なみだがひとつぶ

 
 
躓くときには、ほんとうに、あっけなく躓く。B'zとアドラー心理学で無敵だったのは、やっぱりただの思い込みだった。人生に無敵はない。実際はあるのかもしれないけれど、わたしのようなひとには「ない」くらいがちょうどいい。
 
数日前に、ひどい目眩があった。しょうもないことで落ち込んで寝込んで、久しぶりに起き上がって、シャワーをあびた後のこと。目が見えなくなって、耳が聴こえなくなって、立っていられなくなった。ゆっくりと意識が遠のく。そのあいだ、「死にたくない」より「この苦痛から早く解放されたい」と願っていて、おどろいた。意識は飛ばず、今度は猛烈なお腹の痛み。冷や汗が久しぶりに流れた。そのときも、不安より、痛みばかりを感じていた。
痛みから解放されたあとには、いつもの通り、ちゃんと不安がやってきた。あの目眩はなにか大変な病気の兆しなんではないか、この後すぐに亡くなるんでないか、とか。猛烈に調べだしたら、大変な病気ばかりが目に入る。
痺れなどはなく、胃の気持ち悪さと痛みだけが残るから、消化器内科に行った。3時間待った。
ようやく呼ばれて帰り際、お医者さんに「症状でググらないでくださいね」と言われた。心配になってしまうんです、と伝えると「わたしたちはこの道でウン十年やっているのだから、ひとまずは信じてみてください。とりあえずは処方した薬をちゃんと服用してみてください。それでも治らなかったら、もう少し精密な検査をします。とにかく、一旦、大丈夫なんです、心配すると、余計悪化しますからね」と言われた。ハイッ!と言って帰る。いいお医者さんだと思った。
 
しかし、たぶん、死ぬときも、こうやって躓いたみたいに、あっけなく死ぬのだろう。やり残したこととか後悔とか、思い出す隙もなく。毎日浮かんでくる不安は、裏返った架空の安心、みたいなもの、かな。
祖父が亡くなったとき、涙をひとつぶ流したらしい。なんの涙だったんだろうと時々思い出す。祖父はわたしと違って病院がきらいで、病院についたときには身体がぼろぼろだった。亡くなる寸前まで、靴下を編んでいたんだ。冬。ちょうど今ごろだったかな。頑固なひとだったけれど、孫のわたしにはいつも甘かった。なんでも作ってくれた。悪いことをしたとき、謝れなくても許してくれた。だっこしてくれたとき、いつも酒臭かった。
 あの涙は、もうちょっと生きていたくてあふれたのか。死ぬのが怖くて泣いたのか。それとも、すべての感情を涙として最期に見せてくれたのか。あるいは、ただの生理現象か。わからない。
わたしはこの世から去るとき、涙を流すのだろうか。流すなら、どんな涙を流すかな。
 
「大変なひとは大変だけれど、そのひとのほんとのほほえみで、助かるひともいる」
さっき、電話で聞いたこと。思い出したらそのままの言葉は行方不明で、もしかしたら全然ちがうことを話していたかもしれないけれど。すっかり乾いた土に、きれいな光と雨が降ったみたい。息ができる。
展示に来てくれた方がチョコレートをくれた思い出が、ぽこんと浮かんだ。わたしもその方の展示に行くときには、チョコレートを持っていくことにしている。
このうれしさの正体が、その言葉を聞いて少しだけ分かった気がした。
それで、わたしも懲りずに生きていていいのかもしれないと思った。