きれいな外 / 銃声

 

↑上、nakabanさんのDMはがき
↖︎左、後ろ姿が私ににている、といただいたポストカード
↗︎熊谷隼人さんの絵。三つの絵ともこの絵に似てるみたいに見える。
 
5月の展示のための絵が描き終わり、展示前の打ち合わせも完了。心は少しずつ落ちついてきた。今日は絵を描かず、たまってきた雑務をして過ごした。 3月分の領収書を整理したり、自分見つめ直しノートに最近のことを書き加えたり。こういう時間はなんとなくでなく、確実に毎月とった方がよさそう。お昼ごはんには、昨日の残りのロールキャベツを食べた。ロールキャベツが一晩たってもっとおいしく変身していた、感動。ありがとう。
日が暮れてから、散歩がてら近所のスーパーへ。外はとてもきれいだった。家から見る外よりも、外から見る外が、一番きれいだと思った。青い夕暮れの空を背に真っ黒い木の枝が細かく分かれているところを、こんなに美しい風景があるんかと思いながら見た。もうすこしがんばって、どんなときでも外に出られるようになったらいいのかもしれない。散歩をしたい。
 
自分見つめ直しノートに、戦争について思うことを書き加えた。それについて使った言葉はどのページよりも多くなって驚いた。
すこし前まで、私は戦争の「せ」の字も見られなかった。目を背けていたという訳ではない(と自分は思ってる)。最近になって少しずつ調べている。調べるほど、それに関連する言葉については気をつけなければならないと感じる。今も、とても気をつけて書いています。
私に(あるいは私たちに)できること/したほうがいいことというのは、冷静ではいられないような状況であっても冷静でいるように努力することではないだろうか。
誰かを批判したい気持ちは決してない。全ての人の全ての想いを赤の他人の私が否定する筋合いはないから。しかし肯定しなくたっていい。そのままでいることは悪いことではないと、そう思いたいから思う。だからそういう角度から見てもやはり冷静さは必要。急ぎつつも冷静に。冷徹さも必要かもしれない。つまりは冷たさが必要だと思っている。粛々とできることはあるし、している人もいる。そこに愛情の有無はなんの関係があろうか。どんな視点から見ても戦争は嫌だ。恥である。当たり前に反対である。それを本当に当たり前に掲げながら、なるべく冷たくいたいと思っている。個人的な話で言うと私はこれから先<寄附ができない>とか<なにもしてあげられない>ということで罪悪感をおぼえないし、謝りもしない。わたしは「いまそこで起きている状況」にずいぶんひっぱられ、こんなに時間がかかってしまった。
すこし前に夢で日本でも戦争が始まった。銃声には、3日で慣れた。私はずっと逃げていた。 冷静で冷徹だった。自分と自分の大事な人だけが助かればいいと本気で思いながら、死体を横目に逃げた。いつものぼんやりはどこに行ったのか、覚醒していた。それ以外のことがあまりにもどうでもよく、ただ助かりたかった。それしか生き残る術はないと思った。