2024-09-08

花の本をまた開いてみるコーナー⑦(最終回)

 

展示はあしたで最終日です。今日も開きます。
『花の本をまた開いてみるコーナー⑦(最終回)』
第6弾はこちら。

空想の世界から現実へ帰還して、また目の前にある花を見ながら描いてみたとき、ほんものの花はわたしの為に咲いていないというところに、とても安心させられました。わたしが何をしてもしなくても、つぼみだった花は少しずつ咲き、枯れ、捨てなければ朽ちていく。何を思ったり祈っても傍観者でしかいられないことはすごく正しい姿のように見え、当時はそれに妙に感動してしまいました(はたから見たら変な人でしかありません)。枯れることを恐れずにゆっくり描くことができたとき、焦燥感がなくなって視界がクリアになりました。

そんな境地に立てたすぐあとに、大好きな猫とのお別れの日が訪れました。子どもの頃から「猫がいなくなったらわたしも死んでしまう!」とばかばかしいことを本気で思って生きてきたのですが、猫がいなくなっても私の心臓は変わらず元気に動きつづけていて、笑えてきます。花の絵を描いていたときに感じたことが現実となってあらわれたみたいで不思議でした。こうして見返すと、またそう思い直されます。

本に載っている花の絵はそんなときに描いてきた絵たちで終わります。
刊行して1年、あいかわらず私は変化のさなかにいるようです。花の絵を描いたり描かなかったりしつつ、変わらず変わりながら生きています。
まだしばらく花の絵を描きそうなので、どこかで見かけた際は「まだやってんのか」とでも思っていただけたら幸いです。そしてこのコーナーでは私情をつらつらと述べてしまいましたが、この本を読もうとするとき、私が花のことを身勝手にとらえたみたいに、身勝手に読んでくれたら嬉しいです。嬉しいというか、それが楽しいなと思います。

ひとまずこのコーナーは最終回です。
またそのときがきたら、この本を開こうと思います。
頼りない文章をここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

2024-09-06

花の本をまた開いてみるコーナー⑥

 
 
スケジュール管理能力がすごくないと、忙しいことに気づかずに「暇だ暇だ」と言えるわけですね。腑に落ちました。焦ってきて目が冴えたので、久しぶりに花の本を開きます。第6弾。
第5弾はこちら。

今回の文章は、本を読むというよりも、本をきっかけに記憶を呼び起こして考察する、というような内容になってしまいました。
たくさん削って完成させたものにゴミを投げつけるみたいな行為な気がしてきましたが、この本に載ってる絵とか文を描いた記憶がおぼろげにあるだけの人の戯れ言と思って、軽く読んでいただけたら幸いです。
 
画像の絵を描いていた時期は、花の絵のほかに空想の窓辺の絵を描いていました。現実にある花や静物ばかりを描いていたから、その反動から空想の世界に惹かれていったという経緯だった気がします。
空想の世界ではすべてがわたしのために存在していて、花はわたしのために咲いてくれ、窓からはわたしが見たい空がひろがっています。
ずっと怯えていますが、とくにそのころは死ぬことが怖くてたまらなく、生きるも死ぬもないような空間に引きこもっていたいと願ったのが、そのようなかたちで絵になってあらわれたのだなと分析しています。2022年の夏〜12月頃まで、そんなテーマの絵を描いていました。
この花の絵には、あの空想の窓辺の空気が漂っているように見えます。美しくて気に入っている絵だけど、どんな花を見ながら描いたのか全然すこしも思い出せません。ぽんぽんした白い丸がなんの植物なのか、そしてどこで入手したのか…。ミステリーです。でもなんらかの花を見ながら描いていたことは思い出せるから、観察はそのときなりにしていたはずです。

2022年12月ごろのブログにこんな一文がありました。
「私から嘘を全部取っ払ったら泥だけが残る。私から発せられる綺麗なものは所詮すべて綺麗ごとだ。悔しい。」
しばらく浸っていたらそんなふうに思えてきて、それで空想の窓辺から旅立って(ちゃんとお別れして)、また現実の花の絵を描き始めたのでした。

2024-09-03

電気羊

困惑しているとき、八方塞がりになった気がする。そこから逃げる手段は、上でも下でも右でも左でもなくて、自分が消えるほかないように思う。あるいは、消えたようにみせかけて、全力ダッシュするとか、手品のように。
わるい人は、今のところ周囲にいない。いい人ばかりが来てくれる。ありがたいこと。ありがたいことなのに、ありがたいと思えないほど追いつめられるときがある。
わたしから見える景色は、わたしによって様々な色合いに変化する。わたしの分別はとても曖昧だ。絵だったらおもしろい、現実だとややこしい。このおもしろさをおもしろいと言ってくれるひとに、現実のこれも受け入れられますかと聞いてみたい、脳みそから直接。ややこしさをおしつけ、むりやりにでも呑み込んでもらわねば生きていけない世界、ではないとあなたは言えますか。しぶとさと図々しさは、言わないだけで必須なんじゃないでしょうか。つよい人はすごいとおもう。立派だとおもう。でも、つよくなければ生きていけないのは、しんどいなとおもう。
いろいろなことを自分のままでとにかく勝手に想像(あるいは妄想)していると、見境なく敵、あるいは加害対象なんでないかという疑いが、じりじりと寄ってくる。ただの自意識の肥大化。事実は、<みんないい人>。みんなそれぞれが、じつは必死に生きている。みんなあたふたして、みんなそれぞれゼエハアしながら、死にそうになりながらぎりぎりで生きている。こともある。ふとしたときにそれを目の当たりにして、力が抜ける。実際は味方と敵でもなく加害と被害の関係でもない。だいたいの場合は。
全力ダッシュで切り抜けた後は、とにかく必死で、またゆるしてくれるところを探さねばいけないわけだけど(どうしてゆるしてもらいたいのだろうと疑問をいだきながら)、もしもダッシュのあいだに、または治癒のあいだに力つきてしまったら、それはなにのなんになるんだろう。せめて自己責任になったらいいと思うけれど自己責任と判断する奴のことはむかつくな、とか。
「わたし」が横にいたとして、いまここにいるわたしができることは、『おちつけ、おちつけ』と無責任に言うほかないような。こういうとき、格言なんてしらんとおもう。いちばん、うるせー!て思ってしまうのだ。おいしいプリンとか渡したらいいのか。でもべつに、いらないなあ。