと、不甲斐なく、泣きそうになった。捻り出してようやく出てきた言葉を読み返したら、悲しいくらいありきたりだった。それでもそのありきたりは本当に大切なことなんだと私は本気で思っている。日々の小さな光は、今直接の支えとならずとも、遠いところまで一緒に歩いてくれる、強固な存在だ。私が生きているのは、そういう存在があるからだった。

東京に戻ってから、尊敬する人や大好きな人たちに、りんごを手渡す機会があった。一緒に食べたりもした。素晴らしい演奏会に参加したりも。それから、展覧会や記念演奏会のことを振り返っていて、たくさんの人の気配と、その重みを再認識した。形あるもの、ないもの、本心か、優しさか、それ以外か、どちらにしても、なんにしても、向けてくれるあたたかい心は、本当にありがたかった。そういうものは、覆ることがない。変わらずに存在し続けるものを挙げるとき、こういうもののことを言えたらよかった。頼りなくても自分だってそういう存在になれたらよかった。心の中の重く沈んでいた箇所が少しずつ浮かんできて、もうダメだと思っても、歩き方を忘れても、そうやって次の一歩を繰り出せる。