歩く大木

 

 
花の絵の区切りがついて、おやつ買いがてら散歩に出たら、電線より細い月が光っていて、思わずカメラを取りに帰った。冬の夕空。帰る頃には空は青く静かだった。この青はカメラにはおさめられないし、どんな絵よりも綺麗な色だと思う。青い時間に歩いていると、自分が大木のように思う。不確かなものの蓄積を感じ、多幸感に包まれ、それで、結局、どうしようもなく淋しくなる。

<変わること>はとても難しいが、<変わろうと思うこと>はあっけないほど簡単で、その決意に嘘をつかない自分でいたらいい。冷静になればそう思える。何回も何回も頭の中で唱えた。失われた部分を、感傷も着色もなくそのままに、いつか見つめたい。そのときまで大事にしていたい。幻覚や誘惑に惑わされないように、しっかりとした土壌を築きたい。私のいちばん大事なことはそれであって、その他は幻想で誘惑だ。ばかげたことに気をとられすぎている。私は、変わりたい。強くも弱くもならなくていい。ただ、大事なことを大事に出来る、土壌を築きたい。未熟だ、未熟だ、と言ってしまうのは心のスキマがあるということで、最近の自分の場合、スキマは出来る限り具象的なもので埋め尽くしたく、タンパク質か歩くかのどちらか埋めたくて、今日はタンパク質を80gとれた。歩数は全然。
見定めろ、見定めろ。今日も明日もあさっても、がんばろう。