愛しさ、愚かさ、美しさ


 
最近、人について考察するのがとても楽しい。人の事を考えれば考えるほど、自分の事が解明されていく。
他人の存在を知って初めて自分の輪郭が浮き彫りになるので、これは版画に近い感覚の気持ちよさ。
今日は頭に太宰がふわりと湧いた。制作しているときに、彼について考察した昔の番組を流してみた。それがすごくおもしろかった。
(リンク→) 
 自分がもしも、「小説」(そのもの)だとしたら太宰治のことを恋多き人なんて呼べないだろうと思う。ちゃんと私(小説)だけに、ずーっと恋している。飽きもせず、一途だったのは、小説、というか、作品、というものの包容力が、宇宙レベルといいますか、とにかく、とんでもないからかもしれない。わたしも、或は、そう。絵というものの母性や包容力に、何度甘えてきたか。絵のほうが私に飽きて嫌いになってしまったとき、ものすごい復讐が待っていそうで怖い。そんなこと無いと良いです。
太宰と、生身で接するのであれば、私は、すごく嫌いになるだろうと思う。嫌いすぎて、むしろ、仲良く出来る気がする。好きにはならないけれど、でも、ものすごく愛すと思う。(愛してしまうと思う!)
昔読んだ太宰治のエッセイで、思い出した文を引用します。 
これを読んだときに、太宰治と長電話をしたくなったのです。



 もう、小説以外の文章は、なんにも書くまいと覚悟したのだが、或る夜、まて、と考えた。それじゃあんまり立派すぎる。みんなと歩調を合せるためにも、私はわざと踏みはずし、助平ごころをかき起してみせたり、おかしくもないことに笑い崩れてみせたりしていなければいけないのだ。制約というものがある。苦しいけれども、やはり、人らしく書きつづけて行くのがほんとうであろうと思った。
 そう思い直して筆を執ったのであるが、さて、作家たるもの、このような感想文は、それこそチョッキのボタンを二つ三つ掛けている間に、まとめてしまうべきであって、あんまり永い時間、こだわらぬことだ。感想文など、書こうと思えば、どんなにでも面白く、また、あとからあとから、いくらでも書けるもので、そんなに重宝なものでない。さきごろ、モンテエニュの随想録を読み、まことにつまらない思いをした。なるほど集。日本の講談のにおいを嗅いだのは、私だけであろうか。モンテエニュ大人たいじん。なかなか腹ができて居られるのだそうだが、それだけ、文学から遠いのだ。孔子いわく、「君子は人をたのしませても、おのれを売らぬ。小人はおのれを売っても、なおかつ、人をたのしませることができない。」文学のおかしさは、この小人のかなしさにちがいないのだ。ボオドレエルを見よ。葛西善蔵の生涯を想起したまえ。腹のできあがった君子は、講談本を読んでも、充分にたのしく救われている様子である。私にとって、縁なき衆生しゅじょうである。腹ができて立派なる人格を持ち、疑うところなき感想文を、たのしげに書き綴るようになっては、作家もへったくれもない。世の中の名士のひとりに成りせる。ねんねんと動き、いたるところ、いたるところ、かんばしからぬへまを演じ、まるで、なっていなかった、悪霊の作者が、そぞろなつかしくなって来るのだ。軽薄才子のよろしきかな。滅茶な失敗のありがたさよ。醜き慾念の尊さよ。(立派になりたいと思えば、いつでもなれるからね。)
 
 


 
 あと、こちらも先日ふと思い出した、前に描いた漫画も載せます。