2023-07-28

個展「花」


 
「花」
会期:2023年8月10日(木) - 9月11日(月)
    ※火・水休み
時間:14 - 20時
(DMデザイン:浦川彰太)


またまた、展覧会のおしらせです。
今年に入って3度目の個展です。

東京・高円寺にありますえほんやさん・えほんやるすばんばんするかいしゃ さんにて、花の絵の展覧会をさせていただくこととなりました。
これを書いている今、まだ完成していませんが、花の本の発表もできそうです。
毎日暑いですが、興味のある方、ぜひお越しください。
 

2023-07-25

まっさらな空

 



珍しく早起き出来た。身体が軽いのは最近野菜をたくさん食べているからかな。
昨晩の残りの白米で梅干しおにぎりをむすんだ。

描くために買った小さなばらは背が高く、根にいくほど大きく立派な葉が花を守るように茂っている。花のまわりは急に静かになり、産毛のような(実際は固い)棘がある。野生のばらもこのような身体つきなのだろうか。ばらの花はカーネーションの花びらよりもやわらかく、早く枯れてしまうように思う(扱いがよくないのかもしれないが)。それでも本当に凛としていて、愛おしい。

ふと窓から空をのぞくと、雲ひとつない快晴が見えた。あれが紙だったら、私は何を描けるだろう。学生時代だったらなんだって描いた気がするけど、今は何も描かないかもしれない。あのままでいい。あのままがいい、かもしれない。
そういえばずっと小さなころに、空は神様と天使が描いた絵なんでないかと想像していたことを思い出した。天使が1日に何枚もの絵を描いて、神様が選別して、その日の空が決まるというような。
この空の向こうなんてなくてここは全部絵の中の話だと、今でもたまに思うことがある。電車に乗って窓から見える景色も、横に長い絵を誰かがすごい早さでスライドさせているだけなんじゃないかとか。ボツになったらぐしゃぐしゃと丸めて捨てられて全部なかったことになるんじゃないかとか。…ちょっとそれはさびしすぎるのでこの世界を描いている人は責任を持って良い絵に仕上げてほしい。
責任…?

こんな文章を書いていてもまだ午前中。
これから郵便局へ行き、その後は家でまた作業をする。今日も暑そうだ。
みなさまよい1日になりますように。

2023-07-10

ひとしずく




飾っていた絵の中で一番好きな絵が売れ残った。少し嬉しい。
家で眺めていて、やっぱり好きだなと思った。良し悪しじゃなく、ただ好きという感覚。来年になって久しぶりに見たらどうってことない絵になっているかもしれないけど、それくらいでちょうどいい気がする。
 
次は8月に、花の絵の展覧会が決まっている。
その絵たちは恥ずかしいことに、思い入れが非常に強くある。思い入れというより執着かもしれない。こんな気持ちははじめてで、これとどう向き合ったらいいのか分からずにいる。
どうしてそんな感情が芽生えたのか考えると、おそらくその絵を描いたのが今年の一月、猫の命日近くに描いた絵だからなのだろう。情けなくて自分が嫌になる。
そんな訳で、もしかするとものすごく高値をつけるか、非売にするかもしれない。今ずっと悩んでいるので、値段を見て驚かせちゃったらすみません。今のうちにこっそり宣言しておく。売ってしまえば描いたことも忘れて、私はまた新しい絵を描くだろうに、なんだかなあ。

今日は印刷の工場に行って、絵が出力されるところを見た。
ものすごいスピードで刷られる。原画と同じくらい綺麗な発色、筆跡もうまく再現されている。なんかもうみんなコピーでいいんじゃないかなと思うけれど、そんな話ではないんだろう。
でっかい機械はかっこよかった。戦ったら確実に負ける。頭の中ではなぜかずっとチャゲアスの「On Your Mark」が流れていた。ハイテクすぎて、私の頭はおいてけぼりかもしれない。
大きな紙に面付けされて、それを折ったり切ったりして本にしてくれた。本が生まれる瞬間を見たのかも。
外はとても暑くてくらくらした。最寄り駅に停めてた自転車の椅子が熱かった。

2023-07-01

花のように

 


昨日はすてきな古絵本屋さんでの打ち合わせの後、そこから30分ほど電車に乗って、知り合いの展覧会を見た。少女のスケッチたち。ほとんど額装されていなくて、それらは作品というより、散り散りになった少女の記憶の断片みたい。
少し緊張してしまって、じっくり観ることができなかった。
 
数年前働いていたアルバイト先の女の子の名前を忘れて、強迫観念みたいに、それを思い出さないと気が済まなくなった。昔使っていたSDカードをパソコンにさして、その子の名前をひたすら探した。数時間探すと、シフト表の写真のすみっこに彼女の名前があった。文字を見れば、あ〜そうだったそうだった!と思い出す。思い出してから何かするわけでもなく、それで終わり。
 
最近、亡くなった猫の鳴き声が頭の中で再現しにくくなっていることに気付いた。こうやっていつかは存在ごとわすれてしまうのだろうか、と思うと、かなしくてたまらなくなった。
忘れることがどうして怖いのだろう。どうして。どうして。何度も何度も、自分に問う。それはもはや、私のための執念だというのに。
思い出せなくなったとしても、そこに居なかったことには絶対にならない。繰り返し繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。私たちは、この星を構成するひとかけら。ゆっくりと層が重なって、沈んでいくだけ。ちゃんと祈ろう。ちゃんと。

大好きな人が、ブログを再開された。心のなかで、いいね!を十回くらい押して読む。暮らしの中でぽつりと滴るしずくみたいなものをささやかに編んでいるようで、心が洗われたような心地にさせてくれる。彼女の「つたえたいこと」はやさしく、だから好きなんだろうな。
 

 
 
展示会場では緊張してしまってうまく鑑賞できなかったゆいさんの絵たち。少し前に作ったというちいさな本を購入して、後日自宅でゆっくり眺めた。
帽子を深くかぶってうつむいた少女が、先日会ったときのゆいさんにそっくりだった。
 本の中にいる少女たちは、つまらなそうだったり、心底幸せそうだったり、泣き出しそうだったりする。痛いくらい正直で無邪気で。 
輪郭をつける前の感情を、 生まれたそのままのすがたでスケッチしているようなのは、出会った頃から変わっていないのではないか。
 
伝えなかった想いを、「伝えなかったから無かった」ことにする / されるのが、私はあんまりにも淋しくて。
彼女は大切なものをずっと大切にしていて、尊敬する。