6月/体をもたないともだち/価値をつけること



今日は休日だったけれど、絵もうまくかけず、身体はだるくまぶたは重く ぼんやりとしている内に日が暮れていた。
朝に本を読み終って満足して、何もできていないじゃないか!と気付いてから、むだにトイレをぴかぴかにしたり、珈琲を2杯も淹れて飲んだり、(むだに)大きなパックの飲むヨーグルトを一日で飲み干したりした。夜になって、早めにお風呂に入った。
お風呂に入ると、すかっとして、文章を書きたい気持ちになったので、今こうして書いています。
 

 
今日の不調は、五月の日々の不調と比べると、まったく異なっているように感じる。
とくべつ悲しい事が起こった訳でもないのに漠然と元気がなくて(元気がない間に、本当に悲しい出来事が起こってしまったけれど) 漠然としたなやみごとを 漠然と考えるしかできず、何も形にできず、部屋も散らかったまま、薄暗い部屋でぼやぼやしていることしか出来なかった。そのときは、水を飲むのも忘れていたので、今はずいぶん健康だと思う。(飲み過ぎてるけど)
 
少し前まで油絵を描いていて、すごく楽しかったが、今は生活を優先しようと思い、五月がおわったあたりのころ、絵と画材をざっと片付けた。わたしはまちがいばっかりをするので、上から何度も塗り直してしっくりくる色や形をさがすという描き方をしているのだけど、その描き方のせいで、油絵具がぶ厚くなっていく。油絵の具というのは、普通でも乾くのがゆっくりなのに、その厚みのせいで、かなり待っても乾いてくれなくて、私の生活している部屋の半分以上が乾かない未完成の絵に占領されていた。
掃除をしているときに絵を踏んでしまって足に絵具がついてあたふたして、剥げてしまった絵具をもとにもどして。そういうことを繰り返しているうち、これでは、何もはじめられない...身軽さ、気軽さを重視しなければ、わたしはこのうつうつとした日々から抜け出せないかも!という切実なもやもやが目の前に迫って来た。
それで今は、油絵の具と油絵を部屋の上のほうになんとか片付けて、油絵の具と対照的(だと思っている)な水彩絵具(文房具屋さんで売っているような子ども用の水彩絵具)を使って絵を描いている。
これが割と、今の自分に合っていたみたい。部屋も広く綺麗になって、ちゃんと喉も乾くし…よかった。



わたしはどうしてか、昔からずっとインターネットが好き。
もともと、インターネットについては、みんながみんなをあたりまえに差別しているひどい場所だと思っていた。でも、みんながみんなと、本当のともだちになれる世界だとも思っていた。なんとも、極端な場所だけれど、その極端さが、(いきすぎなところはあるけど)健全な気がして好きだった。肉体や、性別や、思想、過去、そういうものを、全部なしにして、ピンポイントな部分でだけの、だれでもと、そのとき限りのともだちや仲間になれること、そこがすごくよい。言葉というのは、文字というのは、もともと形のないものをむりくり表現するために使うツールに過ぎないから、もしかすると「本当の」とは言い切れないかもしれないけど、はじめからまるはだかで交流できる世界はあまりない気がする。はだかというより、体をもたないものたちかな。インターネットは、体をもたないともだちと、本質のところまで迫って考えることが簡単にできるような場所。最近、そんなインターネット像が、少しぼやけてきている。(使い方によって、昔と変わらずやれるのかもしれないし、時代のせいにしすぎるのは、都合が良いともわかるけど)最近、どんな顔してそこに存在したらいいか、わからなくなるときがある。知らぬ間に、あふれでてしまいそう。けれど、まだその、わたしのなかのインターネット像は、消えていなくて、まだ信じていて、多分、だから、ここが好きで、(転々とし、思い出したくもないようなものばかりだけれど、)結局ブログも、十年くらいやってることになるんじゃないか、、。

 現実での私というのは、人見知りで、心を開いた人としかできるだけしゃべりたくない。たくさんしゃべると、しばらく一人になりたくなったりする。が、ずっと一人だと、誰かと喋りたくてたまらなくなる。できれば肉体がない状態で話せたら、もっと良い。肉体がなかったら、あなたや、あなたと、もっと深い所まで、いっぱい話せる気がする。
この間買った小杉小二郎の画集に載っていたエッセイに、「独りが好きでなければ絵が描けない。しかし人が好きでなければ絵は生きない」という文章が載っていて、共感した。絵のことを大切に思っているのに、人に見せたくなったり、感想を求めてしまう矛盾をいだいていますが、それがすこし解明されたように思う。と同時に、わたしがインターネットにいつづけてしまう理由も、似たようなことだと思う。



このあいだ、ご縁で蚤の市のお手伝いをさせてもらった。そのお店では、拾って来た石も売っていて、それぞれ値段がつけられている。
で、たくさんの人が、その石をうれしそうに買っていっていたのが、よかった。そこに落ちている石をひろって持ってかえることと、店にならんだ商品としての石を買って持ってかえること、同じ石でも、魔法のように全然ちがうものに見えるのかも知れないと思った。
(もちろん並んでいる石はどれも魅力的で、落ちていたらぜったい拾うくらい、すてきな石ばかりだけど)そこでのお金のやりとりは、とっても綺麗で健全だと感じた。前に、自分の個展で、お客さんに絵を買っていただいたときも、お金がそんなふうに思えた。価値をつけるという行為は、本当に魔法のよう。興味深い。し、お店って面白いなあ と しみじみ思った。
インターネットについて書いた文章に力を込めすぎてお店のお手伝いのことについて書く体力がなくなってしまったけれど、とにかくよい経験ができてよかった。(ありがとうございました。)価値や、お金について、これからはすこし楽しく考えてゆけそうな気がする。
 



とっても長い文章になってしまいました。ここまで読んでくださった方はすごい!ありがとうございます。いよいよ六月になりましたね。毎年六月になると、友部正人の「6月の雨の夜、チルチルミチルは」を聴きます。
日中は小川美潮や坂本龍一のカッコイイ音楽を聴いてノリノリでしたが、さっき六月になったことを思い出してからずっとこれです。これを聴くと、いままでの六月におきた色々な出来事を、雨のアスファルトのにおいといっしょに思い出されます。みなさんもよかったら。(YouTubeへのリンク→

六月の雨の毎日を、健やかにたのしめますように。

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