怖くて、動くたびに戦慄しながら描いた。
虫を怖いとか思わず、仲間のように思える人だったらよかったのにとか。ためいきと同じようにふとしたときに出る雑な願望、執着。こんなくだらないものたちにずっと囚われて生きている。
昨日は本屋で料理本を何冊も立ち読みして、一冊も選べず帰った。本の先にある自由でしなやかな暮らしとは似ても似つかない自分の生活に悲しくなってばかばかしくなった。わたしはいつでも何かから脱したいと思っているが、脱したその先の風景は本当に自分なのか?電車でよくわからなくなる。
負わなくていい傷ばかり作って、今日は起きたら13時。何に疲れているんだと振り返るとまたばかばかしくて嫌になる。せめてそこに悪意があったならなどと、腑抜けの言い訳。これは勝手に転んでできた傷。慢性胃炎もきっとそんなふうにして出来たんだ。ひたすらばかばかしいが、これをなかったことにすると自分という存在が消失することに気づく。笑える。この気持ちまるごと大事にして生きていくよと小さく誓う。
本屋は多種多様な優しさに溢れていて凄かった。そのひとつも受け取れないというのはやはり自分自身が凝り固まっているところがあるということ。すぐに他人の物語に吸収されそうになる。…って似たようなフレーズがB'zの曲にあったあった。濁流BOYだ。まさに。飲み込まれちゃいけない。まさに。濁流の、BOY。です。
そんなこんなで今日はぼうっとしてれば瞬く間に時間が経つ日だったので、これを利用してパンを捏ねた。いつもなら発酵の待ち時間が退屈だったけど今日は本当にあっというま。ついでにひじきの戻し時間も一瞬。今度からこんな日にはパンを焼けばいいのかもなあ。
花を描きまくったら花を愛でる人になれるんじゃないかと思っていたけども、描きまくっても(まだ足りないのかもしれないが)根本は変わった気がしない。が、絵を観てくれる方からは花が好きな人だと思ったと言われることが増えた。名前もおぼえていないけれど描いた花はみんな好きで、でも花屋に並ぶ花や野に咲く花を見て好きだなんて思わない。むしろ虫と同じように恐怖心がある。これは花好きと呼べるのか。呼べない気がする。 実家には大好きな猫がいるし、外で転がってる猫を可愛いとは思うが、実家にいる(・いた)猫は猫じゃなくても大好きだったはずで、だから自分のことを猫好きだと思うと違和感があって、それに近い。
「花を愛でる人」とは誰なのか。愛が多様であるならば愛で方だって多様であるはずで、じゃあわたしだってわたしのやり方で花を愛でられているのだから、、花好きだと括れはしないけれど、真っ当に達成しているわけで。料理だって生活だってなんだって、自分のやり方で、自分に嘘をつかずに重ねていけばいいだけなのだ。