今日は私にとって1年でいちばん大切な日。
大好きな猫と別れてからまる1年が過ぎた。
きのうから実家に帰り、今日まで家族で過ごした。
母は昨晩、猫のことを考えてしまって中々寝付けなかったという。
最近食生活を整えてから寝付きが少し良くなった私は、電車に疲れたからかぜんぜんかなしくならないですっと寝た。
命日だからそのへんに居たりしないかなと思うけれど、やっぱり居ない。
さみしいが、悲しくはない。
振り返ればそこに、手触りのある/においの遺った、思い出があるから。
全部忘れたころに、きっとまた会える。
しかし会いたいと思ううちは、きっと会えない。
私はとても長い時間をかけて、私と猫のあいだにあるものの、供養をする。
私はとても長い時間をかけて、私と猫のあいだにあるものの、供養をする。
それは出会うためとか猫のためとかそんなんではなくて、いつか死ぬときの私へ贈る、命日プレゼントみたいなもの。
いつか、死にたい(もちろん、当たり前に死ぬだろう)。ちゃんと(完璧にとかじゃなくて、後悔なくとかじゃなくて、じゃあなんだろう?わからないけれどもちゃんと、)死にたい。 だから、生きたい。しがみついてでも生きたい。
午前中のまぶしい光の中、自分の足からのびる青い影を見ながら歩いた。
一歩一歩が、精巧なアニメーションのようにドラマチックだった。
そのひとコマひとコマが投げやりだったりていねいだったりしながらも、一瞬で次のコマに進む。
その連なりが歩くという動作をしていていたことを、それに引き込まれそうになりながら思い出す。
日陰になったから、影を見るのをやめて、駅の方を見た。
一歩一歩が、精巧なアニメーションのようにドラマチックだった。
そのひとコマひとコマが投げやりだったりていねいだったりしながらも、一瞬で次のコマに進む。
その連なりが歩くという動作をしていていたことを、それに引き込まれそうになりながら思い出す。
日陰になったから、影を見るのをやめて、駅の方を見た。
駅前の自転車置き場とか、券売機とか、電車の音とかが、思った以上にはっきりとくっきりとしていた。
このようにして、実家から抽象的に確実に遠ざかった。
無自覚な私の心は、もうおぼえてもいないすべてのコマの上にまかれた。
いつかこの連なりが線になったとき、きっと自由に歩けるようになると信じてもいいだろうか。
それとも、ヘンゼルとグレーテルのパンくずみたいに、食べられてしまうかな。
それでも、強くいたい。
堂々と、ただ歩くことだけ。
ずっとだいすき、ただそれだけで良いような、ちがうような
しかし今は、そんな気がする。
2024-1-15