昨日はすてきな古絵本屋さんでの打ち合わせの後、そこから30分ほど電車に乗って、知り合いの展覧会を見た。少女のスケッチたち。ほとんど額装されていなくて、それらは作品というより、散り散りになった少女の記憶の断片みたい。
少し緊張してしまって、じっくり観ることができなかった。
数年前働いていたアルバイト先の女の子の名前を忘れて、強迫観念みたいに、それを思い出さないと気が済まなくなった。昔使っていたSDカードをパソコンにさして、その子の名前をひたすら探した。数時間探すと、シフト表の写真のすみっこに彼女の名前があった。文字を見れば、あ〜そうだったそうだった!と思い出す。思い出してから何かするわけでもなく、それで終わり。
最近、亡くなった猫の鳴き声が頭の中で再現しにくくなっていることに気付いた。こうやっていつかは存在ごとわすれてしまうのだろうか、と思うと、かなしくてたまらなくなった。
忘れることがどうして怖いのだろう。どうして。どうして。何度も何度も、自分に問う。それはもはや、私のための執念だというのに。
思い出せなくなったとしても、そこに居なかったことには絶対にならない。繰り返し繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。私たちは、この星を構成するひとかけら。ゆっくりと層が重なって、沈んでいくだけ。ちゃんと祈ろう。ちゃんと。
大好きな人が、ブログを再開された。心のなかで、いいね!を十回くらい押して読む。暮らしの中でぽつりと滴るしずくみたいなものをささやかに編んでいるようで、心が洗われたような心地にさせてくれる。彼女の「つたえたいこと」はやさしく、だから好きなんだろうな。
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展示会場では緊張してしまってうまく鑑賞できなかったゆいさんの絵たち。少し前に作ったというちいさな本を購入して、後日自宅でゆっくり眺めた。
帽子を深くかぶってうつむいた少女が、先日会ったときのゆいさんにそっくりだった。
本の中にいる少女たちは、つまらなそうだったり、心底幸せそうだったり、泣き出しそうだったりする。痛いくらい正直で無邪気で。
輪郭をつける前の感情を、 生まれたそのままのすがたでスケッチしているようなのは、出会った頃から変わっていないのではないか。
伝えなかった想いを、「伝えなかったから無かった」ことにする / されるのが、私はあんまりにも淋しくて。
彼女は大切なものをずっと大切にしていて、尊敬する。