漠然と落ち込んでいるとき、自分に罰を与えたくなる(ここでもう歪みが生まれてる)。衝動的に雑に自分の中に縦軸を生成して、だいぶ下のほうに自分を配置する(歪みすぎて理屈なんてなくなった)。罰を受けるべき存在だと思えてくる。矢印が全部自分の方に向いく理由が洗脳されてくる。
こうして改めて言語化すると自我自ツッコミがやまない。そもそも縦軸を作るなよ。罰を受けるべき存在ってなんなのよ。そんな存在があるとして、目的はなんなのよ。結局、自分のぐうたらや未熟を直視しないでよい理由を作っているだけではないのか。とか。
未熟なんて、未熟なんだから仕方ないし、未熟じゃないですと言える自分の方が怖いくらいだし、ぐうたらなんていちばん最高なのに。なんでこんなに歪むのか。正論がいくら出てきても自傷が止まないときがある。わたしの歪みは安直だが深いのである。
これまでのことを振り返って、たとえば「いなくなればいいのに」と自分に思ったとき、ブルーのはじっこから快楽の煙が立っていた気がした。ごはんを食べないとか、寝込むとか、徹底的に自分を否定するとか。自分には、謎に落ち着く自傷の選択肢だけしかなかった。
漠然としているときでも、何かに対し反省しなければならないときでも、どちらのときにでも言えることだが、そういうとき、どうしても自傷を回避できないならば、快楽の自傷ではなく、本当に苦しい自傷をするべきなんでないかと考えはじめた。
それは自分にとってはお弁当だった。花を描くこともそうだった。
それは自分にとってはお弁当だった。花を描くこともそうだった。
これらは時々痛みがある。今日も少しそうだった。めんどうくさいとき、どうでもいいとき、自分なんてと思ったときほど苦しくなる。生肉を見たときとか、花を捨てるときとかに、苦しいという実感がある。しっかり痛い。あまりにも自分勝手な世界に、一切の救いようがなく、まっくろの絶望だけがある。
苦しい、と思った瞬間、こんなことが苦しいなんて変だ、と、また苦しくなった。その苦しさ。これが一生の敗因だ。二番目の苦しさは結局、快楽の自虐である。そんなものに流されるならば、それは、敗北である。その甘さは、自分の未熟さに直結する。未熟さを嘆くなら、せめて敗北を恥じろ。最初に感じた苦しみは、とても大事な苦しみだ。自分はいつもそうやって、快楽の自虐で囲いを作って、向き合うべき問題から目をそらしていた。
本当に苦しい自傷は、苦しい、と言っても、結局、日常から飛び出ない程度のもので。野菜を切ったり肉を煮たり、絵の具を溶いたり水を汚したりしていると、我に返ってくる。良くも悪くも。自分なんてと思っていたとき、蜜の中で溺れたフリをしていたと恥ずかしくなってくる。その恥ずかしさは、宝物である。罰を受けてもきっと辿り着かなかった答えである。偽物の罰を与えるくらいなら、生きる、という方法で自分に対して償ってもいいのかもしれん。そんな意識も忘れてしまうくらいに続けていけばいいのだし。
