困惑しているとき、八方塞がりになった気がする。そこから逃げる手段は、上でも下でも右でも左でもなくて、自分が消えるほかないように思う。あるいは、消えたようにみせかけて、全力ダッシュするとか、手品のように。
わるい人は、今のところ周囲にいない。いい人ばかりが来てくれる。ありがたいこと。ありがたいことなのに、ありがたいと思えないほど追いつめられるときがある。
わたしから見える景色は、わたしによって様々な色合いに変化する。わたしの分別はとても曖昧だ。絵だったらおもしろい、現実だとややこしい。このおもしろさをおもしろいと言ってくれるひとに、現実のこれも受け入れられますかと聞いてみたい、脳みそから直接。ややこしさをおしつけ、むりやりにでも呑み込んでもらわねば生きていけない世界、ではないとあなたは言えますか。しぶとさと図々しさは、言わないだけで必須なんじゃないでしょうか。つよい人はすごいとおもう。立派だとおもう。でも、つよくなければ生きていけないのは、しんどいなとおもう。
いろいろなことを自分のままでとにかく勝手に想像(あるいは妄想)していると、見境なく敵、あるいは加害対象なんでないかという疑いが、じりじりと寄ってくる。ただの自意識の肥大化。事実は、<みんないい人>。みんなそれぞれが、じつは必死に生きている。みんなあたふたして、みんなそれぞれゼエハアしながら、死にそうになりながらぎりぎりで生きている。こともある。ふとしたときにそれを目の当たりにして、力が抜ける。実際は味方と敵でもなく加害と被害の関係でもない。だいたいの場合は。
全力ダッシュで切り抜けた後は、とにかく必死で、またゆるしてくれるところを探さねばいけないわけだけど(どうしてゆるしてもらいたいのだろうと疑問をいだきながら)、もしもダッシュのあいだに、または治癒のあいだに力つきてしまったら、それはなにのなんになるんだろう。せめて自己責任になったらいいと思うけれど自己責任と判断する奴のことはむかつくな、とか。
「わたし」が横にいたとして、いまここにいるわたしができることは、『おちつけ、おちつけ』と無責任に言うほかないような。こういうとき、格言なんてしらんとおもう。いちばん、うるせー!て思ってしまうのだ。おいしいプリンとか渡したらいいのか。でもべつに、いらないなあ。