始良終悪

 

想定外に今日も寝坊して、昼に起きたのに朝ごはんを食べお弁当を用意した。バグのような行動を自覚しながら取っていると意味がわからなくなってきて動揺、2025年最後の卵焼きを失敗。泣きそうになった。数日前にASKAのラジオの最終回を途中まで聞いて大事にとっておいたら視聴期限をすぎて聞けなくなっていたときも同じように泣きそうになった。終わりが悪いことがけっこう多い。多分対策を練っているあいだにいろんなことを逃しているのだ。
 
わたしはまだ年を越せる気持ちになれておりませんが、みなさまはどうか無事によいお年をお迎えください。ハッピーニューイヤーです!
 
✩新年の追記
年越せずの精神状態でも、お雑煮は格別においしかったです。 

 
(2025-12-8)
 
(2025-12-13)

(2025-12-16)

(2025-12-24)
 
(2025-12-29)
 
描いている時に花を見て感動することがほとんどなくなった。 買ってきた直後または描き終わった後に、窓辺に並んだ風景がふと目に入る時には綺麗だと思う。観察とはなんなのかいっそうわからなくなる。花を描いていて明確にわかったこと(言語化できるようなこと/揺るぎないこと)は今のところない。100枚目を超えた。

『砂粒集』のこと


 
おしらせです。
ポストカードを発行していただり、ウェブエッセイを連載させていただいたり、たまに一緒にコーヒーを飲んだり、ひごろから何かとお世話になっております、すなば書房さんの本に関わらせていただいています。

『砂粒集』(さりゅうしゅう)という冊子は、ネット古本屋・すなば書房の吹けば飛んでいきそうな日々、2024年6月から2025年10月までの記録をまとめたもの。

店主・中村さんの吹けば飛んでいきそうな日々は、勝手ながら、自分と重なる部分がたくさんありました。吹けば飛んでいきそうで、吹き飛ばされそうでもあった自分の日々。うれしいことが吹いて飛んでくることもあるのだなと感慨深い気持ちです。

『砂粒集』は、すなば書房さんにて購入できます。
気になる方はぜひのぞいてみてください。
(卸販売も可能とのことです!)
 






一生の敗因

 


漠然と落ち込んでいるとき、自分に罰を与えたくなる(ここでもう歪みが生まれてる)。衝動的に雑に自分の中に縦軸を生成して、だいぶ下のほうに自分を配置する(歪みすぎて理屈なんてなくなった)。罰を受けるべき存在だと思えてくる。矢印が全部自分の方に向いく理由が洗脳されてくる。

こうして改めて言語化すると自我自ツッコミがやまない。そもそも縦軸を作るなよ。罰を受けるべき存在ってなんなのよ。そんな存在があるとして、目的はなんなのよ。結局、自分のぐうたらや未熟を直視しないでよい理由を作っているだけではないのか。とか。
未熟なんて、未熟なんだから仕方ないし、未熟じゃないですと言える自分の方が怖いくらいだし、ぐうたらなんていちばん最高なのに。なんでこんなに歪むのか。正論がいくら出てきても自傷が止まないときがある。わたしの歪みは安直だが深いのである。
 
これまでのことを振り返って、たとえば「いなくなればいいのに」と自分に思ったとき、ブルーのはじっこから快楽の煙が立っていた気がした。ごはんを食べないとか、寝込むとか、徹底的に自分を否定するとか。自分には、謎に落ち着く自傷の選択肢だけしかなかった。
漠然としているときでも、何かに対し反省しなければならないときでも、どちらのときにでも言えることだが、そういうとき、どうしても自傷を回避できないならば、快楽の自傷ではなく、本当に苦しい自傷をするべきなんでないかと考えはじめた。

それは自分にとってはお弁当だった。花を描くこともそうだった。
これらは時々痛みがある。今日も少しそうだった。めんどうくさいとき、どうでもいいとき、自分なんてと思ったときほど苦しくなる。生肉を見たときとか、花を捨てるときとかに、苦しいという実感がある。しっかり痛い。あまりにも自分勝手な世界に、一切の救いようがなく、まっくろの絶望だけがある。
苦しい、と思った瞬間、こんなことが苦しいなんて変だ、と、また苦しくなった。その苦しさ。これが一生の敗因だ。二番目の苦しさは結局、快楽の自虐である。そんなものに流されるならば、それは、敗北である。その甘さは、自分の未熟さに直結する。未熟さを嘆くなら、せめて敗北を恥じろ。最初に感じた苦しみは、とても大事な苦しみだ。自分はいつもそうやって、快楽の自虐で囲いを作って、向き合うべき問題から目をそらしていた。
 
本当に苦しい自傷は、苦しい、と言っても、結局、日常から飛び出ない程度のもので。野菜を切ったり肉を煮たり、絵の具を溶いたり水を汚したりしていると、我に返ってくる。良くも悪くも。自分なんてと思っていたとき、蜜の中で溺れたフリをしていたと恥ずかしくなってくる。その恥ずかしさは、宝物である。罰を受けてもきっと辿り着かなかった答えである。偽物の罰を与えるくらいなら、生きる、という方法で自分に対して償ってもいいのかもしれん。そんな意識も忘れてしまうくらいに続けていけばいいのだし。

呪いと抗い

 
実家に帰ったとき、母が録画してあったドラマの『じゃあ、あんたが作ってみろよ』を、なんとなく4話まで見て、ああだこうだいいながらも続きが気になってしまって、帰ってからサブスクに登録して(無料トライアル)全話だだだだと見てしまった。きのう最終話が放送だったみたいです。
おもしろかったけれど、おもしろかったというにはあまりにも現実で、そんな簡単な言葉で言い表してよいものかわからず、ただ、よかったという感想しかでてこない。本当に、ここにわざわざよかったと書いておきたくなるくらいよかった。最終回の最後の方、考えうるいちばんいい終わり方だったなと思いつつ、それでもこの世はなんて小さな世界なんだろうと虚しくななる。一生ここから出ることはできないんじゃないかと思った。そう思わされた瞬間、ドローンで町が遠ざかって宇宙まで昇っていく演出があって、自分はそこに心底救われた。 
原作者の方もドラマを制作した方々もすばらしいという言葉に尽きるが、これがテレビで放送されるんだと、見終わってから驚く。なんの驚きだ。
本当によかった。

只者の怒り・祈りは無口

 

『YAH YAH YAH』を聴いたら消えそうだった炎がゴオッと燃え出して『ultra soul』を聴いたら乱れていた呼吸のリズムが整った。真っ暗な部屋で。

少し嫌なことがあって、またたく間に悲しくなった。従来通り、謎回路からの自責で窒息しそうになったが、B'zとチャゲアスのおかげで正気に戻り、またたく間に理不尽さに腹が立ってくる。怒りを相手にぶつけるのはおそらくほとんど意味がないが、怒りを単なる怒りとして認めることは自分のアタマにとって非常に重要な気がした。自責でも他責でもなく、怒りというのはひとりぼっちの友達だと思うことにする。不必要に呪いや憎しみを生まないようにしたい。破滅的になっても身体が持たない。怒りは怒り。稲葉は只者(自称)。わたしも只者。なんてことないよくある怒り。

わかりたいわからないことはわからないままだが、近ごろいろいろなことが腑に落ちてくる。たとえば本能、たとえば衝動。言葉にすればしっくりこなかったことたちがみんなそんな、たった二文字で片付けられてびっくりした。いいもわるいもないことに、誰の物差しで判決を下していたのか。言葉のむだづかい。そんなにいらなかったのだね。呪いの代わりに小さく祈る。